第33幕 異世界/最良の友
目の前の廃屋は、外見からして一階立ての平屋だった。
平屋の中に入ると、そこは外見通りの廃墟だった。
ぼろぼろの壁に朽ちかけた床板。人がいた形跡もなく、文句のつけようのない廃墟だ。
「んー?確かに結界の探査に掛かったはずなんだが・・・・」
他の部屋にも何もない。
魔力の残滓もないし、完全に不発だったか。
「仕方ない。もう一度やり直すか・・・・」
そう言って立ち去ろうとして、
「―――――――――なんてな」
何もない空間に、拳を打ち付ける。
鏡を割るような音と共に世界が砕け、景色が一変した。
「・・・・・ふむ」
廃墟に変わって現れたのは、どこかの洋風な部屋だった。
こちらには、まだ人間がいた跡が色濃く残っている。
「・・・・・体温が残っているな」
どうやら、俺の『眼』に捕まったことに気付き、慌てて逃げていったらしい。
部屋には、大仰な机、燭台など雑多な家具諸々。
こんなところになければ、至って何でもないものだ。
『空間魔法』。連続しない空間の壁を壊し、元ある空間と空間を繋ぎ合わせる魔法。
細かい座標計算や、壁を壊すのにかなりの力を要するため、人間にとっては上級の魔法に位置する。
しかし、これはその更に上位。空間の狭間に別の空間を作り出す、擬似的な異界を創造する業だった。
机の丸めた紙の束や、本などの資料は、ほぼ全て空間魔法、そして時間に関係するものだった。
誰のものかは解らないが、どのような人物かは想像がついた。
つまりは、どんな人間をも虜にする幻想に取り憑かれているのだ。人種、貴賤、あらゆる格差を超えて人々に夢想されるそれらは、ある意味、概念破りを名乗る我々と等しく、この世界に君臨するモノなのかも知れない。
「だとしたら、間違いなく敵だな」
とにかく、例の異界についての情報はなかった。
あれがどのようなものであれ、相手を捕まえなければならない。
この空間が魔法使いの工房ならば、もっと情報があるだろう。
そう考えて、部屋の扉に手をかけ、開けた。
その部屋は、どうやら図書館のようだった。
だが、それを詳しく解析する前に、部屋の奥に置かれたものに意識が集中した。
それは、柱時計だった。なぜそんなものに注意が向いたのか、理解出来なかった。しかし、第六感が危機を告げていた。
そして、その針がちょうど十二時を指した瞬間、溢れ出した白い光の洪水が、俺の視界を埋め尽くした。
ドン!
爆発が起こる瞬間に異空間を飛び出し、平屋を抜け、近くの建物の屋上に降り立った。
「ちくしょう、やりやがったな!」
仮面を外して下に叩き付ける。
あの時、刹那の内に判断を下し、魔眼の加速を使わなければ、空間の狭間に落ちていたかも知れない。
自分の工房を犠牲にしてでも俺を消そうとした、相手の魔法使いの罠だ。
「・・・・・いや、まだ振り出しに戻っちゃいない」
そうだ。相手が空間魔法を使うのならば、この街のどこかに引き籠もっているはず。
少々面倒だが、空間の歪みを洗い出すことは不可能ではない。
「よし。奴の匂いを追うぞ。――――――!!」
ごーん ごーん ごーん
鐘が、鳴った。
「・・・・ぐ、くっ・・・・」
抗う間もなく、俺の意識はノイズに飲み込まれた。
相変わらず、異世界は俺の記憶をごちゃ混ぜにしたような景色だった。
赤錆びた街並みを見ていると、腹の底から吐き気がせり上がってくる。
・・・・・・そうか。
この異世界は『世界』から切り離されているため、『世界』から力を与えられている自分は、相応のストレスを感じるのだ。
「なんだ。『世界』の外でも存在できるのな」
そんな発見に浸る暇もなく、また不気味な人型に取り囲まれた。
何事かをぶつぶつと呟いているのか、幾つもの音が波となって押し寄せる。
「耳障りだ。――――――我はその身を削り喰らう者なり」
ぞぶ
不快な湿った音が響く。
一様に上半身を無くした人型たちが、ばたばたと倒れて塵に変わっていく。
「・・・・・まず」
さて。これからどうしたものか。
順当に考えれば、この世界に敵は潜んでいるだろう。
妙にのどが渇く。
出来るだけ早く用事を済まそう。
歩けど歩けど、赤錆びた景色が続く。
途中何度か、例の人型に襲われたが、難なく撃退できた。
変化を期待して屋内に入ってみるが、外観同様に、気が滅入るような赤錆があっただけだ。
そして、それ以上に俺を苛む記憶の群れ。
何かに意識を向ける度に、脳裏に過去がフラッシュバックする。
軋むような頭痛を引きずりながら、街を徘徊する。
歪な人型を始末するのにも飽きてきた頃、遠く、何かが聞こえてきた。
―――――、―――、――――。
これは、歌?
