n番目の数学者
「あの……今日は、君に、伝えたいことがあるんだ」
「なによ? 急にどうしたの?」
「その、話さなければいけないというか、なんというか」
「――もしかして、別れ話?」
「いやいや、そういうわけじゃないんだ。だから、その」
「はっきり言いなさいよ」
「僕と、結婚してください!」
「あらうれしいわ。誕生石はダイヤモンドだから、お給料三カ月分の指輪をお願いね」
「…………」
「不満だっていうの? 甲斐性のない男ね。こうなったら今すぐ別れてやるわ、私にはジョニーデップ似の新しい外国人の彼氏がいるんだから」
「なあ、もうちょっと真面目にやってくれてもいいんじゃないのか」
「あらそう?」
「――はぁ」
これ見よがしに大きなため息をつく。余計な緊張や、相談する相手を間違えた後悔とか、何度も夢に出てきた失敗のイメージとかをのせて、どこかへ飛ばしてしまおう。
「彼女がそんな馬鹿なことを言うはずないじゃないか。『甲斐性のない男ね』なんて昭和のドラマの見過ぎだ。それに誰だよ、ジョニーデップ似の新しい彼氏って。そんなのいたら勝てるわけないじゃないか」
「まあまあ、落ち着けって」
僕の正面に座っている男が、なだめるように両手を上下に揺らす。いったい誰のせいで怒っていると思っているのだろうか。
「お前のほうがずっといい男なんだからさ。ほら、男は外見じゃなく中身だっていうだろ」
「それはなぐさめているのか、それとも僕がさえない顔をした男だとけなしているのか?」
「もちろん褒めているにきまってるじゃないか」
男がニヤリと口元をゆがませる。つまり皮肉だったというわけだ。
「僕はな、君を信用してこんな重大な相談を持ちかけたわけだったんだが――あてが外れたようだ。幸い、君以外にも頼りになる友人をたくさん持っているものでね、ここら辺で失礼するよ」
椅子から立ち上がろうとする僕を、冗談っぽく男が制する。本気のつもりだったのだが。
やはりこいつにプロポーズの相談など持ちかけるべきではなかったのだ。目の前に一億円が積まれていたとしても真面目に取り合ってくれそうにない。
だが、これといって他にあてがないのも事実で、目の前の男以上の適任は考えられなかった――すくなくとも、今までは。
「第一プロポーズなんて早すぎるんじゃねえのか? 最近のトレンドは晩婚なんだからよ、もっと慎重に見極めてから結婚すべきなのさ」
「事情は説明したはずだ。僕にはゆずれない理由があるんだ」
「もしかすると、ほかにいい人が見つかるかもしれないぜ。お前が結婚を早まったと思うようなとびっきり美人で、性格も良くて、お前のことを好いてくれる物好きなやつが」
「彼女より素晴らしい女性なんているはずがない」
「まあ、絶滅危惧種だもんな。お前と付き合ってくれる人なんざ世界中をさがしたってそうそういない
さ」
「なに?」
「冗談だよ、のろけ話を聞かされて頭にきてんのさ」
「また別れたのか」
破局自体は別段驚くようなことではないのだが今月に入って三人目となると、驚異的なスピードだ。僕はまた気苦労のつまったため息を吐き出す。
「いい加減遊ぶのもたいがいにしたらどうだ。一か月もったためしがないじゃないか。この調子だと生涯で二千人近くと付き合うことになるぞ」
「うるせえや。こっちにも俺なりの深い考えと、事情があってだな――」
つべこべと言い訳をならべたてる見慣れた男の顔を、僕はしげしげとながめる。高身長で、凛々しい眼つき、黄金比にまとまった顔のパーツは男から見てもたしかにカッコいいと思う。
それにセットしたことが一度もないという天然の癖っ毛はまるで美容院においてある雑誌から抜き出してきたような髪形を維持し、彼が同じ服を着ているところは見たことがない。
ファッションにはかなり気を使っているのだろうが、それを除いても充分過ぎるほどのステータスである。女性関係のうわさが絶えないのもうなずける。
