萌芽の匂い来たりて
とある大学の研究室の来客用席に座っていると、白と灰色の簡素なデスクとあらゆる種類の本が詰め込まれた本棚を照らす曙光が、これまた簡素な窓からレースのカーテン越しに注ぎ込んでいた。
雑多かつシンプルな研究室に似合った、まさに午後の木漏れ日と言っていいだろう。 もしかしたら構内へと入る前に見たうず高く積もった雪に反射した光がまだ、私の網膜にへばりついて離れないのかもしれない。
そこまで考えて、目の前に置かれた所々錆の浮き出た古い大型ストーブに感謝の念を送りたくなった。
ロートルながらも力強く熱気を吐き出しているこのストーブが無ければ、この研究室は半分ほど開いた窓によって外気との温度差が限りなくゼロに近くなっていただろう。 そうしたならば、私は失礼を承知で研究室の主の柔らかな椅子を借用していたはずだ。
それが幾度に亘ってここに通う内、研究室の主は大学のどこからかこのストーブを入手してきてくれたらしい。
ブーンという音を共に身体を温めてくれる熱気と、冬の終りで多少勢いの和らいだ寒気とが研究室へと流れ混んでは攪拌され、心地良い空間を作っていた。
――眠ってしまいたい。
そんな誘惑を覚えてしまうほどにこの瞬間は甘美な一幕なのだ。
ふわりふわりと風を受けるカーテンを見ながら、いまだこの研究室に現れないこの部屋の主に思いを馳せる。
私がまだ若い頃、この部屋でイギリスのフィスタという小さな村の小話を聞いたことがあった。
とはいえ、その内容は覚えていないし、そもそも私に説いた話でもなかったのだ。
その時の私は、教授の腕の暖かさの中で微睡んでいたことだろう。 今では主の腕の中で感じた温もりはストーブのそれに取って代わられていた。
だがそれではそれで構わない。 今までに教授が何日も現れない日もあったのだから。
それでもいつか教授はいつものように、困った顔をしながら私の頭を撫でるのだろう。
ふと、風の中に春の、萌芽の匂いがするのに気付いた。
教授の腕の中で抱かれながら4度目の冬を迎えた時にやっと気付いたのだ。 冬の終わりと春の始まりは既にもう来ていること、そしてそれは視覚で知るよりも先に感じられることに。
その匂いに再び出会えた事に、過去の全てがただただ溶け出して行くような、歓喜があった。
教授は見ることのできない何かになって春の訪れと共に私を抱きに来てくれたのだ。
そこにいるであろう教授に向かって一声だけ発した時、優しく教授が撫ででくれた気がした。




