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髪留めの縁

作者: 新良広那奈

 ほう、と息を吐いて指先を温める。

 春も間近と思いきや、ここ連日はひっきりなしに強風が町を襲っている。

 せっかく、時期的に考えて春物でコーディネートしたのに、結局寒さに耐え切れずにマフラーとニット帽を着けるに至った。


(なんだかちぐはぐな格好になっちゃったな)


 ひっそり吐いた溜息を知る者は何処にもいない。

 道行く人は自分の足元と進行方向にばかり目をやっていて、こちらをちらりとも見ようとしないから。


(気楽だな)


 寂しいとは思わない。

 思っていたとしても、それを意識には押し出さない。

 何故なら、意識しなければ、それは「無い」感情として自分で処理出来るからだ。


 昔から、こういうやる瀬の無い感情は「認識しない」ことで上手く処理してきた。

 父と母が喧嘩ばかりして自分のことを省みなくなった時も、透明人間みたいに感じられる自分の存在を楽しむことに意識を費やした。

 そうすれば不思議と両親の喧騒が遙か遠くの川のせせらぎのように体にすっと馴染んで、寧ろ一種の心地よささえ覚えられる程だった。


 世間には、「寂しい」、「自分は不幸だ」と声高に主張する人が数多く存在する。

 けれど私はそうした人種を見る度に、「この人達は随分と面白いことをする」と目を丸くして楽しむことに決めていた。


 例えば携帯小説なども、この手の不幸な人生を前面に押し出して「感動の自著伝」などと銘打ってあるが、あれは一体何処の誰の事実を描いたものなのだろうと、何度見かけても鼻白む。

 流行はいずれ廃れるものだが、それでも今までに多くのああいった作品が生まれているのは事実である。

 しかしそうなると、この一見平和な世の中にはレイプや援助交際や堕胎などの禍々しくも淫靡な暗闇が随所に散りばめられていることになる。

 若者はこぞってそれらの不幸な話を買い求め、読んでは涙を流して同情をしているようだが、彼らは何も感じないのだろうか。それらの話が本当に事実なら、この世にそんなに多くの闇があるのだと言われているようなものなのに。


 私はそこまで堕ちた世の中だとは思いたくないし、実際そう捨てた世ではないと思っているからこそ、ああした作品には決して涙も落としてやらないし同情なんてしてやらないようにしている。