「君の自慢話もほどほどにしてくれ。めまいがしそうだ」
「なんだよ、こっちだって困ってんのに」
「それは悪かった」
どうして性格がまるで違うこの男と友人になったのかといえば、偶然知り合ったのだとしか説明しようがない。だが、彼のおかげで彼女と結ばれることができたのだから、出会いを否定するわけにもいかないのだ。
「無駄話はここら辺にして、もう一度練習に付き合ってくれ。こんどは真面目に頼むぞ」
「無駄話って……」
抗議するような視線を僕は無視し、自宅のアパートに保管している指輪のことを思い浮かべた。なんと
してもあれを彼女に渡さなければならない。そのために僕は何でもやるつもりだ。
僕はデート中、ずっとポケットに手を入れっぱなしだった。首筋には冷や汗が浮かび、彼女と話していてもほんとうに自分が喋っているのかどうか、わからなくなる。
夜の公園はあちこちにカップルがいて、僕らもそうであるにもかかわらずなんだか気恥かしくなって来る。ベンチの上で交わされるアツいキスや、石像のように抱き合って動かない男女を見ていると、ロマンチックを通り過ぎてしまっているような気がして、僕らは人気のない場所に移った。
そこは夜景の綺麗なところで、遠くの景色に興味のない他のカップルたちにとっては面白味のないスポットらしかった。闇に包まれた静かな空間では、僕ら二人だけが現実世界から隔離されているみたいだった。
「きれいだね」と彼女がいう。
僕は「君のほうがきれいさ」なんてきざな台詞をすらすら口にできるほど出来た男ではなかったので、素直に「うん」とうなずくしかなかった。
たしかにその夜景は美しく、都会の人工的な光がクリスマスツリーの照明みたいに輝いていた。
けれども僕の心はポケットのなかで握られた指輪のケースにばかり向けられていて、どうやって話を切り出そうかと、そればかり考えていた。
「こんな素敵な光景がみられるなんて、私たちラッキーだね」
彼女が明るい笑顔を見せる。
肩にかかるくらいの黒髪が、遠くからくる街の灯に照らされて浮かびあがる。僕を見つめる瞳がまぶしくて、僕は目をそらした。
数式の美しさとはまた違う可憐さが、僕をとりこにしてしまうから。
「ホントにきれい……。すこし離れた場所からだと、見慣れたものでも新鮮に感じられるね」
「うん」
「たしか数学にもそういう話ってあったよね。ナントカ理論って」
「うん」
さっきから僕の返事は「うん」ばっかりだ。彼女の話もぼんやりと像を結ぶばかりで、ピントのあっていないレンズみたいにはっきりしない。
僕は彼女に気付かれないように素数を言い並べてみる。2,3,5,7,11……。羊を数えるよりもいくらか難しいくらいのこの数字が、僕の緊張をとりはらってくれるはずだ。
でも、その途中で、i(愛)とi(愛)をかけ合わせるとマイナスになるとか、友愛数という二つの数字がお互いに愛し合っていることとか、余計なことばかりが思い浮かぶ。
「どうしたの? ちょっと元気ないよ?」
僕の気持ちなんて知らずに彼女はぐっと顔を寄せてくる。いつもはなんてことのないスキンシップがいやに照れ臭くなって、心臓が早鐘を打っていた。
「さっきのレストランがいけなかったとか?」
「そんなことはない。ちょっと――その、あんまりきれいなものだから、見とれていたんだ」
「そう? それならいいんだけど」
ほんとうは彼女に見とれていたなんていえるはずもなかった。
「もしかしたら私と一緒だとつまらないのかと思っちゃった」
彼女の表情が一瞬、陰った。僕はあわてて否定する。
「そんなことないさ! 僕は君のそばにいたいし、それはすごく楽しいと思ってる。ずっと離れたくないくらいだ!」
衝動的に口をついた言葉を反芻してみて、僕はある重大な事実に気づいた。これって、もしかして、プロポーズになっているんじゃないだろうか。
