第29幕 The gravekeeper/無貌の闇
どこか遠くで、炎が爆ぜる音がする。
燻る風の薫りが鼻腔を突く。
荒れ果てた大地。
見渡す限り続く地平線と、燃えるような空。
いつか見た景色。
その彼方で、黒い影が立ち尽くしている。
ぼろぼろになった外套に包まれ、漆黒の前髪から覗く双眸は紅い。
オ――――――――――オ――――――――ォ――――――――。
影が吼える。
軋む雑音染みた声は、混ざりすぎて、最早その感情を表現する言葉を人は持たない。
故に、心理の底を突く波は、純粋すぎて、聴く者の気を狂わせる。
いつの間にか、その身を切るような慟哭が自分の物になっていることに気付いた。
見渡せば、荒野に立つのは自分で、両手は血に染まっていた。
急に恐ろしくなり、悲鳴を上げる。
オ――――――――――オ――――――――ォ――――――――。
その感情が、そこを呼んだ。
突然、荒れ果てた大地が現実感を失い、融けて消える。
どぽん
まるで、水中のように体が沈んでいく。
伸ばした手はただ水を掻き、光のない深みへと落ちる。
僅かな光さえない、昏い闇。
完全なる死の静寂が支配する虚無を漂う。
人間なら即座に発狂する地獄の中で、彼は安らぎを感じていた。
満たされた闇は、羊水の如く穏やかにその身を包む。
耳朶を打つ嘆きの叫びは子守唄。
そこは、あらゆる苦しみが渦を巻く負の坩堝。
そして、彼を孕んだ世界。名を『混界』。
胎内で微睡むジンを、数多の想いが取り巻く。
それらは、決して与えられない救いを求めて、彼の周りを漂う。
そして、ただ一人の救い主が目を開ける。
彼が手を広げると、嘆きの声たちが消えていく。
世界で唯一、負の感情を力に換えることの出来る彼に取り込まれたのだ。
耳を澄ませば、遠く啜り泣く声が聴こえる。
振り返ると、そこはどこかの牢屋の中だった。
その薄暗い片隅に、座り込む少年がいた。
既視感を覚えながら、黒髪の少年に向けて手を伸ばす。
その手が触れる瞬間。
いきなり少年が顔を上げて、彼に飛びついた。
少年の顔を見て、思わず抵抗が遅れる。
細い腕が、蛇のようにしなり、絡みつく。
ぎりぎりと締め上げられていく首を守りながら、少年の顔を凝視する。
少年の貌には、何もなかった。
目も口も鼻もなく、ただのっぺりとした闇に覆われていた。
その顔に、三本の線が走る。
始めに額の両脇の線が割れて、楕円形の真っ赤な目になり、続いて顎の上の線が引きつって耳まで裂けた口に変わった。
迸る哄笑。
少年は、嗤いながら泣きながら怒りながら首を絞める腕に力を込める。
息が詰まる。
驚くべきことに、この場に於いて、少年の方が強い。
思い切り蹴飛ばして、少年を引き剥がす。
せき込みながら剣を造り、またも驚愕する。
なんと、少年も同じように剣を造り上げていた。
手に握るそれと全く同じ黒剣を。
少年が眼前に迫る。
迷う暇はない。
即行で振りかぶると、突き出された剣にぶつける。
魔力の火花を散らして激突する剣と剣。
鍔競り合う中、間近で少年を睨む。
既視感。・・・・・既視感?