 というより、自ら進んで読んだりすることもない。

 わざわざ「自分は不幸だ」と貶める必要は何処にもないし、他人の不幸を見て涙を流すような偽善者に進んでなるつもりもない。


 私はこういう自分の考え方や生き方を気に入っているけれど、友人からすると「かまちは冷たい」という評価に繋がっている。


「別にそこまで考えなくてもいいじゃん」


 輝夜かぐやの声が耳元に蘇る。

 天使みたいに甘いソプラノは、けれど決してその声のような甘い言葉を私にくれたりはしなかった。


「私は沢山携帯小説読むけど、別にそれが創作であろうと事実だろうと、楽しいから読んでるだけだもん。

 皆もそうだよ。別に他人の不幸を笑ってる訳じゃなくて、楽しいから手に取るの。

 かまちみたいにかっちかちな考えで世間を見てたら、つまんなくならない?」


 単なるクラスメイトとはいえ、私の生き方そのものを否定されるのは面白くなかった。

 彼女はそんな風に否定したが、私はこれでも青春を謳歌しているつもりだ。

 多少シニカルな考え方に偏っていることは認めてもいいけれど、それでも根本的なところはオプチミズムを取り入れているし、決して後ろ向きではないと自負している。


 思春期の青年というのは誰だって、自分に自信と不安を持っている。

 この考えが絶対だと思いながら、しかしそれでも全幅の信頼を置くことが出来ない。

 だからこそ自分と違う意見に殊更目くじらを立てて反駁し、相手の思考をやり込めることで自我を保ち、自分こそが正義なのだと思おうとする。


 本当は、誰の意見も正しくて間違っているのに、それに気づく者はあまりいない。

 自分が正しいと思えば、それは例え他者から見て何処までずれていようとも正解なのだ。

 皆がそれを白と評しても、自分には黒に見えるならそれは黒なのだ。

 自分の心が向かう方こそ、その人にとって正しい方向であり、未来である。

 そこに第三者の意思や思惑は決して絡む余地はない。


 だけれど、アイデンティティの確立していない青少年達は皆、自分の足場を固めきれていなくて、すぐに考えがぐらついてしまう。

 だからこそ一度は他者と自分を比較して、そうして「自分の足場を固めるため」に敢えて他者の足場を徹底的に壊そうとする。

 それで相手の意思が弱れば自分の考えこそが正解だと、思い込もうとするのだ。

 なんて愚直なんだろうと感じずにはいられないけれど、その愚かさと向こう見ずさこそがこの年頃の子供達に許された特権なのかもしれない。


(もしそうならば、私は)


 私は、特権すらも放棄した子と言えるのか。

 想像すると、なんだかとても愉快だった。

 今この時しか許されない権利を行使せずとも、自分は足場をきちんと固められているのだ。

 同年代の子がいじめや携帯小説の読破に勤しむ中、私は既に自らのアイデンティティを得ていて、何者にも揺るがせない強い意志を胸に秘めているのだ。


(今はこんなちぐはくな格好に身をやつしているけれど)


 ぴらぴらと音を立てて舞い上がろうとするワンピースの裾を空いている手で押さえながら、私は前を見つめた。

 相変わらず自分の格好は変てこでどうしようもなかったけれど、それでも、この心には外見とは全く違って一分の隙も存在しないのだ。

 その自覚が、私の足取りをしっかりしたものにさせていた。


 裾を押さえてゆるゆると、しかし確実に歩を進めていたら、なんだかまるでドレスを持ち上げて歩く貴婦人にでもなってしまった錯覚を覚える。

 相変わらず、町中の人々は誰も私に目を留めたりはしないけれど。


(オードリー・ヘップバーンにでもなったみたい)


 彼女の演じた有名な映画を思い出す。お姫様がお城を脱け出して、町中へお忍びで遊びにいくあの話だ。

 ふわふわとバルーンスカートのように空気を含んで膨らむこの洋服が私に可愛らしいドレスをイメージさせ、それを纏う自分をあのお話の主人公と重ね合わさせてくれた。


(女の子は皆、お姫様がお好き)


 それは、例え皆から淡白と称される私でも同じこと。

 これから会う人は決して王子様なんかじゃなく、ただの部活の仲間だけど、今の気持ちなら少しは相手に王子様的役割を求めてしまうかもしれない。

 お酒に酔ったような、軽い酩酊感。体が地から浮いているような身軽さ。


 風に押し流されるようにして、私はそれでもしっかり足を前に進めていく。

 すると、突然、びゅうと一際強い風が頬を撫ぜていった。

 ピンで留めていた前髪が、はらりと視界を覆い尽くす。

 一面の真っ暗な世界に顔をしかめた。

 どうやらピンが外れたらしい。

 お気に入りの髪留めだったのに。

 道行く人はこちらを皆見ない。

 足元や進む方向に目を向けるのに余念がなく、通行人の一人が失せ物探しをしようとしていることにも無関心を貫き通している。


(それが当然だもの)


