悟り少女は逃げ出した。
サラリ、と髪を梳く冷たい手の感触がする。
8割眠っている頭で、手の持ち主のことを考えるけれど思考はまとまらずとめどもないことに流されて形にならない。
優しい掌が離れていきそうになるたびに小さくうなって拒めば、優しい人はそのまま撫でてくれた。
ずるい、なんて自分でもわかってる。
「ひな、好きだよ。」
告げられた言葉は、とても甘い響きを持っていて、とてもじゃないけれど私には抱えきれない。
だってまだわからない。好きってなんなの?
それをわかっているから、優しい人は私がしっかりと起きているときには絶対に言葉にしない。
ずるい私は、ころりと寝返りを打つフリでその言葉から逃げる。
あぁ、なんって最低。
でも、この手は私だけのものじゃない。
くすくすと笑う声がする。面白くない。
でも起きたくない。半分以上覚醒してしまった頭で、それでも眠りにしがみつく。
冷たい手が不機嫌な私の気持ちをほぐすように撫でてくれるから、窓から入ってくる日が温かいから。
起きたく、ない。夢の中でまどろんでいたい。
* * * * *
出会ったのなんて、覚えていない。
だって私は生まれて初めて家に帰ってきたところ。すなわち生後数週間だったのだから。
母と一緒にお隣のご家族へ退院のご挨拶に行った日だった。
5つ年上の“お兄ちゃん”お隣の息子さんだった城嶋 透は母の勧めでおっかなびっくり私を抱きかかえてくれたらしい。
新生児特有のふにゃりとした体にすごく怖かった、だなんて言われても、現在私は健康優良児なのだから何の問題もなかったことは明らかだ。
共働き、かつバリバリキャリアな両親は私をお隣さんに預けて早々に仕事に復帰。
専業主婦だった城嶋母はもはや私の第二の母である。
お兄ちゃんだって、本当のお兄ちゃんだと思えるほど長い期間を一緒に過ごした。
年の差のせいで学校こそ同じではなかったけれど、休日もよく構ってくれたし、今通っている高校の受験なんかほとんどお兄ちゃんにマンツーマン指導してもらったおかげで合格したといえる。
学校が終われば、自宅にカバンを置いて制服から部屋着に着替えて家を出る。
部屋着だというのに外出するのはいつものこと過ぎてもはや当たり前だ。
お隣の玄関チャイムはスルーして鍵の開いているドアをくぐり、鍵をかける。
「お邪魔します。」
「ひなちゃん、おかえり。」
「城嶋ママ、ただいま。」
ちょっとだけちぐはぐな挨拶も、16年続ければ違和感ない。
作りかけの夕飯のあったかいにおいに、ホッと気持ちがほぐれる。
両親に愛されていないなんて思ってない。
両親は私の為にたくさん働いているってわかってる。
でも、誰もいない家に入ると、どうしてもほんの少しだけ寒気がするのだ。
「城嶋ママ、手伝う?」
「大丈夫。透ももうすぐ帰ってくると思うわよ。ひなちゃん透の部屋に行ってる?」
「じゃあそうする。読みかけの本もあるし。」
2階のお兄ちゃんの部屋に入るときに、ノックはしない。
これも習慣だ。
お兄ちゃんの本棚は漫画やラノベと、ハードカバーや文庫本、大学生になってからは専門書も加わって雑多だ。けれど整理されているから、私が読みたい本もすぐに見つかる。
A5より少し大きいサイズのハードカバーを引っ張り出して、しおりを手繰る。
窓際に椅子を置いて、文字を追う。すぐにのめりこんで、外の音が少しだけ遠くなる。
10ページくらい読んだあたりで、ちょっと目が疲れて遠くを見ようと窓の外を見た。
家の前で、お兄ちゃんと、知らない女の人が何か話していた。
おなかの中がざわざわする。
女の人は真っ赤な顔をしてて、こちらに背中を向けているお兄ちゃんの表情はわからない。
窓も開けてない部屋からでは、声も聞こえない。
お兄ちゃんの手が、女の人の頭を柔らかく撫でた。
ショック、というのだろうか。何だかひどくドロドロとしたものが喉からおなかに流し込まれているようで、見たくもないのにその光景から目が離せなかった。
お兄ちゃんが、女の人と別れて玄関をくぐる姿までみて、やっと視線の自由を取り戻し、開きっぱなしの本に目を落とす。
内容なんて全然頭に入ってこない。
トントンと階段を上がってくる足音に、しおりを挟んで本を閉じる。
「ひな、ただいま」
自分の部屋なのだから当たり前だが、ノックもなく扉を開いたお兄ちゃんがいつも通り、声をかけてくる。
「おかえり、お兄ちゃん」
私の声は、いつもと同じだろうか?