第32幕 平穏の日常/銀の詩
どこをどうやって辿り、宿に帰り着いたのか分からない。
意識がはっきりした時点で、俺はぐったりと自室のベッドに身を横たえていた。
途中、シシリーと幾つか遣り取りしたのは覚えているが、その内容までは理解していない。
駄目だ。状況を、整理、しなくては。
恐らく、アレは精神感応系の結界。
あの中に入ると、自分の頭の中と闘わなければならない。
結界は取り込まれた相手の力を利用して稼働するため、一度嵌ると抜け出すのは困難だ。
さらに、何の間違いか『彼女』の創った世界から隔離されている。
人間が使うものとしては破格の代物だが、普段の自分ならば脱出するのは訳ないだろう。
それが出来ないのは、偏に精神面の乱れの所為に違いない。
(・・・・・今、一番受けたくない類の攻撃だ)
過去を蔑ろにし続ける俺にとって、思い出など凶器に他ならない。
これ以上厄介なことにならない内に、早々にケリを付ける必要がある。
「明日で、終わらせる――――」
口に出してみた決意は、思った以上に頼りなかった。
春の朝日が、ひりつくような疼きと共に覚醒を促す。まだぼやけた感覚の中で、すぐ傍に誰かの息遣いを知覚した。
その誰かは、そっと手を付いて俺の体を揺り動かす。
『ジン、もう朝だよ。起きて』
分かったよ。でも、疲れてるんだ。もう少し寝かせてくれ。
『もう。約束したじゃない。今日は――――――』
うるさいな。ほら。
毛布の下から腕を伸ばし、誰かの腰回りを抱えてベッドに引きずり込む。
「もう少し寝よう、ヨエル――――――」
横に並んだ顔は、耳まで真っ赤になったシシリーだった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
無言で見つめ合うこと数十秒。
寝呆けて人違いをしたことに、羞恥を通り越して冷静に死のうかと思案していると、シシリーが消え入りそうな小声で呟いた。
「お兄さん・・・・案外、強引なんですね・・・・」
「いや、待て。そういう意味では」
「・・・・や、優しくして、下さいね・・・?」
ああ、ちくしょう。
頭が沸騰したシシリーをやっとの思いで宥め、話を聞くと、どうやら俺は今日、彼女と街で買い物することを約束したらしい。
どう考えても、昨日、這々の体で帰り着いたときにしたとしか思えず、そんな状態の相手に約束を取り付けるシシリーに一抹の末恐ろしさを感じたが、やってしまったものは仕方ない。
先にシシリーを追い出すと、手早く身支度をして階下に降りた。
「・・・・・・じー」
店の外に出ると、なんとも湿った視線に晒された。
「何だ、シシリー」
シシリーは半眼でこちらを見つめて言った。
「お兄さん、黒い服ばっかりです」
言われて、改めて自分の格好を眺めてみる。
シシリーは、白い長袖のシャツに丈の長いスカート。
対して、自分は黒い外套に黒いズボン。おまけに黒い手袋ときた。
黒髪も相まって、肌色の面積が顔の部分しかない。
「これ、おかしいか?」
「すごく」
むう。人間の感覚が分からないのでどうしようもない。
別に、こちらの方が機能性は高いので気にはしないが。
「そうだ!私がお兄さんの服を見繕ってあげます!」
名案だとばかりにシシリーが叫ぶ。
まて。それはどういう―――――なに!もう店に着いただと!――――よせシシリー何だその服は!きっと似合うってお前、遊んでいるだろう!いや待て待て待て脱がせるな脱がせるな自分でやらせろって
うおおお―――――!!
小一時間後
「わー!よく似合ってますよ、お兄さん!」
「ぐっ・・・・むうぅ」
さんざん試された結果、黒いシャツに青い上着、黒い長ズボンに藍色の腰巻きという無難な形に収まった。
さり気なく黒い配色が多いのは、分からないように闇で体を覆うためである。
既に剥がされた手首の守りはどうしようもないので、極力ポケットに突っ込んでおくことにする。
「じゃ、行こっか!」
それから二人で市を見て回ることにした。
どちらかというと祭りのイメージが濃く、広場は大変賑わっていた。
街の外から来た露天商はもちろん、珍しい品を扱う商人、大道芸人のような者までいた。
「どう?すごいでしょ」
自慢げに胸を張るシシリー。
「月に一度しかない市なんですけど、周りの国からも色んな物が入ってくるんですよ。お兄さんの探し物も、ここにならあるんじゃないですか?」
もちろんある訳ないし、市の品になど興味はないが、楽しそうにしている彼女を観ているだけで面白かった。
初めは店で使うような食品周りの品を見ていたが、そのうち怪しげな薬の店や、大道芸を見物するようになった。
(何やってんだろうな、俺は。こんなことに費やす時間はない。少しでも休んで、捜索をしなければならないのに)
自嘲気味にわらう。
ここのところ感情が安定しない。
効率良く魔力を精製するために安定を計るべきなのだが、揺れ幅は広がるばかりだ。
俺は、こんなにも弱くなってしまった。
「お兄さん、あれは何でしょう?」
「あん?」
シシリーが指さす方に目を向けると、そこにはちょっとした人だかりが出来ていた。
何かの見世物だろうか。