 寧ろ、通行人が手伝ってくれることを考えてしまう人の方がおかしい。図々しいにも程があるというものだ。


 それでも、たった一瞬。

 地に顔を伏せ、しゃがみ込もうと体をかがめる前のほんの一時、向かい側からこちらへやって来ようとする青年と視線がかち合った気がした。

 すぐにぱっと彼の目の向く方向が変わる。

 けれども気のせいだとは思いつつも彼の方から目が離せなかった。

 その青年の瞳はガラス球のように透き通った青い瞳をしており、こちらの興をひどくそそったのだ。

 暫し見とれた後で、慌ててしゃがみ込んで、風にさらわれたピンを探そうとした。


 その髪留めには牡丹のように大振りの花が添えられていて、髪に挿せば艶やかだったし、地に落ちればすぐに見て取れるはずだ。

 何処にあるかと必死に探している私の脇を、先程見かけた青年がすり抜けて行った。

 あのガラス球のような瞳は、果たして私を本当に見つめていたのだろうか。

 何だか、困っている私を哀れんでいるようにも見えたのだけれど。

 彼のことが何故か気になって、その歩みが向かっただろう先へ目を向ける。


 まただ。また目が合った。

 茶色に明るく抜けた髪から、何か意志を秘めている、強い瞳が覗く。

 青年は、何があったのだろう、元来た道へくるりと顔だけを転じていた。

 その視線の先にいたのは、紛れもなく「私」だった。


 ……いや、よく考えれば、単なる自惚れだとすぐに察しがつく。

 ゆっくりと自分のアイデンティティがぐらついていく気がした。

 気持ち悪い感覚だ。

 私はとっくに子供時代から脱け出したつもりでいたけれど、もしかしたらそれは勘違いだったのだろうか。

 相手の目が自分に向けられているという自意識の過剰さは、自我の確立されない子供の心にしばしば芽生えるものだから。


 視界の片隅に映った黒光りする革靴が、地を軽やかに叩く。

 淀みの無い動きは清廉潔白そのもので、私は息を吐く間もなくそれに見入っていた。

 頭上から差し伸べられたものに目をやって、ようやく私は気づく。


「お嬢さん、お困りのようですね」


 勘違いなど一つもしていなかったことを。


 骨ばった、しかしそれでいて粗野ではないその白磁の手が、まるで天から垂れ下がった蜘蛛の糸のように見えた。

 それはもしかしたら、単なる心象風景なのかもしれないと思って、一度目をしばたいてもみた。

 しかしやはりそれは現実の映像だった。


「はい」


 空気を吐き出す要領で、小さい返事を一つ。


「僕でよかったら、手伝いましょう」


 耳に優しいテノールを味わっている最中に、遅ればせながら気づいた。

 あの青い瞳は、決して彼の出自を示すものではないのだと。


「見なかったふりをしようと思いました。雑踏に紛れればそれは簡単なことだと」


 実際、そうして多くの人が私の存在を黙殺している。

 彼にだってそうすることは十分出来たはずだ。

 事実、彼は一度、私の側を通り過ぎている。


「けれど、無理でした。貴女の瞳が、あまりにも寂しそうで」


 今手を差し伸べなければ、この子は何処かで涙を流すのではないかと不安に駆られたのだという。

 一度揺さぶられた自我が振り子のように更に大きく揺れた。

 寂しいなんて、一度も思ったことはなかった。少なくとも、ないつもりでいた。

 それに、中庸を貫いているという、不思議な自覚と誇りのようなものも持っていた。

 けれど彼は、私が寂しそうだと言うのだ。

 日本語をぺらぺらと話す割に不思議なガラス球の目を持つ青年は、ひょっとしたらその不思議な瞳で、私自身でも知らない私を見つめていたのかもしれない。


「初めてお会いしたのに、不思議ですね。僕は貴女を泣かせたくない」


 まるで女を口説くのに慣れた者のように、気障な台詞だった。

 うろうろとさ迷って定まらない視線や真っ赤な表情さえ隠されていれば、私は彼を口説き魔だと誤解していただろう。


 確かに私はどうしようもなくシニカルで一風変わった考え方を持っているかもしれないけれど、それなりに自分が女であることの自覚もあるし、それ故に胸に抱かずにはいられない思いもある。

 恥ずかしながら、自分が乙女思考の持ち主であることも知っている。

 だからこそ、胸がざわめく。


 こんなにも出来すぎたシチュエーションには、何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。

 差し伸べられた手をこういった疑念から拒んだことは、今までにも何度もあった。

 今回もまた、受け入れるか突き放すかの選択肢を与えられている。

 どちらを選べばいいのか、分からなかった。


 途方に暮れて、進むことも戻ることも出来ないままに地べたに腰を下ろし続けていると、不意に体が引き上げられていく。

 地に足が着いたと気づいた時には、また足場がぐらついた。


「困らせたい訳じゃないんです。貴女はただ僕を利用してくれるだけでいい」


 心の足場ではなく、本当の足場が。

 抱き寄せられているのだと気づいた時には既に遅く、彼の腕の中に閉じ込められていたのだ。


「何を落とされたんですか?

