駆け抜けるサバンナ
サバンナに黒い波が押し寄せていた。
黒い波は思わず耳を塞ぎたくなるような地響きを轟かせ、先が見えないほど濃い砂ぼこりを巻き上げながらサバンナの乾いた大地を蹂躙していく。
サバンナは今、乾季。
雨季には広大に広がるはずの草原も色を失い、白い草がまばらに生えているだけだった。生えている草も、ある物は風に抗う術もなくうな垂れ、またある物は完全に朽ちて赤茶けた大地の上に倒れている。バオバブの木も落葉し、幹と枝だけが青い空へと延びて、風に揺られながら乾いた音を響かせていた。
それはある意味、美しい風景だったかもしれない。真っ青な空へと茶色い木が伸び、その足下には白い草原が広がる。そして、赤い土がコントラストとなり草原を引き立たせているのだ。絵になると言うのはこういう風景を言うのだろう。
ただ、そこに生きる生き物たちにとっては、風景が美しいかどうかは関係のないことかもしれない。
雨が降らなくなってから久しく、その間も、空で輝く太陽は大地と生き物から潤いを奪い続けていた。シマウマもトムソンガゼルもその渇きに疲弊しきり、彼らを狩るライオンも喉の渇きに気を取られ思うように走ることができないでいる。今もまた、爪や牙を立てる間もなくインパラに逃げられたばかりだった。
その乾ききったサバンナの大地に黒い波が流れ込んできた。
狩りに失敗したライオンも慌ててバオバブの木陰に逃げ込む。百獣の王ライオンでさえその黒い波に恐怖し逃げ出したのだ。
ライオンが恐れる物。
それはヒョウか?
もしくは巨大なゾウ?
それとも同じ百獣の王ライオン?
いや、そのどれでもない。
黒い波の正体は、黒い牛、ヌーだった。
もちろん一頭ではない。一頭だけだったらライオンの恰好の獲物だったろう。だからと言って十頭という事もない。何百、何千頭ものヌーが一斉に走っているのだ。それはまさに黒い波、黒い雪崩のようにサバンナの大地に流れ込み、激しい地響きを轟かせながらバオバブの木があろうと、ライオンが居ようとも関係なく突き進んでいく。
その激しい勢いに押されて道を譲ったのはライオンだけではない。シマウマもトムソンガゼルも地響きを感じるとすぐに逃げだし、ゾウでさえも身を寄せ合ってただその災難が過ぎ去るのを待ち続けた。
一方、恐怖の対象となっているヌーは周りの反応など気にもしていなかった。ただ、鼻をひくつかせながら前に向かって走り続けている。
彼らはどこに向かっているのだろうか。
そもそも、彼らは最初から何千頭も一緒に居たわけではない。十頭前後の群で生活をしていた。バオバブの木が茂り青い草原がサバンナを覆う雨期に恋をし、新しい命に恵まれ、その成長を暖かく見守る。まさに生命の営みを謳歌していたのだ。しかし、サバンナの自然は優しくはなかった。そう、乾期が訪れたのだ。バオバブの葉は枯れ落ち草原は面影さえ残さず消え、湖や川は干からび、生まれたばかりの命も衰弱して命を落としていった。それがサバンナだとは分かっていたが、それでもここで死にたいとは思わなかった。
だから走り出したのだ。
新しい大地を、水と緑の草を求めて走り出したのだ。
一頭が走り出すと、他のヌーも走り出した。また一頭、また一頭と。それは伝染病の様にヌーからヌーへと、群から群へと広がっていった。走り続ける群と群が出会えば、たちまち一つにまとまり、まだ走り始めていない群も、走る仲間たちを見つけるとすぐに合流した。最初は数十頭の群が走っていただけだったのが、時間と日が経つにつれてその数を増していき、気が付けばそれは黒い雪崩の様にサバンナのすべての飲み込む流れになっていた。
ヌーたちは全員同じ方向へと走り続けていた。
他の群と出会ったとしても、他の動物たちと鉢合わせになったとしても、決して進路変更をすることは無かった。別々の方向へ走り出す者も居なければ、走る方向へ疑いを持つ者もいない。例え、群の先頭を走るヌーが疲れ、後ろの方へと下がり、新たなヌーが先頭を走る事になっても、進む方向が変わることはなかった。
知っているのだ、ヌーたちは全員。自分たちが目指す場所がどこにあるのか。いや、正確には「知ることができる」と言った方がいいかも知れない。
彼らは鼻をひくつかせながら走る。