そう思っていると、人だかりの隙間から、そいつの姿が見えた。
よれたコートに、鼻眼鏡を掛けた穏やかな顔立ちの青年。手に持っているのは詩集だろうか。
どうやらそいつは、吟遊詩人という触れ込みらしい。
『おお 大いなる黒龍は怒れり
その眼は炎の如く赤く燃え
牙は刃の如く輝やかん
遂に勇者は打ち倒され
龍は高く勝ち鬨を上げん
おお 哀れなる黒龍よ
彼の手に残るは虚空のみ
その嘆きは如何ばかりか』
シシリーに、そこで待っているようにときつく釘を刺すと、足早に詩人もどきに詰め寄った。
全身から黒い気を撒き散らす闖入者に驚き、見物人は皆散っていった。
「良い詩だな。ええ?このエセ詩人。こんなところで何やってやがる」
「何って、君を心配して来たんじゃないか」
ジンは『銀詩』の襟首を掴み、ドスを利かせた声で唸る。
「お前たちの手など借りる必要はない。大人しく図書館に引き籠もってろ」
彼は冷静にジンを見つめると、口を開いた。
「その格好、良く似合っているよ」
「力ずくで世界外退去させてやろうか」
「冗談だ。よく聞いてくれ。君が今回発見してくれたおかげで、この地で異変が起こっていることが分かった。しかし、何が起きているのか分からないんだ」
「・・・・・何が言いたい」
「これは奇妙だ。『彼女』が自身の体調の異常に気付かないなんて有り得ない。もしかしたら、今回のようなケースはあちこちで起きているかもしれないんだ。だからこそ、君がこの件を解決してくれることを切に願っている」
「だから、解決すると言っているじゃないか」
「その死に体でか?」
「何だと?」
「そんな、そこらの『侵界者』にも劣るコンディションで、十分に解決出来ると?・・・・異変解決は君にしか出来ない。慎重に、より確実に頼むよ」
「・・・・分かっている」
『銀詩』は立ち上がると、コートを叩き埃を取って歩き出した。
「さて、僕は行くよ。・・・・ああ、最後に一つ」
立ち止まり、少し距離を隔てたジンに向き直る。
「起きたことを記録し続ける僕に言わせれば、過去とは決別するものではなくて、克服するものだと思うよ」
そう言って、今度こそ人混みに紛れて見えなくなった。
「・・・・・慰めのつもりか。もっと言葉を選べってんだ、文学中毒が」
流石に日が落ち始めると、市は徐々に活気を失い 、俺はシシリーと日々亭に戻った。
「・・・・・あっ!」
料理を運んでいたシシリーが、不意によろめいてつんのめる。
泳ぐ体。宙を舞う皿。
「よ・・・・っと」
シシリーを抱き留め、料理の載った皿を捕らえると、周りから歓声が飛んだ。
「大丈夫か。おい」
シシリーの顔を覗き込むと、心なしかその顔は暗く見えた。
「はい。ちょっと疲れちゃっただけなので」
そしてまた、父親に呼ばれてカウンターの方へ行ってしまった。
窓から見える街並みは、すっかり夜が更け、もう人の気配がない。
店の連中が寝静まっていることを確かめてから、静かに窓枠に足を掛けて、夜闇の中に飛び込んだ。
幾つもの屋根を飛び越え、時計塔の頂上に着地する。
異世界に引き込まれたとき、同時に時計塔の鐘が鳴った。
何かしらの関連性があると踏んで調査に来たが、全く何もなかった。
塔の天辺に腰掛けて、夜の街を俯瞰する。
こうしてみると、異変が起こっているとは思えないほど世界は穏やかだ。
面が割れないように黒い仮面を着けているため、見つかる心配はない。顔が分からない以前に、俺の姿は闇に融けて見分けが付かないだろう。
遥か昔、金時計が言ったことを思い出す。
『この世の全ては、『彼女』の観る夢に過ぎない』
本当にそうならば、自分の存在さえも夢であればいい。
そんな風に思ったことは、見上げた星の数ほどあった。
それでも、繋いだ手の感触は、確かな現実の手応えを持っていた。
その時、初めて生きる意味に触れることが出来た。
与えられた意味で満足できないなら、納得できる意味を探すしかない。
あの温もりは、俺の探す意味に足るものだったのだろうか。
「・・・・・始めるか」
腰を上げて、ぐきごきと体の節々を鳴らす。
感傷に浸る暇はない。
今はやるべきことがある。
「広域探査結界、展開」
時計塔―――――というより俺の体―――――を中心に、黒いドームが広がっていく。
このドームは闇に魔力を通したもので、その中にいることは即ち、俺の体内にいることを意味する。
取り敢えず、街全体を囲んでおいた。
この闇をもう少し深め、この体自体を闇に変えれば、ラミエルの世界創造にも匹敵する異世界を創ることが出来るのだが、今はそんな必要もないし、そんな余力もない。
ともあれ、これでこの結界内の動きは、全て俺の知るところとなる。
どんな些細な動き、ともなると、流石に処理能力を上回るので、魔力の動きのみに限定することにする。
目を閉じると、街の地形が頭に入ってくる。
探査を魔力に限定しても、入ってくる情報は膨大だ。出来れば早めに終わらせたい。
「・・・・・!」
妙な魔力の気配を感じる。
そこへ向けて、すぐさま意識を飛ばす。
通りを駆けて、広場を抜けて、町の郊外へ至る。見えたのは、一軒の廃屋。
「――――――そこか」
ばさり。外套を翻して、塔の屋根を蹴った。