種子を植える娘
「なんだ、お前! 薬草泥棒か!」
トキヤは、湖の岸辺にかがみこんで土を掘っていた見知らぬ少女に、声を荒げた。
「え?」
琥珀色の瞳に驚きを乗せて振り向いたその顔は、この地方の者としてはずいぶんと色白だ。青いスカーフからこぼれた髪は周囲の緑の色を映しているが、恐らくは銀色だろう。生成りのブラウスに重ねたえんじ色のベストと同じ色のスカートの裾に、見たことのない幾何学模様の刺繍が施されている。年は十五、六といったところだろう。
よそ者か。
トキヤは舌を鳴らし、顔をしかめた。
両親を早くに亡くした彼は、森で薬草師として暮らしていた祖母の元に引き取られた。その祖母も彼が十七歳だった五年前、孫に調薬方法を教えもせずに他界。以来彼は、薬草を摘んで町で売ることによって生計を立てていた。だから、縄張りを荒らされることは死活問題だった。
目の前の少女の、しゃがみこんだ茶色のブーツの足元には、ハトイラのひょろりとした蔓に続く大きな根が掘り出されていた。この根から春に芽吹く若芽は、熱冷ましの薬として重宝される。トキヤは、祖母が健在だった頃から、その株を大切に世話してきた。
「なんてことをしてくれるんだ! 枯れてしまったらどうするんだ。今すぐその根を埋め戻して、さっさとこの場所を立ち去れ!」
「え? でも、このままじゃ……」
オロオロしながら立ち上がった少女を睨みつけ、脅すように一歩前に出る。
「この、薬草泥棒め! 早く埋めろって言ってるだろ!」
「でも、ここにいたら、この子はあと数年で枯れちゃうのよ!」
「枯れる?」
少女の切実な訴えにぎょっとした。
彼の森の中では、ハトイラは湖の岸辺の一角にしか繁殖していない。高値で取引される薬草だが、どういうわけか、年々、収穫が少なくなってきたから心配していたのだ。
少女はトキヤの背後にある若い杉の木を指差した。
「あの木が大きくなり過ぎちゃったから、この場所が日陰になる時間が増えてしまったの。この子は、お日様が好きな草だから、もう、ここでは育たない。だから、枯れちゃう前に、湖のあっちの岸に植え替えてあげたいの。手伝って!」
「あ、あぁ。分かった」
少女の説得力のある言葉に押され、トキヤは思わず頷いた。
「じゃあ、はい。これ」
にっこり笑って手渡されたのは、柄の短い鍬。彼女が手にしているのは移植ゴテ。どうしてこんなものを持っているのか、やはり薬草泥棒ではないかと不審に思いながらも、彼女に並んで土を掘る。
「俺はトキヤ。薬草売りだ。あんたは?」
「ラウよ」
「どこから来た」
「ずっと、西の方。旅をしながら、木や草の種を植えているの」
彼女は、出身の村の長老から貴重な種子を一粒託されたのだと言う。その種子を植えるに適した土地を探すために、道中で様々な種子を採取したり植えたりしながら、もう二年も、たった一人で各国を渡り歩いていた。
そんな身の上話を淡々としながらも、少女の手は止まることはない。薬草の根を傷つけないように、慎重に掘り進んでいく。
「この場所には、代わりにタムノトを植えるといいわね。トキヤは薬草売りだから、助かるでしょう?」
「タムノトだって?」
トキヤは目を丸くした。
タムノトの紫色をした若い蕾は、数年ごとに町を襲う流行り病の特効薬となる。しかし、この国では自生せず、隣国の高価な薬に頼るしかないため、病が流行るたびに、多くの犠牲者が出るのだ。
「タムノトは、少し日陰の方が好きなのよ。ここなら、土の状態もいいから、この子たちも喜んでくれると思うわ」
楽しそうに説明しながら、ラウは腰から下げていた布袋から中身を一掴み取り出した。掌の上から、小さな棘を持つ種子をいくつか選んで、ハトイラの根を掘り出した穴に、間隔をあけてパラパラと落とす。