少年が剣を弾き上げ、再び上段に振り上げたのを見た。
両腕をだらんと下げる。
彼の姿がかき消える。
一瞬にして少年の背後に回り込んだ黒剣が閃く。しかし、切っ先が届く寸前、少年が振り向き、防いだ。
ぎりぎりと競り合う。体格差は明らかに彼が上、だが、押し負ける。
耐えきれずに捌くと、喘ぎながら距離をとった。
目を閉じ息を整え、全身の力を循環させる。
力には、より強い力を。
閉じた眼を見開く。真紅の眼の哮りを感じながら、弾ける。
神速の上段振り下ろしを予測し、少年が剣でガードする。
魔眼が燃え上がる。
瞬間、剣撃の軌道が歪に曲がり、少年を横薙に襲う。
少年はそれでも対応して防ごうとするが、無理な体勢と強力な衝撃で腕が跳ね上がる。
そのがら空きになった胴に、強烈な蹴りを叩き込む。
地下牢が吹き飛び、元の闇に戻る。
さしもの少年も、魔眼を起こした彼の一撃を押し止めることは出来なかった。
とどめとばかりに、少年の脳天めがけて剣を振り下ろす。
防ぎに入った剣と激突する。
砕け散る二振りの剣。
同時に、互いが得物を捨てた。
ことここに至って、ようやく少年への敵愾心が沸き起こる。
余計な武器など要らない。この戦場に倣い、己が五体こそ相応しい。
限界まで引き絞った右拳を撃ち放つ。
渾身の突きは、全く同じ動作で放たれた拳と打ち付けあう。
そのとき、右手にはめられた指輪が燦然と輝き出した。
眩い光は闇を切り裂き、それを受けた少年は、貌の無い顔を覆って怯み、彼の意識もまた、きつく灼き焦がされていった。
だが、不思議なことに不快ではなかった。
その温かな光はむしろ、どこか、懐かしく―――――――――――――――――――――
「・・・・・・・」
覚醒は穏やかに。
凄まじい疲労感を押しのけて、瞼を開けた。
「・・・・・・!?」
低下した判断力が回復したとき、驚愕に目を見張った。
視界に映ったのは、いつもの神殿の白ではなかった。
どこにでもありそうな、低い木の天井。
身を起こすと、至って簡素な部屋の、さらに簡単な作りのベッドに寝かされていた。しかも、着物も自前のものではない。
額に乗っていた何かが、ぽさりと落ちる。
「・・・・・手拭い?」
何故こんなものが?
答えは、すぐにやって来た。
がちゃ。
部屋のドアノブが音を立てる。
反射的に飛び起き、厳戒態勢をとる。
果たして部屋に入ってきたのは―――――――――――
「あら、起きられたんですか」
少女だった。
年の頃は十代の後半。
波打つ栗毛の髪に、穏やかな顔つき。
どうやら、警戒を解いても良さそうだ。
「俺の服はどこだ?」
少女は手に持つ黒いそれを渡してきた。
「はい、どうぞ」
受け取ると、上に乗っていた金の時計を掴み、開ける。
今いる世界を確認する。一応記憶に残っている名前だった。であれば、あのバカ鳥を始末した後に行き倒れたのだろう。
「お兄さん?」
「む?」
ぼんやりと時計を眺めるところへ、少女が心配そうに覗き込む。
「あの、大丈夫ですか?」
「ああ、君が看病してくれたのか。礼をいう」
そして、改めて少女に尋ねる。
「はい、ここは私の両親が営む酒場『日々亭』。お兄さんは一昨日の夜、店の前で倒れてたのを見つけたんです」
窓からは陽光が射している。
二日。まだまだ休息を要するところだが、寝ては居られない。
「世話になった」
立ち上がり、体の具合を見る。
実に粉骨砕身だった割には、それなりに回復している。問題はない。
「お兄さん!?ダメですよ!まだ寝てなきゃ!」
娘が騒ぐ。
ふと、妙な気配を感じて、娘の顎を掴んで正面から見据える。
「お、お兄さん!?」
・・・・・気のせいか。微かに獣の匂いがしたのだが。
娘を置いて部屋を出る。
階段を下りたところでは、主らしき恰幅の良い男が厨房に入っていた。
「おう、兄ちゃん!起きたのか」
「ああ、世話になった。宿代はこれでいいか」
ポケットから金貨を五枚ほど取り出して、小さな白い花が飾ってあるカウンターに置き、背を向ける。
「ぶおっ!?ちょ、ちょい待ち!こんなにいただけないって・・・!!」
喚く親父を余所に店を出る。
「・・・・・ッ」
身を灼く光に思わず眼を細める。
深闇の帳の外装を強化しながら、性能を確認する。
「む・・・・龍化は出来ないか・・・あれ好みなんだけどな・・・・」
通りの露店でライ麦パンを掴み、銀貨を弾いて店主に渡す。
直後、騒ぎ声を背中で聞いたが、ふむ、この世界での流通貨幣はこれで合ってるはずなのだが。
ばりっ
一際音高くパンをかじる。振り返ると、街のシンボルらしき時計塔が見えた。
この街に来たのは偶然だった。だったのだが。
街に蔓延る違和感。
『彼女』が感知していない?
だが、何にせよこれは―――――――――――
「―――――――――当たりだったな」