こんな言い方をするつもりはなかったのに。
恐るおそる彼女の顔色をうかがうと、僕の気勢にすこし戸惑ったような顔をして控えめに笑った。
そして小さく「ありがと」とささやくようにいう。
どうやらそういう意味には取っていないようだ。安心したような、残念だったような。
結局絶好のチャンスを逃してしまった僕は、プロポーズの話も、もちろん指輪を渡すこともできずにその日のデートを終えた。
「……はぁ」
「そんなに落ち込むなって。べつに振られたわけじゃないんだろ」
「僕はこのまま一生プロポーズできずに終わるのかもしれない」
「誰だって最初は緊張するもんさ。一度や二度失敗した所で、めずらしいことじゃない。普通のデートだったと思えばいいんだよ、喧嘩別れをしたわけじゃあるまいし」
「でも、彼女、『私と一緒だとつまらない?』っていったんだぜ。このままじゃ、プロポーズを切り出す前に飽きられて捨てられるかもしれない。ジョニーデップ似の新しい彼氏なんか見つけてきたらどうしよう。僕はもうおしまいだ。彼女以外に、僕を好きになってくれる人なんて考えられない」
「まあ待て。深呼吸をしてみろ」
僕はいわれた通り、ゆっくり息を吸い、肺の中を空っぽにするみたいに空気を吐き出した。すこしだけ気分が落ち着いた気がした――が、すぐにまた彼女の顔が脳裏に浮かんできて、心臓があわてふためきはじめる。
胃の下あたりがむずがゆい。ため込んだいろんな感情がそこで渦を巻いているようだった。
「理系の人間が動揺してどうする。理論的に考えろ。たかが一回のデートでプロポーズを失敗したとしても、それが永遠に失敗し続ける理由はならないだろ。それって確率論じゃねえのか?」
聞きなれた言葉に、僕の耳は律儀に反応する。
「確率論――」
「そうさ。俺はよくわかんねえが、あれって何度も実験するじゃねえか。そのなかには、もちろん失敗もたくさん含まれてるんだろ? それがたまたま最初に来たって話」
「でも、確率がゼロなら永遠に成功しない」
「宝くじが当たるくらいは勝機があるだろ」
「ひとつ教えてあげよう。宝くじのあたる確率はあまりにも低いので個人の解釈で無視してもいいことになっている。つまりゼロだ」
「あのなあ」と彼はうんざりしながらいった。「数学者のタマゴが感情に走るんじゃねえよ。そうだろ?」
「――ああ、その通りだ」
僕は頭を掻きながら反省する。いままで何を勉強してきたというのか。すくなくともプロポーズの方法を教わったことはなかったが、数学に関しては他人よりもずっと多く親しんできたはずだ。
数学の要は、論理的な思考。それを忘れてはならない。
「場所が悪かったのかもしれないな」と男はいった。「夜の公園にふたりきりじゃ、さすがのお前でも緊張するだろう。もっと賑やかな場所のほうがいい――遊園地みたいに」
「そうか、遊園地か……」
僕の頭のなかで、メリーゴーランドに乗った彼女のイメージが膨れ上がってくる。楽しい気分でなら、きっとうまく行くはずだ。僕は自分に言い聞かせて、ポケットの指輪を握りしめた。
彼女とは大学1年生の時に知り合って、それから交際をはじめた。そのとき僕はどういうわけか例の遊び人の友人とよくつるんでいて、交際までこぎつけるのに散々協力してもらっていた。
恋愛なんてしたこともなかった僕は、彼の力なしではどうすることもできなかったのだ。太平洋のど真ん中でいかだに乗って漂流しているようなものである。
それをどうにかコンパスとオールを恵んでもらい、微々たるものながら進展を続け、ようやく陸に上がることができた、というわけだ。
だが、上陸してからは自力で進まなくてはならない。あまり彼に迷惑をかけ続けるわけにもいかないし、すこしくらいは自分で頑張らないと、申し訳が立たないからだ。