トキヤの喉がごくりと鳴った。
「そ、それが、タムノトの種なのか」
トキヤと町長は、町に行商に来る隣国の薬売りに、タムノトの種子を譲ってほしいと何度も頼み込んだ。しかし相手が、貴重な商材を自ら手放すはずがなかった。
その種子が、今、目の前の大地に落とされていくのだ。
「そうよ。十日もすれば、芽が出るはずよ」
「……そうか。タムノトが俺の森に生えるのか」
トキヤは噛みしめるように呟いた。
病が流行るたびに、「タムノトはないのか」と町の人々に詰め寄られたが、これまでだまって首を横に振るしかできなかった。しかし、この薬草がこの地に根づけば、多くの人々の命を助けることができる。貴重な薬草が自分の懐を潤すことよりも、何よりそれがうれしかった。
ぼんやりと、この場に生い茂るタムノトを思い描いている間に、ラウは手早く種子の上に土を盛った。
「これでいいわ。次は、ハトイラを植えてあげなきゃ」
休む間もなく、少女は一抱えもある草の根を両手で抱いて立ち上がった。ひょろりとした草の蔓を引きずりながら歩き出す。
「おい、待てよ!」
「ごめんね、もうしばらく我慢してね。あっちの方が、気持ちよく過ごせるわよ」
トキヤの声は聞こえていないらしい。赤子のように抱いた草の根に、歌うように話しかけながら湖の岸に沿って歩いていく。なんとも不思議な少女だ。
「なんなんだよ」
トキヤは足元に散らばっていた鍬やコテを拾い集めると、少女を追って行った。
二人は大きく開けた湖の南側に、薬草を植え直した。
「これから雨が降るから、水をかけてあげなくても大丈夫ね」
空を見上げたラウが言うが、木々に丸く切り取られた空は雲一つない快晴で、雨粒が落ちてくるとは到底思えない。
「そうかぁ?」
「そうよ。その前に、もう少しやりたいことがあるの。手伝ってくれる?」
ラウに対する疑惑はすっかり消えていた。彼女の植物に向ける眼差しは、あまりにも優しくて、こんな瞳をした悪人などいるはずがないと確信できた。それに、自分が大事にしていた薬草を救ってくれたばかりか、貴重な新しい種まで植えてくれた恩人でもある。だからトキヤは「おう」と軽く応じて、立ち上がった。
「これをね……」と、彼女が袋の中から選び出したのは、つやつやした椎の実とどんぐり。そして胡桃。
「ここは針葉樹が多いから、こんな木も増えた方が、森は豊かになるわ。小鳥やリスたちが集まるようになれば、ワシや狐なんかも巣を作るようになるし、やがては狼や熊なんかもやって来る」
「待てよ。狼や熊が出るのは困る。危ないじゃないか!」
「今は心配しなくても大丈夫よ。それは何十年も先の話だもの」
くすりと笑ったラウは、周囲を取り囲む濃い緑の針葉樹たちをぐるりと見回すと言葉を続ける。
「どっちにしたって、何十年も経てばこの森だって姿を変えるわ。ハトイラが同じ場所で生きられなくなったように、少しずつ変化していく。わたしは、その変化をお手伝いしているの。草も木も動物たちも人間も、みんなが豊かに暮らす、そんな幸せな場所を作りたいわ」
けれども、人は野山を切り開いて家を建て、畑を耕し、家畜を飼って暮らしている。森に住む自分だって、自生する薬草を摘み取って金に変えるし、山菜や茸を採取したり、狩りをすることもあるのだ。どう考えても、彼女の言う『幸せな場所』にとって、人はそれを害する邪魔な存在ではないだろうか。
そんなことをふと思ったが、彼女の夢見るような口調に、反論する気は起きなかった。「そうだな」と曖昧に相づちを打つ。
トキヤの反応に満足したのか、にっこり笑ったラウが、ふと思い出したように空を見上げた。トキヤもつられて空を見たが、その色はさっきまでと変わらない。突き抜けるような青空だ。なのに彼女は焦った様子を見せる。