 言って下さい。探してご覧に入れます」

 何故声を一オクターブ落としてそんなことを言うのだろう。まるで二人だけの秘め事だと匂わすかのよう。

 いくらすぐに見つかるだろう意匠がこらされているとはいえ、この風では何処まで飛んだか分かりやしない。

 彼の善意をいぶかしく思いながらも、自分一人ではどうしようもないので彼に助力を素直に頼むことにした。

 ピンの特徴を告げると、

「お任せください」

 まるでもう十年程私に仕えていた者のように、彼は素早く私から離れ、優雅な身のこなしで先程私の脇を通り過ぎた時のように、もう一度目の合ったあの位置へ戻っていった。


(任せろと言った癖に)


 ちょっと気になって声をかけただけで、やっぱりどうでも良くなって、この場から立ち去ろうとしているのだろうか。だとしたら、少し酷薄すぎる気もする。

 やはり見知らぬ他人など、簡単に信用してはいけなかったのだ。

 そういう考えをより強固なものにしていこうと決めている最中に、


「どうぞ」


 心地良い声が耳を打った。

 ぱっと顔を上げると、先程のガラス球の青年がそこにいた。


「え……貴方、帰ってしまったんじゃ」


 がくりと、彼が軽く肩を落としてみせる。

 パフォーマンスの一種と知りながら、その動作には本当に感情が込められているようにも見えた。


「任せてくださいと、僕はそう言ったでしょう?

