第36幕 愛華/彼の名は
のわー。久し振り
暗い。
結局、何一つ理解していなかったのだ。
世界の一部になって、全てを知った気になって、そして。
一度も何かを守れたことなどなかった。
遥か昔、誰かを守るためにこの力を手に入れたはずだったのに。
守れるはずがない。
何故なら、この力は殺す為のもの。
それすら理解してなかった。
いや、理解したくなかった。
それは何て愚かで、儚い希望。
眩しい。
何も見えない暗闇なのに、身を灼く責め苦に苛まされる。
ならば、より暗く、深く、黒く。
闇より昏く、濃く染まれ。
この身は森羅万象を飲み込んだ、この世で最も濃い混沌色。
天秤の端を理解しただけで満足するなど、片腹痛い。
全てを貪欲に飲み込め。
全を知って一を知れ。
それが極天へ至る道。
思い出せ、俺の名は―――――――
「お兄さん!」
「・・・・・シシリー」
目の前の少女の顔は、何故か泣き出すように歪んでいた。
窓の外を見ると、煌々と月が輝いていた。
「・・・・・?」
時計がズレている。
何があったのだったか。
「お兄さん、昼間に外で倒れてたんですよ。覚えてないんですか」
そうだったのか。
それは事実で。/事実でない。
認識がズレている。
身を起こして、焦点を合わせるべく、螺旋を巻く。
自分の部屋。棚の上の花瓶。掛けられた絵画。泣き出しそうな少女。
カチカチカチ。
ズレた世界が姿を取り戻していく。
ふと疑問に思い、少女に尋ねる。
「何故、お前は泣いているんだ」
頬を伝う涙を拭う。
シシリーは慌てたように身を捩った。
「それは、あの、心配したから・・・・・」
「何故、お前が心配する?」
シシリーは俯いて答えた。
「それは、お兄さんのことが、好きだから・・・・・」
カチン。
音を立てて焦点が合う。
斯く在れと望まれた漆黒の龍は、在るべきままに少女に牙を剥いた。
シシリーの首を掴むと、身を返してベッドに押し倒した。
そのまま馬乗りになり、首を締め上げる。
「何だそれは。何が好きだ。何が愛だ。俺はお前のことなど何とも思っていない!どうだ、それでも愛と言えるのか!」
「言えます!!」
シシリーは苦しげに首を絞める手を押さえ、しかし毅然と言い放った。
「私はお兄さんが好きです!無愛想だけど本当は優しいところ!文句言いながらわがままに付き合ってくれたところ!私はお兄さんが好き!その心は、誰に何と言われようと変わらない!!」
その気迫に気圧される。
思わず手を離すと、シシリーは勢い良く起き上がって真正面から見つめた。
力強く、訴えかけるような瞳。
それは、何度も見覚えのある瞳。
その強さを前に、目を逸らさずにはいられない、直視出来ない輝き。
「私の心は私だけのもの。私が私の心を信じる限り、例えお兄さんでも私を止めることは出来ません!」
希望、熱意、少女の陽の気が、体の奥底、魂を輝かせる。
あまりの眩しさに目を覆う。
だが、問わずにはいられなかった。
「ならば、心とは、お前が信じるものとは何だ?」
「私です!」
即答だった。
「私が私の心を信じるからこそ、私はここにいると信じられるんです。それが私の証明です」
愛とは他者に注ぐと共に、他でもない自分への自己証明であると少女は言った。
そして、それを信じなければ愛などではないと。
「・・・・・俺は、俺の心は」
信じられるのか?
俺は俺であると。
あの子を愛した俺は、本当であると。
・・・・・信じられる訳がない。
この俺が、人間の心など。
思い出せ、俺の名は―――――――
「思い出して!お兄さんの名前は―――――――」
「そうだ、俺の名は漆黒大天。俺は、」
「何ですかそれ、違うでしょ?お兄さんの名前は―――――――」
―――――ジン。
懐かしい響きを聴いた。
それは遥か昔、愛する人の為になりたいと祈った、一人の少年の名前。
そして、彼のはじまりの心。
「思い、出した―――――」
そうだ、俺は。
誰かの為に、この力を―――――――
かちん。本当の欠片が組み合わさる。
見下ろせば、両手は血に塗れて赤黒く汚れている。
足は萎えて、翼は傷だらけ。
それでも、まだ飛べるだろうか。
あの憧れた空を、もう一度。
「・・・・・・ああ」
息は整った。
少しだけ、ほんの少しだけ、遠回りをしよう。
無駄でもいい。
意味が無くてもいい。
今抱いているこの祈りが尽きるまでの、ほんの少しの遠回り。
「シシリー」
「・・・・はい」
声を掛けると、伏せていたシシリーは顔を上げた。少し鼻声になっている。
「散歩に行ってくる。必ず戻るから、待っていてくれ」
「・・・・待って、お兄さん」
シシリーは立ち上がると、生けてあった赤い花を抜き取って手渡してきた。
「カーネーション。花言葉は『愛を信じる』。きっと、お守りになるから」
「・・・・有り難う。いってくる」
「はい。いってらっしゃい」
「・・・・・」
目を閉じて、新鮮な夜気を肺一杯に吸い込む。
再び目を開けたとき、そこは赤錆た廃都だった。
「――――炎狼、炎虎」
二人の僕を呼ぶ。
・・・。
・・・・・。
・・・・・・・。
「――――ヒンテ、フォル」
「は、ここに」
「はーい、ここにっ!」
炎の風が渦巻き、黒衣の少女たちが姿を現した。
「何ですぐに来ない」
尋ねると、たちまち耳を逆立てた炎虎がまくし立てた。
「ご主人様!この間フォルたちを適当にあしらっておいてそんなこと言いますか!ヒンテ姉なんてショックで寝込んじゃったんですから!」
「ま、待て!それだけは言うなと!」
そう言う炎狼の目元は、心なしか荒れている。
「分かった。分かったから」
ぽんぽん。二人の頭に手を置き、宥める。
「悪かった。心配を掛けたな。もう大丈夫だから、お前たちの力を貸してくれ」
炎狼と炎虎は気持ち良さそうに目を細め、すぐに鋭い目つきで前方を睨んだ。
『――――――――』
青白い巨大な犬に似た―――あらゆる動物霊が混ざり合い、正体が分からなくなった化け物が唸る。
「了解ー!あのわんちゃんぶっ殺せばいいんですね!」
「ああ。―――――俺は先に行く」
「畏まりました。では、御武運を」
二人の体が燃え上がり、炎を纏った狼と虎が飛び出す。
二匹の黒獣は高く咆哮を上げながら、一直線に外敵に向けて走る。
後は任せておけばいい。
背を向けて歩き出す。
遠く、やはり導くような歌声が聴こえる。
やがて歌声以外の全てが抜け落ち、世界は暗転した。