「いけない。早く植えなきゃ雨が来ちゃう。ねぇ、トキヤは椎の実と胡桃、どっちが好き?」
「え? 胡桃だけど?」
「わたしもそうよ。じゃあ、ここには胡桃を植えるわね。満足に実が付くまでには、軽く十年以上掛かるから、気長に待っていて」
そう言い終わらないうちに、ラウは軽やかな足取りで歩き始めた。
「どこがいいかしら。胡桃は周りの植物を枯らしちゃうから、なるべく被害が出ない場所を……」
ぶつぶつ呟きながら、小さな湖をゆっくりと一周。納得がいかなかったのか、さらにもう一周して、ようやく植え付ける場所を決めた。
「ずいぶん慎重なんだな」
「だって、この種子に、いちばんふさわしい場所に植えてあげなきゃ、かわいそうでしょ?」
ラウは手早く穴を掘り、胡桃を一粒落とすと土を被せた。その土にまみれた手の甲に、ぽつりと水滴が落ちた。いつのまにか、辺りは薄暗くなっている。あっ……と思う間もなく、大粒の雫が周囲の木の葉を騒がせながら、空から落ちてきた。
「うわっ! 本当に降ってきやがった」
慌てて近くの木陰に飛び込み、服についた水滴を払いながら隣を見るが、自分についてきているとばかり思っていた少女の姿がない。
「ラウ……?」
彼女は胡桃を植えた場所に立ち止まったまま、気持ち良さそうに目を細め、鉛色の空を見上げていた。白い肌の上で水が跳ね、えんじ色のベストやスカートが見る見るうちに黒っぽく染まっていく。
「おい、何やってるんだよ! 早くこっちに来いよ。濡れるだろう!」
声をかけても一向にその場から動く様子がなかったから、トキヤは雨の中に走り出て彼女の手首を取ると、強引に木陰に引きずり込んだ。
「ったく、子どもじゃないんだから」
「気持ちよかったのに」
無理やり避難させられたラウは、被っていたスカーフを取ると、不満げに頬を膨らませる。さらりとした真っすぐの銀色の髪が肩に落ちた。
「濡れたら風邪を引くだろう?」
「これくらい平気よ。でも、トキヤって優しいのね。最初、すごく怖い人だと思ったのに」
「そ、そりゃ、自分が大事にしていた薬草を掘り返す知らないヤツがいたら、誰だって泥棒だと思うだろ」
くすくす笑いながら見上げてくるラウに、なんだか照れくさくなって、ぶっきらぼうな言葉とともにふいと前を向いた。
雨宿りしている杉の枝の端が、上下にせわしなく揺れ動いている。その向こう側に、白く煙った雨の壁ができていた。狭い場所に二人きりで閉じ込められた気がして、少々居心地が悪い。静けさを持て余し、なかなか上がらない雨にいらいらしていると、隣から小さなくしゃみが聞こえた。
「お……おいっ」
「え?」
「言わんこっちゃない。雨に濡れたせいで、冷えたんだろう。来いよ」
大丈夫だというラウの手を強引に取り、自分の家に向かった。
赤々と燃える暖炉の前に、何度も袖を折り返したぶかぶかのトキヤのシャツを着たラウが、膝を抱えて座っている。ようやく乾いた銀色の髪が、暖炉の炎の色を映してオレンジ色に染まっていた。彼女が身につけていた衣類は、暖炉の前に置いた椅子にかけてあるが、こちらはまだ乾きそうになかった。
「却って悪かったな」
なるべく濡れないように木々の根元を渡り歩いたのだが、容赦ない雨にたたかれ、家に着く頃には二人ともずぶ濡れになってしまったのだ。
「ほら」と、木の器に入った兔肉のシチューを手渡す。
「わぁ。お肉なんて久しぶり。おいしそう!」
ラウは受け取った器を覗き込んで、嬉しそうに笑った。さっそくスプーンで器の中身をひとまぜすると、唇を尖らせて息を吹きかける。
そんな彼女の様子を、トキヤは珍しいものを見る思いで眺めていた。
実際、珍しかったのだ。