そう、その鼻で雨の匂いを感じるのだ。ヌーはどれだけ離れていても、サバンナのどこで雨が降っているのか、その匂いを嗅ぎつける事ができるのだ。雨の匂いのする方、そこへ向かえば水と新しい草木があるに違いなかった。
黒い雪崩は雨を求めて走り続ける。
ヌーの足はその巨体と比べるととても細かった。それでもその脚力は目覚ましく、乾いた大地はヌーの足に踏みつけられていとも簡単に砕け散り、砂ぼこりになって舞い上がった。しかも何千頭ものヌーが一度に走っているのだ、その舞い上がる砂ぼこりは尋常ならざる量である。もちろん、二百キロの巨体であるヌーが何千頭も走っているのだから、その音は激しく轟き、地響きは耳でも、足を通してでも大地からでも感じ取る事ができた。しかし、それは他の生き物にとっては歓迎するべき事かも知れない。もし、この黒いヌーの暴走が前触れもなくやってきたら、音もなくやってきたら、確実に多くの生き物が彼らに踏み砕かれていた事だろう。砂ぼこりと地響きが、ヌーたちの到来を事前に知らせてくれているのだ。そのため、ヌーたちの進行を止める物は少なかった。どんな生き物でも彼らに道を譲るからだ。ただ、数頭が長い移動に疲れはて、脱落していく。その脱落者も、ライオンやハイエナの餌となり、この乾いた大地に恵みをもたらすのだ。そういう脱落者を除けば、走ることをやめるヌーはいなかった。ましてや、何千頭にも膨れ上がった群全体が止まる事は一切なかった。
いや、ないように思われた。
止まる事のないはずのヌーが立ち止まったのだ。
立ち止まるヌーが足踏みをすると、土は崩れて転がり落ちていった。先ほどまで走っていた大地と比べれば、いくらか湿り気があるとは言え、まだまだ乾いた土だった。
もちろん、ここは彼らの目的地ではない。ここには瑞々しい草木は生えていない。
それでも進みたくても進めない。彼らの行く手を大きな河が阻んでいるのだ。
乾いた大地をえぐるように流れるその河は、雨期であればもっと多くの水が流れていたのだろう。だが今はその水量も減り、河辺と水面との間には大きな差ができ、ヌーたちは河辺の上から水面を見下ろしていた。しかも、水に浸食された河辺は崖の様に険しく、一見すると絶壁さながらである。河に入るのにも、うまく降りる必要があった。
しかし、この河を越えなければ目的の場所に向かうことはできない。
ヌーは嘶きながら一歩を踏み出した。
だが、踏み出した足は地面をとらえることなく、そのまままっすぐ下に落ちていく。急いで足を戻そうとしても、すでに進む決意をした体を引き戻す事はでできない。それどころか勢いがついてしまい、彼は体を回転させながら水面へと落ちていってしまった。
水しぶきがあがる。思った以上に多くの水が残っていたようで、ヌーの体は完全に水の中に入りきってしまった。もちろん、ほ乳類であるヌーが水の中で呼吸ができるわけはない。彼はあわてて顔を水面から出そうと必死に足掻いたが、ぬかるんだ河底に足を取られて思うように体勢を立て直すことができなかった。ヌーの細い足では柔らかい河底の土の中へと簡単に入り込んでしまうのだ。もちろん、その間にも多くの水が彼の口と鼻から入り込んでくる。ヌーは更に焦った。思い切り足をバタ付かせた。足に絡み付く土を振り払おうと、可能な限り足をバタ付かせた。手応えがあった。前足が堅い感触を感じたのだ。岩だ。無我夢中で全体中を前足に込め、思い切りその岩を蹴った。
見事にヌーの体は水面へと持ち上がった。
彼は空気を目一杯吸い込もうと口をあけ、そして再び水中へと押し戻された。
他のヌーたちが降りてきて、彼を踏み台にしたのだ。その一歩は彼の頭を捉え、完全に頭蓋骨を踏み砕いていた。もちろん、頭だけではない。水中に戻された体は、皮肉にも他のヌーたちの足場となり、彼らが河底の土にとらわれるのを防いでいた。
それは河の至る所で起きた光景だった。多くの先駆者が河底に捕らわれ、他のヌーたちの足場になっていく。それは河に進んでも何度も起こる。一頭が河を進んでいる途中でぬかるみにはまると、すぐ後を進んでいたヌーに踏み台にされ沈んでいった。だがそのお陰で、多くのヌーたちが川底に足を奪われること無く進む事が出来た。群れの多くが河の中ほどまで進んでいる。
しかし、河を渡るヌーの脅威は河底のぬかるみだけではなかった。
河には住民が居たのだ。