幽かな音律を頼りに、方向すら覚束ない街の奥に分け入った。
少しだけ、懐かしい気がした。
足は歌に急かされるまでもなく、自然と角を曲がり、道を辿る。
恐らく、この辺りは俺の古い記憶を元に作られているのだろう。
目を閉じれば、活気に満ちた街の様子が蘇る。
賑やかな人の群れ。
品を売り込む商人、値切りを交渉する客、楽しそうに走り回る子供たち。
その中で、彼の周りに人がいたことはなかった。
それでも、彼は独りではなかった。
歌と記憶に導かれるように、足は歩みを止めようとしない。
気のせいか、歌は徐々にその音色を明瞭にしている。
強く。より強く。
「・・・・くそ、何だこれ」
音色はノイズのように思考を侵す。
それでも歩みは止まらない。
頭痛と、そして記憶がさらに目を眩ませる。
歌は、より強く。
角を曲がる、曲がる、曲がる曲がる曲がる曲がる。
その幾度目とも知れぬ角を曲がったとき。
歌が、止んだ。
「・・・・・・はっ、はっ、はっ――――――あ」
錆びた建物と建物の間。
人一人がやっと通れるような隙間。
いつも、そこにいた。
その奥に、小さな空間があることを知っている。
人々から逃れるように辿り着いたその場所で、彼に出会った。
ずきん。
「・・・・・っ!」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
いつも、そこにいた。
訪れるときは気兼ねなく、ただ何か手土産を持って。
今日も路地裏にやってきた。
少年の来訪を察知したか、手土産の匂いに反応したのか、彼の友人は既に狭い空間に待機していた。
「や■、ミア。■気に■■たか■?」
ミア。その鳴き声から名前を付けた一匹の黒猫が、元気に返事した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「・・・・・そうだ。そうだった」
いつの間にか頭痛は和らいでいた。知らず、口元が綻ぶ。
捨てられた子供と捨てられた猫は、人々から捨てられた場所で出会い、ずっと一緒に過ごした。ある日、猫の寿命が尽きるまで。
ここはその、思い出の場所。
良いことなんてまるでなかった記憶の中にも、まだ温かな幸せが残っていた。
それが嬉しくて、しばらくの間、記憶の名残を抱き締めていた。
「じゃあな、ミア」
そう呟いて、路地裏から立ち去った。
狭い隙間を進む。
子供の頃は楽々通れた道も、この体では一苦労だ。
ようやく抜け、これからどうしようかと思案していると。
――――――――――ミア。
ぞくん!!