この家には五年前まで祖母も住んでいたが、その後はずっと一人暮らしだった。たまに、薬草を求める人が訪ねてくることはあるが、長居をすることはない。だから自分の家に、自分以外の人の存在があることが不思議に思えた。それが、ほとんど話す機会もない若い女の子であればなおさらだ。
彼女はスプーンの上に肉を乗せると、口を大きく開けてぱくりと一口にした。そして、上気した頬を左右交互に膨らませ、幸せそうに目を細める。
ただおいしそうに食べているだけの彼女の姿から、なぜか目が離せないでいると、口の中のものをごくりと飲み込んだ彼女と目が合ってしまった。
何かを問いかけるような一回のまばたきに、自分が悪いことでもしていたような気になって、ごまかすように窓辺に向かった。
「まだ雨は止みそうにないな」
「そうね。夜まで止まないと思うわ」
そっと振り返ってみると、彼女はスプーンで器の中のじゃがいもを崩していて、こちらを見ていなかった。そんなことに、ほっとする。
「今日は、町で宿を取るのか?」
こんな雨では、宿に着くまでにまたずぶ濡れになってしまうと心配しながら訊ねると、彼女は首を横に振った。
「そんなお金ないもの。森で休むわ」
「なんだって! あんた一人で、野宿するってのか?」
この辺りの森には、狼や熊などの危険な動物はいない……はずだ。けれども、真っ暗な森の中で一人で夜を過ごすなど、男のトキヤでも経験がなかった。そんな気味の悪いことは、やってみたいとも思わない。
「そうよ。さっき植えたタムノトの芽が出るまで、この森にいるつもりよ」
ラウは何でもないことのように言うと、じゃがいもをぱくりと食べた。
「だめだ、だめだ。女の子が森で野宿なんて!」
「平気よ。いつもそうしているもの、慣れてるわ」
いくらそう言われても、自分のシャツをぶかぶかに着るほど小さく華奢な少女を、森に放り出すことなどできなかった。
トキヤは部屋の奥の扉を開けた。
「ここは昔、ばあさまが使っていた部屋だ。今は物置になっているけど、すぐに片付けるから、この森にいる間、ここを使えばいい」
「いいの?」
「タムノトを植えてもらった礼だ」
そう。これは貴重な薬草の種を分けてもらった礼なのだ。
トキヤはそう自分に言い聞かせて、後ろ手に扉を閉めた。
翌日から二人は、一日の大半を森の中で過ごした。森のあちこちに種子を植え、食用にする野草と、家に飾る草花を摘んだ。兔を捕らえる罠を仕掛け、木陰で休み、水浴びをすると、一日なんてあっという間だった。
植え替えて数日の間くたりと地面に這っていたハトイラの蔓は、四、五日もすると瑞々しさを取り戻し、柔らかな若い芽を付け始めた。
それからさらに、四日経った早朝。
「わっ、芽が出てる! トキヤ、見て、見てっ!」
タムノトを植えた一角に屈み込んでいたラウが、嬉しそうな声を上げた。
ああ、とうとう……。
立ったままのトキヤの目にも、掘り返された黒い土の上に、昨日までなかった息吹がぽつぽつと映る。しかし、待望の貴重な薬草が芽生えたというのに、トキヤが感じたのは喜びではなかった。
ラウは無邪気な様子で、地面すれすれにまで顔を近づけ、刺のある黒っぽい皮を付けたまま力強く地面から立ち上がった茎を、じっくりとながめている。
「うん、とっても元気そう。今日は気温が高くなるから、きっと夕方までには双葉になるわ」
満面の笑みで見上げてきた彼女と目を合わせないようにして、トキヤは隣に屈み込んだ。
「もう……、行くのか?」
「うん。この子たちの双葉が出るのを見届けて、明日の朝にでも旅立つわ」
予想通りの答えに、胸が詰まる。
二人はしばらく黙ったまま、小さな薬草の芽を見つめていた。