僕は友人のアドバイス通り、遊園地に行く約束を取り付けた。一週間と間をあけずにデートをするのは久しぶりだが、彼女はむしろ喜んでくれた。
そこで、失敗して落ち込んだ気分を一新しようと思い、僕は初めて渋谷のブティックへ足をのばした。ここに来るには、大学院生という身分は老け過ぎているのかもしれないが、安く洋服をそろえるにはうってつけの店だ。
研究で忙しく、あまりアルバイトのできない僕にとってはありがたい店舗なのである。多少緊張はするが、別に悪いことをしているわけでもないので、きっと大丈夫だ。
土曜日ということで店内はおそらく中高生であふれかえっていた。おそらく、というのは、どの子も大人っぽくてどのくらいの年齢なのか判別がつかなかったのだけれど、ちらほらと制服を着ているのが目についたからだ。
だが、来てみたはいいものの、どんな洋服が流行なのかさっぱりわからない。
とりあえず店にかざってあるマネキンとまったく同じにすればいいだろうと思っていたのだが、どれも女ものばかりで、男性マネキンは見当たらない。
雑誌かなにかで調べてくればよかった。来れば自然とどれを選べばいいか判断がつくだろうという予測は甘かったようだ。
友人に電話すれば教えてくれるだろうか。
僕は携帯をとりだし、迷惑にならないよう店のすみにかくれて電話をかけた。ルルルルルーとコール音が鳴っているあいだ、僕はなんの気なしに店内の様子をながめていた。
「……え?」
彼女が、いた。
それも誰か知らない男と楽しそうに会話をしている。僕よりずっと男前で、お洒落にも気を使っている人。人が多いことだし、よく似た人もいるものだろうと考えたかったが、見間違えるはずのない顔がさらに追い打ちをかけた。
今、電話で呼び出しているはずの友人が、そこにいた。
見知らぬ男と彼女と、三人でなかよく笑いあっている。そして電話に気づいた友人はすこし場を離れた。
「もしもし?」
耳にはいる声は、いたって普通のもので。
僕はこたえずに「切」のボタンを押した。すぐさま電話をかけ直してくるが、僕は携帯の電源を切り、足早にその店を後にした。服を買う気には、もうなれなかった。
遊園地が灰色に感じられたのははじめてだった。
いつだって愉快なアトラクションと魅惑的な世界が待ち受けているはずの遊園地を、僕らはひとしきりまわった。その間ずっと僕の心は、前回のデートとはちがった意味で心ここにあらずという状態だった。
指輪はいちおう持ってきたものの、バッグのなかに入れっぱなしで一度もさわっていない。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
僕の心のいちばん奥で、彼女の見せたさびしげな表情がぐるぐる回っている。あれは、彼女の本心だったのだろうか。
いつにもまして僕は無口のはずなのに、彼女はしきりに話しかけてくれるし、よく笑顔をのぞかせる。その笑顔が偽りのものであることを、僕は否定することができなかった。
「ねえ、どうしたの? 最近なにか変だよ」
ついにしびれを切らした彼女が、ベンチに座ってソフトクリームを食べながらいった。
「別に」僕はこたえる。視線を合わせる自信がなかった。
「別にってことはないよ。乗り物酔いでもしたの? さっきから喋らないし、怖い顔してるよ」
「そんなことはないさ」
白い渦巻きをひとくち舐める。冷たい感触だけが舌先に残った。
「なにかいいたいことでもあるの?」
彼女が僕の顔をのぞきこむ。僕はぐっと唇をかみしめた。
「――服」
「え?」
聞こえていたのだろうけど、彼女は驚いたような、すこし嬉しそうな表情をした――気がした。
その様子が、まるであの見知らぬ男との楽しい時間を思い出したためのように感じられて、僕ははじめて彼女に対して嫌悪の感情を覚えた。
