第37幕 果ての逢瀬/銀の約束
群がる人型たちを薙払いながら、歌声と白い姿を追っていく。
―――。――――。――。
もう迷いはしない。
歌声はちゃんと正解へと導いてくれていた。
廃都の中心。時計塔へと。
度々鳴った鐘の音は、この世界から聞こえてきたものだった。恐らく彼処が敵の居城だろう。
白い姿は、吸い込まれるように時計塔の中に消える。
立ち止まって錆びた壁面を眺めていると、やがて、一つの扉を見つけた。
固く施錠された扉を開け放つ。
塔の闇に踏み込むと、景色は一変した。
枯れ錆びた木々が乱立する森の中、一本だけ比較にならないほど巨大な樹が聳えていた。
しかし、あれほど鬱蒼と生い茂っていた葉は落ち、幹は筋張って醜くなっている。
その樹の幹に両開きの扉が付いている。
手を掛け力を込めると、難なく開いた。
中は暗く、古びて朽ちかけたエントランスがあった。
――。―――。―――。
歌声は階段を昇っていく。
だが、もう歌声を追う必要はない。
目指すところは分かっている。
二階の部屋の一つの前で、歌声は止んだ。
ドアを開ける。
一見して子供部屋。そう、事実、ここは子供部屋だった。
散乱したぬいぐるみ。街に行く度にねだられた。部屋の隅の箪笥。きっとまだ着ていない服が丁寧に畳まれているだろう。ベッドの脇に積まれた絵本。夜な夜な朗読してやった。
ここはあの子の部屋。
主を亡くした、もう二度と使われることのない部屋。
そして、俺の未練。
迷い、葛藤、自責、後悔。至らなかったもの全てを詰めた箱。
ずっと、ここで待っていた。
ゆっくり手を翳すと、鏡が割れるように、世界が砕け散った。
風のささやきを聴こう
いつもあなたを届けてくれる 爽やかな風のささやきを
星のまたたきを聴こう
あなたを想う数だけ輝く 眩い星のまたたきを
海のさざめきを聴こう
あなたを感じるたびに揺れる 凪ぐことのない海のさざめきを
あなたの歌を聴こう
遠慮がちに回される腕 不器用な優しさの歌を
傷だらけのあなたは ふれることさえ恐れて
ガラスの器に心 閉じ込めた
わたしを出して 器の中に独り
わたしを出して 器の外に独り
ふれられないなら せめて傍に置いて
その温もりが愛だと あなたが気付くまで
砕けた世界の片隅で、美しい歌声に耳を澄ます。
暖かく、柔らかく、懐かしく、そしてどこか物悲しい旋律は、何度も聞き覚えのあるもの。
背中を向けた少女は歌う。
少女がその短い生のうち、唯一を誓った祈りの為に。
少女は歌い続けた。それが彼を導く標になると信じて。
そして今、少女の祈りは彼に届く。
世界の砕ける音が、少女の舞台に幕を告げた。
「ようやく。ようやく、お前に逢えた。―――――待たせたな、ヨエル」
「ええ。やっと見つけてもらえた。―――――逢いたかったわ、ジン」
振り向いて少女が答える。月明かりのような髪が輝く。
いざという時に掛ける言葉が見つからず、ただヨエルの頬に触れて撫でることしか出来ない。それでもヨエルは目を閉じて身を委ねてくれた。
「お前は俺を襲わないのか」
やっと口にしたのは、全くどうでもいいことだった。
「わたしも他の幻と変わりないわ。ジンの作った思い出という殻に、あなたを襲わせるプログラムを入れる。あなたはそれで身も心も削られて、後は煮るなり焼くなりされるだけだった。わたしはそこに介入した」
「介入?」
「ええ。ジンの指輪に残留していた情報は、この世界に入った瞬間に記憶の殻を見つけて、それを機能ごと乗っ取ったの」
殻はもともと彼女と縁が深い。言わば、肉体と魂の関係に近い。
仮の肉体と指輪に残された僅かな魂。引かれ合うのは当然のことだった。
それから、ずっと待った。
迷い込んだ彼を導く為に歌い続けた。
「では、お前はやはり、」
「ええ、ヨエルは死んだわ。それは紛れもない事実。でもね、ここは他でもない、ジンが創り出した世界。あなたが望むのなら、永遠に一緒に居られるわ」