「なぁ。芽が出ても、ちゃんと育つとは限らないだろ? だから、もう少し、様子を見た方がいいんじゃないか? それに、胡桃の芽はまだ出ていないんだし」
あと一日でも二日でも、十日でも。彼女のいる日々が続いてほしかった。いや、それは永遠であってほしかった。
しかしラウは、決意を示すように静かに瞼を伏せる。
「わたしには、どうしても植えなきゃならない種子があるの。だから、もう行かなくちゃ」
「この森じゃダメなのか? その種子を植えてしまえば、ラウの旅は終わるんだろう? だったら、ここに植えろよ」
「ここ……に?」
震える声に心の揺らぎを感じ取り、トキヤは彼女の両手を取った。
もう少し……、あと一押しすれば、彼女を自分の元に留めておけるかもしれない。その期待と焦りと、それでも無理かもしれないという不安とで、声がうわずる。
「そうだよ。ここに植えなよ。そうすれば、あんたはもうどこにも行かなくていいんだ。ずっとここに、俺のそばにいろよ。いや……いてくれ」
必死に華奢な手を握りしめると、自分へと引き寄せた。そうでもしないと、彼女は綿毛のついた種子のように、どこかに飛んでいってしまいそうな気がした。
けれども、彼女は思ったより簡単に、すぽりと自分の腕の中に納まった。そして、安堵したように大きく息をつく。
「あぁ。やっと、この種子にいちばんふさわしい場所を見つけたわ」
身体を預けてしみじみと呟くラウを、トキヤは強く抱きしめた。
窓から差し込む朝日に、彼女の柔らかな髪が蜂蜜色に染まっている。それがあまりにも甘やかだったから、トキヤは髪と滑らかな頬の間に、鼻先を埋めた。唇で頬にそっと触れてみても、彼女は深く眠っているらしく、目覚める様子がない。
ふ……。
思わず、口元がゆるんでしまう。こんなに幸せで、満ち足りた朝を迎えたことがあっただろうか。
これからずっと、彼女はこの家にいるのだ。
二人で暮らしていくのだ。
トキヤはむき出しになっていた白い肩に、毛布を引っ張り上げてかけてやると、一人ベッドを降りた。
ラウが目覚めたら、二人で温かいお茶を飲もう。
トキヤは台所に置いてあった小さな桶を手に取ると、裏口からそっと外に出た。
もう夏も近いが、早朝の森の中は肌寒い。木々たちも目覚めたのか、清々しい緑の芳香が、ひんやりとした空気に溶け込んでいる。トキヤは大きく伸びをして、朝の新鮮な空気を身体いっぱいに吸い込んだ。
裏口から五歩も歩けば、小さな湧き水がある。
手にぴりりと沁みる透明な水を両手ですくうと、まずは顔を洗った。顎を撫でると、ざらりとした髭が気になった。
「こんなもの、気にしたこともなかったけどな」
自分の気持ちの変化に苦笑しつつも、悪い気はしなかった。家に戻ったら、まず、無精髭を剃ろうと考えながら、湧き水の中に小さな桶を沈めたその時、背後から、何かが軋む音が聞こえた気がした。
「ラウか?」
彼女が起きてきたのかと思って振り返ったが、家の裏口に人の姿はなかった。そんな些細なことに落胆した自分に呆れながら、視線を元に戻そうとすると、今度は明らかに家が軋んだ。
「な、なんだ?」
訝しく思う間すらなかった。
窓の向こうが柔らかな緑色に覆われたかのように見えた直後、トキヤの小さな家の外壁は、大きな破壊音をあげて四方に弾け飛んだ。
「うわっ!」
とっさに身を縮めて、両腕で頭をかばう。木片が腕や背中を擦り、音を立てて地面に落ちた。
同時に、家が建っていた同じ場所から、猛烈な勢いで、何かが空に向かって伸びていく。大地が大きく揺さぶられ、めきめきと何かが引き裂かれる音が響く。
早朝の青空が遮られ、トキヤの周囲に濃い影が落ちた。ざわざわと木の葉が騒ぐのは、周囲を取り囲んでいる森の木々が恐れをなしているのか——いや、違う。 頭上!