「だれと一緒にいたんだ? あの男は誰なんだよ、服屋にいたあいつは。僕のことが嫌いになったのか? そうならそうといってくれよ。別れるなら早い方がいい。こんなうわべだけの関係を続けるくらいなら、いっそさっぱり縁を切ったほうがましだ」
「そんな……」
「言い訳なんて聞きたくない。僕は君を愛していたつもりだった。それがただの勘違いの、一方通行だったというのなら、もうおしまいにしよう」
吐き捨てるようにいって立ちあがると、その拍子にソフトクリームのかたまりが落ちた。僕と彼女の思い出ごと落してしまったような気がして、僕は足早にその場を後にした。
ほんとうに伝えたかったものはちっとも言葉にできないくせに、相手を傷つける言葉ばかり簡単に生まれ、深く突き刺さっていく。
彼女は、僕のあとを追いかけてこようとはしなかった。
自宅のベッドの上で、電源の落ちた携帯電話をパカパカと開閉させている自分はひどく情けなかった。なにを期待しているのだろう。メールも電話も受け取れないのに、それでも彼女への想いを捨てきれない自分がいることは痛いほどわかっていた。
それでも、現実を受け入れるのがこわい。その感情は自分に対する自信のなさの裏返しなのだと僕は無意識のうちにしっていた。
僕は、僕が男としてさほど魅力的でないことを承知している。
だからこそこんな僕を好きになってくれた彼女を大切にしようと誓っていた。なのに、裏切られた。僕も彼女も、お互いに傷つけあった。これでおしまいかもしれない。彼女と別れることを思うと、描いてきた未来が黒いスプレーで滅茶苦茶に汚されていった。
薄汚れた路地裏の壁にあるような、悪趣味で意味のない文字が、僕と彼女の写真を塗りつぶしていく。いくつも、いくつも重なったスプレーの色は、やがて僕だけを消し去って彼女のとなりに違う男を描き出した。その反対側では、友人だった男が親しげに肩を組んで笑っている。大切なものをふたつ、一度に失ってしまった。僕の心をズタズタに引き裂いてから。
リビングで電話がしきりに鳴っている。僕はそれを無視した。何度か留守番電話にかわると、友人の声がした。僕は耳をふさぐ。聞きたくない。
「どうしてだよ」
留守電のメッセージをかき消すように僕はつぶやいた。体のなかでこもった僕の声は涙ぐんでいた。雫にならないくらいの涙が、角膜のうえにうっすらと膜を張っている。
「どうしてだよ」
僕がいけなかったのだろうか。
つまらないデートをしてしまったのがいけなかったのだろうか。お洒落な服を着ていなかったからいけなかったのだろうか。もっと恰好いい髪型にすればよかったのだろうか。
思えば彼女が僕を好きになってくれたということが奇跡のようなものだったのだ。こんな冴えない男に惚れる女性なんて、そうそういるもんじゃない。
でも――そうやって否定的に考えれば考えるほど、楽しかった記憶まで浸食されていきそうで。僕は無理矢理、今と未来を追いだした。そうして過去に浸っているあいだは、少しだけ心が安らいだ。
僕と彼女が出会ったのは、大学の授業でだった。数学以外の講義はまるで興味を抱かなかった僕は、その文学研究の授業中、ずっと僕の斜め前に坐っていた彼女を見つめていた。
同じく授業など集中していない友人が僕をこづいた。
「なんだよ?」
「気になるのか、あの子」
「べつに」
「照れんなよ。あの子のとなりにいるやつと俺知り合いだからさ、合コンくらいセットしてやれるぜ」
「余計なお世話だ」
壇上でつまらない講義をしている教授にも、真面目にノートをとっている彼女にも聞かれないよう僕らは小声で会話を交わした。
「お前が誰かに気があるなんて珍しいからな、ちょっとくらい手伝わせてくれよ」
「それより自分の心配をしたらどうだ。君は大学に入ってから何人と付き合ったんだ?」
「俺のことは気にするなよ」
ヒラヒラ手を振って誤魔化す。