背筋が凍りついたような悪寒が、自身の危機を告げる。
逃げなければいけない。なのに、足が動かない。
背後に気配を感じた瞬間、意を決して振り返る。
隙間の闇から、黒い何かが迸る。
間一髪身を躱す。
「・・・・ッ!」
その何かを避けきれなかった肩が、まるで引き裂かれたように傷つく。
切れたどころか骨まで砕けているようだが、そんな痛みよりも、再び激しさを増した頭痛に視界が歪む。
だから、目の前のソレも、歪みが生み出した幻であって欲しかった。
地に着いた四つ脚、尖った耳、ピンと跳ねた髭、短めの黒い体毛、長い尻尾は、間違いなく猫の特徴。
だが、その大きさは常軌を逸していた。
肩までの高さが俺の背丈を越える巨大な猫が、血走った紅い眼を向けて唸った。
ぼたぼたと滴る涎を撒き散らし、化け物が疾走する。
またぎりぎりでかわし、今度こそ名前を呼ぶ。
「ミア!俺だ!分からないのか!?」
化け猫は、やはり紅い眼でこちらを凝視すると、地の底から響くような狂気に満ちた咆哮を上げた。
低く、確実に獲物を仕留めんと跳躍したミアを、俺は避けることが出来ない。
今やライオン以上の猛獣と化したミアの爪が、軽々と俺の体を肩口から袈裟に切り裂く。
「・・・・ぐ、あああ!!」
ミア。たった一人の友達。
裂かれた体から、血と共に記憶が溢れ出る。
辛いとき、寂しかったとき、いつも傍にいてくれた。
何も語らず、けれど確かな存在感で励ましてくれた。
その友を、殺さなければならない。
否、そもそも生きてさえいないモノ。だからそんな感傷は必要ない―――――――――
馬鹿な。
どれだけ変わり果てようと、黒猫は彼にとって大切な存在だった。
それこそ、こうして記憶の世界で見えるほどに。
ミアが吼える。
「・・・・・!!」
突進するミアに完全に反応し損なって、見事に右腕を喰い千切られた。
錆びた砂を散らしながら転がる。
「・・・・・はっ、はっ、はっ」
全身の傷の治療にかなりの魔力を消費したが、少し血の気が引いたことで恐慌状態からは立ち直れた。
アレはミアだ。
だから、殺してやる。
俺の記憶が創ったものだろうが何だろうが、そんなことは関係ない。
俺に出来ることは、殺してやる以外にない。
一度死んだミアを、今度こそ弔ってやる。
それが、この子にとっての救いだと信じて。
静かな決意を感じ取ったのか、ミアが毛を逆立て、低く唸る。
「来い、ミア。終わりにしよう」
魔の紅を瞳に宿し、ミアを見つめる。
魔猫が四肢を張り、猛烈な勢いで飛び出す。
絶叫しながら鋭い殺意を発するミアに心の中で詫びると、静かに腕を挙げる。
「――――――葬天」
黒猫が迫る。鋭い牙が打ち鳴らされ、荒い息が洩れている。その姿に、かつての面影は微塵も残っていない。
もう、あの頃に戻れないのなら。
俺は、お前を越えて行く。
「――――――非想紅」
腕を振り下ろす。
次の瞬間、ミアの巨躯が炎に包まれる。
外ではなく、負の感情を燃料に内から燃え上がる火焔は、相手が彼を強く憎むほど、より火力を増してその身を攻め苛む。
業火が醒めた後には、炭しか残っていないはずだった。
だが、ミアはまだ動いていた。
焦げた脚を引きずり、漆黒の怪物が近づいてくる。
すぐ目の前に顔を突き出したとき、思わず身構えてしまった。
しかしその眼には、もう一片の殺意も狂気もありはしなかった。
ただ甘えるように。
穏やかに頭を俺の体に擦り付けると、
――――――――――ミア。
か細く一声鳴いて、俺の頬を舐めた。
「・・・・!」
俺は頭痛も忘れて、ミアの顔を掻き抱いた。
「ごめん・・・・ごめんよ、ミア・・・!!」
ミアは満足そうに目を細め、ごろごろと唸ると、みるみる塵に変わって、その輪郭を無くしていった。
「・・・・・・あ」
崩れた黒猫の体から、何かが地面に落ちた。
それを拾い上げる。
それは―――――――――ーー―
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「■ア、お■で!」
そう呼ぶと、黒猫は食べかけの魚を置いて、少年の元に寄っていった。
「ちょっと動かないでね」
彼はポケットから細い皮の紐を取り出すと、黒猫の首に軽く結びつけた。
その紐は、彼がなけなしの小遣いで街の道具屋から買ったものだった。
彼はそれを結び、黒猫の首輪にした。
それは、少年なりの黒猫との絆の証だった。
「ずっ■■緒だ■、ミア」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――