 お困りの方を置いてさっさと帰るような薄情な人間に見えたのでしょうか」


 ごめんなさい。少し、いやかなりそう見えました。

 とは白状せずに、小さく首を横に振った。社交辞令だ。


「良かった。貴女に勘違いされてしまうと悲しいですから」


 やけにこちらに気を持たせるような言い方をする。

 けれどやはり、表情にはこなれた感じが無い。

 「もしこれが演技だったら、人々全ての表情を疑ってかかるようになるかもしれない」という位にそれは素に見えた。


「さて、と」


 長々と続いた美辞麗句を打ち止めるための声が風に乗った。


「さ、これが貴女の髪留めでしょう?」


 彼が先程から差し出していた手には、ずっとそれが乗っていた。

 ただ、その話に気を取られて、しっかりと見つめることが出来ずにいたのだ。


「私の……!」


 彼は私の言葉にならない声に、頷いてみせた。


「実は先程、貴女の脇を通りすぎて少し離れた場所に辿り着いた時、この可愛らしい髪留めを見つけていたんです。

 元々お役に立てないかなと考えていたので、これはもしかすると、と思いました」


 勿体ぶることなく、手品の種明かしをあっさりとしてしまうところからすると、彼は素直な性格らしい。私とは正反対だ。

 話が続く。


「そんな風に、すぐに、ついさっき見かけた女性が落とした物ではないかと察しがつきました。

 でも、確信が無かった」


 彼の手から、恭しく髪留めを受け取って傾聴の姿勢を取る。


「だから、風で飛ばされない内にと、貴女の元へ舞い戻ってきたのです。

 髪留めの特徴を聞いて、ほっとしましたよ。間違いでは無かったんだ、と」

 合っていて良かった、と彼は頬を薔薇色にして私に微笑みかける。


 なんというか、毒気が根こそぎ抜かれてしまうような人だ。

 私の脇を通り過ぎる時にも、もう彼は私のことを考えていたのだという。

 それが本当なら、どうしようもなくくすぐったかった。

 いや、本当なのだろうと、もうほとんど信じきっていた。


「僕は貴女のお役に立てたでしょうか」


 根っからの従者気質なのか、彼は他人である私のご機嫌伺いに終始している。

 今にも「姫」と呼ばれてしまいそうで、ちょっとだけ怖い。

 それでも私が彼に感謝しているのは、紛れもない事実だった。

 だから、いつものシニカルな笑みではない、本来の笑みを出そうと努める。


「ええ。ありがとうございました。

 この髪留めは私のお気に入りで、失くしたくない物でした。

 風で飛ばされていたら貴方の言うように、もしかしたら何処かで泣いていたかもしれません」


 ひいおばあちゃんから譲り受けた、大切な形見だった。

 ひいおばあちゃんはぼたんという名の持ち主で、ひいおじいちゃんの家に輿入れする際に、彼から「その名に相応しいだろう」と、この髪留めを貰ったのだと聞いた。

 実際のところ、きちんと見てみるとこの花は牡丹ではないのだけれど、彼女にとっては自分の名になぞらえた贈り物をされたことが何より嬉しかったのだとも聞いた。


 そういう素敵なエピソードを持つピンを渡された幼い頃の私は、これを持っていれば私にもそんな素敵な出会いが訪れるのかもしれないと素直に感じていたのだ。

 そんなことも、もう久しく忘れていた。

 エピソードは忘れても、ただ「曾祖母から譲り受けた大切な物」という意識だけは忘れていなくて、だからこそ辛うじて、これは宝物であり続けていたのだ。


「良かった。

 想像していた涙ではなく笑顔を見られて、僕も嬉しいです」


 瞳が細められ、唇が弓なりにしなっていた。綺麗に笑う人だ。


「人々は皆他人を気にしないように生きている気がするんです。

 それは他人の労苦を請け負わない点では気楽なのですが、誰かの悩みを見過ごしてしまう点で、僕にとっては気がかりなんです」


 だからこそ、彼は私の助力を願い出たのだろう。困った人を見なかったふりが出来なくて。

 たったそれだけの好意から出た行為。

 それでも私は助かったし、彼も気がかりが減ってほっとしている。


 偽善は嫌いだった。だからいつもそういう差し出がましい行為は控えたし、気がかりだって悲しみだって「認識しない」ことで上手く封じ込めて、さばさばとした関係を作り上げていた。

 でも、きっと本当はそんな関係は望んでいなかったのだろう。

 彼と作り上げられたこの関係がもたらす心地良さが、それを証明している。


 もしかしたら両親が離婚した時にも、私は悲しかったのかもしれない。

 友人が側を離れていく時もひょっとしたら傷ついていたのかもしれない。

 今となっては既に過去のことだからどうしようもならないけれど、これから先は変えていくことが出来る。彼のお蔭で。


 受け取ったまま手の中で握り締めていた髪留めを、元あった位置に挿し直す。

 視界がすっきりして、より彼の表情が目に入った。

 これでもかという程に、温かな眼差しでこちらを見つめているところだった。


「ふふ、やはりその髪留めは、貴女によく似合う」


 すっと、形見の挿された場所に彼が手をやる。頭に形の良い指が触れているのを感じた。

 大切な物だから気安く人に触らせたりしないのに、「命の恩人」である彼になら、触れて貰っても良いと許せた。

 気恥ずかしくて、少し俯く。額に彼の指がくっつく感触がした。


(……あれ)


 俯いたその時、ブレスレット型の腕時計に目が向かった。


(……あ!!)


 待ち合わせをしていたのだ!

 来月の部活動の打ち合わせのために、部長である彼と副部長の私で話し合う約束だった。

 彼はとてもとても俺様な性格をしているので、遅刻をしたらどんな無理難題を言ってのけるか分からない。

 幸か不幸か、待ち合わせまで残り時間は十五分だった。

 まだ徒歩でも暫くかかる場所で会うことになっているので、急がなくてはいけない。


「あの、すみません。待ち合わせがあるので、私はこれで」


 本当にありがとうございました、ともう一度頭を下げる。

 今にも踵を返して目的地へ駆け出したいところだったが、彼が何か物言いたげな顔をしていたので一呼吸置く心持ちで立ち止まる。


「僕はこの通りをよく歩いています。縁があったらまた会いましょう」


 こくりと頷き、私は彼の前を辞した。


 風は相変わらずその強さを維持したまま、私を襲う。

 先程までと同じで、追い風だからそれにさえ乗っていれば、なんとか時間には間に合うだろう。


 風を受け入れては膨らむワンピースを必死に押さえつつ、片手にはバッグを提げて、目的地へと急ぐ。

 さっきまでよりも、もっともっとしっかりとした足取りで。

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