この男は異様に女友達が多くて、浮いた噂に事欠かない奴だった。高校までの僕だったらこんなやつと友達になる機会はなかっただろうが、何度か同じ授業で近くに坐っていたので、自然と喋るようになっていたのだ。
そんなわけだから、彼女に声をかけるのもはやくて、その授業が終わると早速ランチに同席することになった。僕は戸惑いながらも、決まってしまった以上は逃げられなくて、大学の学食で彼女と対面した。
僕に気をつかってか、友人は彼女の連れとばかり話している。僕と彼女は初対面で緊張していて、あまり口数も多くなかったのだが、見かねた彼らが話題を振ってくれて、その流れでどうにか携帯電話のアドレスを交換することができた。どうやら彼女の連れにはもう事情が伝わっていたらしい。
僕は照れ臭くってしかたなかったのだが、誰かにそうやって恋を応援してもらうことは今までにない体験で、嬉しくもあった。なにより友人の存在は心強かったし、彼女と交わすメールは心をあたたかくさせたから。
そのとき、僕の恋人は数学だった。
将来は数学者になるんだと志したのは中学生のころだ。数字の美しさ、秩序的な論理、鮮烈な証明、そういったものが僕をとりこにした。ドラマチックな青春もそこそこに、僕は数学書をよみふけった。世界は都会の灯のように輝いていた。
その輝きは色あせることなく、僕の人生に根付いた。大学ももちろん理系の道を選んだ。彼女は文系だったが、僕らの交流の妨げにはあまりならなかった。いつもメールや電話でつながっていた。
週に一度だったメールが、やがて日に何通という頻度にかわったころ友人がダブルデートを申し込んできた。やつはいつの間にか彼女の連れと交際していた。その後、ひと月ほどで別れるのだが、とにかく僕らは最初のデートをした。場所は水族館だった。
青い水槽のなかで泳ぐ魚たちを観賞するよりも、彼女と話していたいという欲求のほうが強かった。僕ははじめて数学を忘れかけた。
「楽しかったね」
別れ際にそうほほ笑む彼女を見ていた僕は、ふいに、
「また来よう」
といっていた。彼女よりも、僕のほうが驚いていた。こんなに積極的になるなんて僕はどうにかしているのかもしれない、と思った。
彼女の答えはイエス。そして4回目のデートの時に僕が告白をして、付き合うことになった。あれは生涯で最も緊張した瞬間であり、同時に喜んだ瞬間でもあった。
「よかったじゃねえか」
成功をいちばんに友人に報告したとき、彼はそういって笑った。のらりくらりと真面目な雰囲気から逃げながらアドバイスをくれていた彼だったが、その口調は真剣そのものだった。
僕らの交際は足かけ5年となった。その間、とくに大きな喧嘩も、進展もなかったけれど、たしかに楽しい思い出をたくさん作った。
――ひとつひとつ、追憶をほぐしていき、いくつもの忘れていた光景を思い出して、ぼくは現在にもどった。
涙が、こぼれた。
玄関の叩かれる音がする。乱暴なノック。おそらくやつだろう、僕の悲しみの原因となった、あいつ。
「おい! 聞いてんのか、いるなら返事しろ」
近所迷惑ということも考えず、ドアをたたきつづける。あいつはこんなに熱い男だったろうか。僕はゆっくり立ち上がり、涙の痕がわからないように鏡で確認してから、玄関に向かう。
鍵をはずそうとした手をのばしかけて、やめる。チェーンロックをかけてから僕はドアを開いた。
「なんのようだ?」
「おい、二、三発殴らせろ。話はそれからだ」
怒鳴りつけるわけでもなく、あいつの声は冷たく落ち着いていた。
「君たちが僕を裏切ったんだろう。持ち上げておいて突き放すのか。さぞかし楽しかっただろうな」
「よし。戯言はその辺にしておけ。恋愛馬鹿になった数学馬鹿の考えを矯正してやる」
「いったい何を――」
「いいか。ひとついっておく。お前の彼女は浮気なんてしていない。お前のために服を選びに行ったんだ。俺を連れていったのはアドバイスをもらうため。お前の雰囲気がなんだか変だって感づいてたんだよ。だから精一杯のお洒落をして、デートを盛り上げようとしてたんだ」