見上げると、トキヤは巨大な生き物のようにうごめく大樹の下に立っていた。
硬い鱗のようにごつごつした幹から枝分かれしたものが、さらに何本にも裂け、四方八方に勢いよく伸びていく。芽吹いたばかりの若芽は、瞬きの間に、大人の手のひらほどもある肉厚の扇型の葉を広げ、視界を明るい黄緑色に埋め尽くしていく。
圧倒的な生命力に呆然としていると、やがて、大樹の動きがとまった。聴覚を奪うほどのざわめきもぴたりと止み、さやわかな朝の風に吹かれた優しいささやき声を落とすだけとなった。
「な……にが、起こったんだ……?」
正気を取り戻したトキヤは、恐る恐る大樹に近寄り、手を伸ばした。その直前まで、幻を見ていたのかと思っていたが、掌に感じたごつごつした感触に、そうではないと思い知る。
目の前には、確かに、見知らぬ大樹が立っていた。
トキヤははっと息を飲んだ。
慌てて周囲を見回すと、さっきまで家であったものの残骸が、ばらばらに散らばっている。この家に、彼女が眠っていたのだ。
「ラウ! ラウ! どこだ! 無事か!」
大声で名を叫び、動揺に足を縺れさせながら、目の前の大樹をぐるりと回った。けれども、彼女の姿は見あたらなかった。彼女の鍬や移植ゴテや衣類は、草の上に散らばっていたが、彼女はどこにもいなかった。
「ラウ! 返事をしてくれ! ラウ!」
土から盛り上がった大きな根に足を取られながら、大樹の周囲を何度も何度も探し回った。枝に引っかかってはいまいかと、大樹に登ってもみた。地面に倒れていた壁板を、どんな小さな一片まで持ち上げてもみた。
けれども彼女はいなかった。
どこを探しても見つからなかった。
彼女は……ラウは、朝露のように消えてしまったのだ。
どういうわけか、大樹の頂には、二人で過ごしたベッドが引っかかっていた。
「信じられない!」
ばん! と両手を木のテーブルに叩きつけると、女は椅子を鳴らして立ち上がった。
茶色の髪を頭の上で無造作に束ねた、気の強そうな大人の女だ。
「やはり、信じてもらえないんだな。こんな、突拍子も無い話じゃ、無理もないがな」
それでも信じてもらいたかったと言いたげに、深いため息をついて、木のカップをテーブルに置いたのは、黒い髪や顎髭に白いものが目立つ、中年の冴えない男。熊や狼が出ると恐れられる深い森の奥で、三十年以上ひっそりと暮らす薬草売りだ。
彼は大金で取引される貴重な薬草をタダ同然に売り渡し、自分自身は極貧生活に身を置いていた。妻を持たず、必要最低限の人付き合いしかせず、薬草と家の前にそびえる不思議な大木の世話だけに明け暮れる彼は、町の人々からは世捨て人と呼ばれていた。
女の方は、男から定期的に薬草を買い付ける薬師の娘だった。
「違うわよ、馬鹿! あんたが、勘違いしてることが信じられないって言ってるの!」
「勘違い?」
男がゆっくりと顔を上げると、腰に両手をあてて睨み下ろしていた女が、ぐいと顔を寄せてきた。
「そうよ。あたしはあんたが、あの木をどれだけ大切に思っているか、よぉく知っている。でも、その話が真実なら、あの木は、あんたの今のような生き方を望んじゃいないよ」
「ラウは……、あの木は、俺のそばに根付くことを望んだんだ。だから、俺は彼女を裏切れない」
「違うわよ! 裏切りなんかじゃない! あんたが妻を娶り、子を育て、幸せに暮らしていくことこそ、彼女が望んでいることなんじゃないのかい? そんな幸せな場所を作りたいと、その娘は言っていたんじゃないのかい?」
「まさか……そんな」
男は初めてものを見たかのように、大きく目を見開いた。
「ようやく分かったのかい? その娘はあんたの幸せの場所になりたかったのさ。なのに、あんたがそんなにしょぼくれてどうするのよ! ほんと馬鹿なんだから!」
女は大声で罵ると、くるりと背を向けて、一部屋しかない山小屋から外へと走り出していった。
「タルマ! 待ってくれ!」
男も慌てて椅子を立つと、彼女の後を追った。
玄関の扉を開け放つと、すぐ目の前に、樹齢何百年にもなりそうな大樹が立っている。この辺りでは見かけない珍しい扇型をした木の葉は、秋風にさらされて、眩しいばかりの黄色に染まっていた。
女は、土から隆起した太い根の上に乗ると、硬い鱗を思わせるごつごつした幹に両手を当てた。高く見上げても、折り重なる枝や密集する黄色に邪魔されて、空など見えはしない。
女は大きく息を吸った。
「ねぇ、ラウの木、聞いておくれ。あたしは、トキヤと一緒になりたいんだ。この森の、この小さな家で、あんたの側でトキヤと暮らしたいんだ。あんたは、あたしたちを祝福してくれるかい?」
そう叫んでも、大樹は何も言わない。
「あたしたちを見守っていてくれるかい? ねぇ!」
必死に訴える女を、背後から男が抱きしめた。
ラウの木は何も言わない。
ただ、二人の頭上に、葉の隙間からきらきらと眩しい光の粒を落とし、たくさんの秋色の葉を風に舞わせるだけだった。