「・・・・・それは」
それは、なんて、誘惑。
望めばいい。
一緒にいようと。
永遠に二人で暮らそうと。
たったそれだけで世界は変わる。
元々この世界はその為のもの。ジンとヨエル、二人が揃って初めて完成する楽園の箱庭。
何より、あれほど望んだことではないか。
どれだけ手を伸ばしても届かなかった希望が、すぐそこにある。
求めない方がおかしい。
あの子もきっと望んでいる。
ヨエルを見る。少女は淋しそうに微笑っていた。他には何をするでもない。全ては委ねたと言うように。
跪き、縋るように手を伸ばす。少女は穏やかに微笑んだまま。
堪えきれずに抱き締める。答えはもう決まっていた。
「すまない。俺は・・・・・」
その先を口に出来ない。
否定するわけではない。なのに、口にすればどうしても否定することになってしまう。それが、例えようもなく悲しかった。
「うん。分かってる。そんなジンを、わたしは好きになったんだから」
小さな腕がそっと背に掛かる。
ヨエルは母が子をあやすようにその胸に抱くと、掌で頭を撫でた。
「また会えてよかった。心配してたんだけど、予感的中だわ。ジンはホント、わたしが居なくちゃダメなんだから」
「・・・・ああ。俺は、お前が居なくちゃダメだ」
それでも。だからこそ。
伝えなくては。
「俺は、お前の気持ちを受け止める覚悟がなかった。それがどんなものであるかも知らずに、ただ受け取ろうとした」
逸らしたくなる衝動を抑え、真っ直ぐにヨエルの目を見る。眩い光輝を放つ星々が双眸の中にあった。
「俺はこの気持ちを信じる。だから、もう一度伝えさせてくれ」
深く、息を吸う。
一瞬だけ、懐かしい記憶の群れが脳裏を過ぎる。
それら全てを、この一言に込める。
「―――――ヨエル、お前を愛している」
あの日に交わした、二人の誓い。
本当の意味で伝えられなかった言葉を、今一度口にする。
「・・・・・うん。わたしもよ。ジン」
ヨエルは美しい笑顔を浮かべると、目元を擦り、また向き直った。
「ねえジン。わたしとの約束、覚えてる?」
「幸せになって、だったか?」
「ええ。どう?守れそう?」
「どうだろうな。まあ、前向きに頑張ってみるよ」
精一杯を込めて答える。上手く笑えただろうか。
そっか。ヨエルはそう頷くと、今度は無邪気な笑顔を作った。
「それじゃあ、わたしはそろそろ行こうかな」
告げられる夢の終わり。
分かっていた。この時間も永遠ではないと。
いつかは終わる、どこにでもある時間と同じだと。
「もう大丈夫だよね。きっとジンは上手にやれる」
そうに違いないと少女は言う。その無垢な期待を、一体誰が裏切れようか。
ヨエルは俺の手を取ると、優しく握り締めた。
「忘れないで。私の心はいつでもジンと共にある。ジンは、独りじゃないから」
いつかのように、ヨエルの体が輝く粒子に変わっていく。
しかし、その顔は穏やかで、『正』に満ち溢れていた。
「・・・・ずっと、独りだと思っていた。でも、俺にはいつだって拠り所があった。まだ何をしたらいいかは分からない。分からないが、きっとそれを護っていれば見つかると思う」
ヨエルの手を握り返す。
胸元からそっと一輪の花を取り出して、ヨエルの髪に挿してやる。
「『愛を信じる』だってさ。俺は、やっとこの感情に名前を付けることが出来た。ありがとう、ヨエル。俺は行くよ」
ヨエルは少しだけ目を丸くすると、ふっと笑った。
「そうだね。いってらっしゃい、ジン。またどこかで会いましょう」
そして、最後まで笑顔のまま、ヨエルは消えた。
「・・・・・ああ。必ず」
きつく拳を握り締める。
何も残ってはいやしないが、確かな温もりがここにある。
さあ、行こう。この世界を閉じるために。
な、何だこれは・・・? http://twitter.com/#!/alice_starbunny