「じゃあ、あの男は誰だったんだよ、あの、彼女が、楽しそうに話していた男は!」
「これは俺の推測でしかねえが」彼はわずかな隙間から僕を凝視した。「お前が見たのは店員だったんじゃねえのか。ああいう流行の店は店員といえども制服を着ているわけじゃない。それを見知らぬ浮気相手と勘違いしたんじゃないのか?」
「そんな……まさか……」
「お前が電話をかけてくる直前に見ていたのなら、恐らく俺の考えは正しい。普段から渋谷に出かけてればこんな悲しい事態にはならなかったんだ」
僕はチェーンロックをはずした。友人は握りこぶしを固めていた。
「さあ殴ってくれ、君の気がすむまで、僕の気がすむまで、彼女の気がすむまで」
僕はきっかり三発、頬をぶたれた。涙がにじんだ。
友人を部屋に招き入れる。僕が彼女に謝りの電話をかけるまでには、そう長い時間はかからなかった。ただ、番号を打つ手がすこしだけ震えていた。
僕がこんなにもプロポーズを急ぐのにはある理由があった。それは多分、頻繁に破局をくりかえしている友人を見て怖くなったのも引き金になったのだろうと思う。彼のそばにいると自分が長いこと彼女ひとりを好きになっていることが奇跡のように感じられるのだ。
だが、それはあくまで僕を後押ししたに過ぎず、ほんとうの理由は僕の進路が決まったことにあった。大学院を出てからの仕事を得ることができたのである。
彼女のほうはというと、すでにある企業に職を持っていて、大学を卒業してからずっとそこで働いている。だから僕らのデートはいつも休日で、大学時代のように頻繁に会えなくなっていたのも、一緒になろうという決意を固める理由になった。
けれども一緒になるにはやはり僕のほうも職を得ないわけにはいかず、数学者なんていう不安定な夢を抱いていては結婚を認めてもらえるはずもなかった。
そんな折に地方の大学で教授の助手として雇ってもらえることになったのだ。僕はいま住んでいる場所から職場の近くへ引っ越さなくてはならず、遠距離交際になれば将来がジリ貧になっているのは明らかだった。
だから僕は彼女と一緒に、新しい生活をはじめるつもりでいた。彼女の返事がもう一度イエスであることを願って。
「ごめん」
電話越しではない彼女に再び会ったとき、最初に僕はそういった。彼女の眼はたちまち涙でいっぱいになった。彼女は何度も僕の胸をたたいた。僕はその背中をぎゅっと抱きしめる。
「ごめん」
「――この、大馬鹿」
彼女の声を聞くのが心地よかった。彼女は泣いていたけれど、僕は無性にうれしくなって、ほほ笑んでいた。
「店員をほかの男と見間違えるなんて馬鹿。大馬鹿。この馬鹿」
ばか、バカ、と彼女は繰り返す。その言葉が安堵にあふれていることに僕は気づいた。
「こんな馬鹿でも、僕は君のことが好きだ」
考えるまでもなかった。自然と言葉がこぼれ出た。
「愛してる。僕は君が世界で一番大切だ。だから僕と一緒になってほしい。こんなときにいうのもおかしいかもしれないけど、前々回のデートのときからずっとそう言いたかったんだ。だから――」
僕は胸に顔をうずめている彼女を見る。
「僕と、結婚してほしい」
「私も――あなたのことが世界で一番好きだから! だから、もう離れたくない!」
彼女はもっと泣いた。僕は笑った。笑いながら何度も謝った。彼女を傷つけてしまったこと、自分の思いださえも否定してしまったことを。
でも、こうやって違う人間が同じ感情を抱いていることがとても幸福だった。
彼女に渡した相似形の指輪のサイズはぴったりで、僕とおそろいのデザインがきらりと光って見えた。
タイトルから思いついたストーリー。
数学者という設定を生かすためにどうすればいいのか、けっこう悩みます。
改めて博士の愛した数式の偉大さを知りました。