02
中庭から逃げて、校舎裏の水道で顔を洗う。
顔を拭けば、ポケットに入れていた小さなハンカチはびしょびしょに濡れてしまってポケットにしまいなおすこともできない。
「伊藤?」
「!?」
後ろからかけられた声に、びくりと身を竦めた。
ぎゅっと握りしめたハンカチがちょっとだけ冷たくて、ほんの少し冷静にしてくれる。
深呼吸を一つして、振り返ると予想通りの人が心配そうに私の様子をうかがっていた。
「安藤君…」
「すごい勢いで走ってたけど、なんかあったのか?」
「えーと、ちょっと、ごく個人的なことなんだ…」
「ふうん、じゃあ突っ込まないけど、俺伊東のこと探してたんだ。」
「え、なんかクラスのほうで私やり残してた?」
「違うよ。」
「えっと、じゃあどうして…」
「好きです」
少女漫画なんかだったら、ざあっといい感じの風が吹くような場面なんだろう。
実際には、風も吹かず、ただ私が間抜けな表情で固まってしまっただけだったのだけれど。
「へ?」
「あぁ、もう。そんな間抜け面でいかにも予想外でしたっていう顔すんなよ。」
「えっ、だって、安藤君と私そこまで親しくなかったよね?」
「去年、少しだけ関わってる。」
「え、去年はクラスも違ったよ、少しって」
「そんなことどうでもいいから。返事は?」
「…ごめん」
「理由聞いてもいい?俺のことは嫌い?」
「いや、嫌いとかではなく!むしろ人間的には好意をっ持っているんだけど!…たぶん、私は安藤君のことそう意味での好きではないの。」
「時間をかけて、好きになってもらうって選択肢はない?」
感情的になるわけでもなく、ただ真剣に私の返事に言葉を返してくる安藤君に、私は一度口をつぐんだ。
深呼吸を一つして、言葉を吐き出す。
「…安藤君の言う、好きって、何なの?」
お母さんのことも、お父さんのことも、クラスで仲良くしている友達のことも、好きだ。
透くんのことも、もちろん好きだ。
安藤君のことは、よくわからないけど、文化祭中だけしか関わっていないけれど、いい人だし、好きになれるだろう。
担任の先生も、たまに怖いけれど優しい人気のある先生で好きだ。
でも、そういう好きとは違う好きがあるんだろう。
久野さんが言う好きも、透くんがあの日いった好きも、きっと違う。
思い出しただけで、胸がずきずきと痛む。
なんでかはわからない。
「伊藤って、大人っぽいかと思ってたけど、すっごい子供なんだな。」
こちらは、真剣に聞いたというのに、あきれたようなため息が反ってきた。
予想外の反応に、思わず驚いてしまう。
「えっ、どういう意味?」
「そのままの意味。それに、すごく天然。」
「天然ではないよ!」
「そんな恥ずかしいことを聞いてくる時点で天然以外とは認めない。計算ならタチ悪い。」
「うっ…じゃあ天然でイイデス。」
「はー…で、さっきの好きってのは、…俺の場合はだけど…もっと近くにいたいっていうことだよ。」
「はっ、ハレンチ…!」
「…どういう意味を想像したんだよ。」
「思春期的な?もっというなら皮膚接触的な。」
「その説明もどうかと…。あと伊藤って無駄に勉強できる奴だったな…」
「勉強だけは透くんのお墨付きだからね!」
「それ、そのトオルクンより、俺のほうが親しくしたいっていう意味。」
「へ…」
透くんは、お兄ちゃんで、お隣さん。
ずっと生まれた時から一緒にいて、近いとか遠いとかそんな次元じゃなくて。
「伊藤がまだ自覚してないみたいだったから、今のうちしかないと思ったんだ。」
「自覚、って」
「でも、フェアじゃないよなぁ。」
「待って、意味わかんないよ。」
「わかってほしくないんだよ、俺は。だからわかるようになんか言ってやんない。」
「…意地悪だ」
ぽんぽん、と私の頭を軽く撫でて安藤君は苦く笑う。
「さっきの返事、ゴメンナサイはわかった。」
「あ、うん」
「好きが何かって聞くほどのお子様に告った俺が悪かった。」
「うん?」
なんだろう、そこはかとなく、バカにされている気がする。
「デートしてください」
「ふぁっ!?」
意味が分からないよ!
どうして告白をゴメンナサイした相手をデートになんて誘うのだ。
もう一度言う。意味が分からないよ!
「気軽に、友達と遊ぶ感覚でいいから。」
「えっ、それは無理」
「バッサリだなぁ」
「だって、そういうの良くないよ」
「…変に期待しない。ただ、伊藤は俺のこと何も知らないだろ」
「委員長ってことくらいは」
「そのくらいクラスの奴ならだれでも知ってる。そんなのでゴメンナサイされても納得できないんだよ」
「…デートしたら、納得できるの?」
「……する。」
即答しない安藤君はどうにも不審だけれど、仕方ない。
「わかった。いつにする?」
「月曜、文化祭の代休は予定入れた?」
「クラスの打ち上げがあるじゃない。」
「それは夕方からだろ? その前に遊ぼう。そのほうが、伊藤も変な緊張しなくていいだろ。思春期的な意味で。」
「…お気遣いドーモ!」
からかいを多分に含んだ安藤君の言葉に、やや慳貪に言い返して、私は小さく噴き出す。
ポケットの中で、携帯電話がメールを受信していた。