まだ背の低い若いヌーが河を渡っている途中、突然、彼のに激痛が走った。思わず、仲間に助けを求める嘶きをあげるが、もちろん誰も見向きもしない。しかし、嘶きをあげた仲間が何かに必死に抵抗している様子を見て、何かよからぬ事が起こっている事を感じ取った。若いヌーは自分の足に絡みつく、激痛を生む何かを振り払おうと必死にもがいた。彼がもがくたびに、激しい水しぶきがあがる。その水しぶきに混ざって、黒い何かが見えた気がした。だが、若いヌーはそれがなんなのか確かめる間もなく、一気に水の中に引き込まれてしまった。仲間たちは恐怖し、河を渡るのを躊躇する。しかし、逆にそれが命取りになってしまった。だんだんと静かになっていく水面を恐ろしげに見ていた一頭の目の前に、牙だらけの口が水面から襲ってきたのだ。
その口の持ち主は、ワニだった。
ワニ達もこの乾期で飢えていた。ただでさえサバンナでは水辺は貴重なのに、乾期の所為でワニたちが住める水辺が次々の減ってしまったのだ。数少ない水辺にワニたちが集まり、自然と餌の取り合いになってしまう。そんな中、このヌーの大群は天の恵みの様に思えた。
逆に、ワニを見た他のヌーたちは、若い仲間の運命を悟った。そして、このままでは自分たちも同じ運命をたどってしまうことも。
仲間が次々に水の中に引き込まれるのを横目に、ヌーたちは一気に河を渡った。
無我夢中で足を動かす。
ちょっとでも足を止めようものならすぐにワニに足を噛まれて、水の中に引き込まれる気がした。呼吸も荒くなり、また水面も激しく上下し、背の低いヌーは何度も口や鼻に水が入ってくるのを耐えなくてはならなかった。
その騒ぎは後方の、まだ河に入っていないヌーたちにもよく見えていた。そして、彼らには仲間たちが渡っている場所に、次々とワニが集まってきているのもよく見えていた。
だから、そことは離れた場所を渡る事にした。
太陽が反射してよく見えないが、ワニの恐ろしくゴツゴツした背中が見えない場所を慎重に選び、ワニたちがこちらに気づかないようにゆっくりと水の中に入った。選んだ場所はとても深いようだった。どんなに足を動かしても河底に足が付く様子もない。しかし、ヌーたちは慌てなかった。変に暴れてワニに気づかれる方が怖かった。懸命に足を動かし、必死で前へ進もうとする。しかし、その細い足では思うように水を掻けない。それでも何とか足を動かすことでヌーたちは前に進み続けた。
ようやく目の前に向こう岸が見えた時、足の裏に柔らかい物が触れた。それは思ったより大きく、ヌーはそこに立つことができた。慣れない泳ぎに疲れたヌーは、それが一体なんなのか考える事もなく、一斉にそれの上に乗ろうとした。もちろん、何頭も乗れるほど大きくなかったのでお互いに押し合い、いざこざが起こった。何度もその上で足踏みをした。その為、それが動きだしたときは、自分たちが蹴り壊してしまったのではないかと思ったのだ。しかしそうではなく、自分たちが足場にしているそれが、ブルルッと身震いをして動き出したのだ。乗っていたヌーたちは一気に水の中に落ちてしまった。近くにいたヌーたちも、突然浮いてきたそれを見て驚いた。
それは、カバだった。
カバは縄張りを荒らされた挙句、自分の頭や背中を踏みつけられ、怒り狂った。ワニにも負けない大きな口を広げ、ヌーの頭を丸呑みにする。カバの牙はワニのそれよりも大きく、やすやすとヌーの喉を貫くのは容易だった。カバはそれだけでは物足らず、絶命したヌーを右へ左へ振り回した。それにぶつかり、他のヌーたちも水の中に落ちていく。怒ったカバは、ワニでさえ恐ろしいと思っていた。ヌーは何故こちらの方にワニがいなかったのか、その理由を身をもって思い知った。
それでも、ワニたちは無限にいる訳でもなく、河全てがカバの住処だという訳でもない。ワニ達はお腹が一杯になれば、それ以上ヌーたちを襲うことは無かったし、カバは縄張りに近づきさえしなければヌーを襲うことはなかった。
騒がしく、いたる所で上がっていた水しぶきも少なくなり、河の中で動くのはヌーだけになっていた。
ただ、ワニやカバの脅威を克服し、向こう岸に着いたヌーたちにまだ壁が残されていた。
そう、文字通りの壁が。
河に入るともそうだったが、河辺と水面には大きな差があり、先ほど降りた分と同じだけ登らないといけないのだ。だが、先ほどとは違いヌーたちは躊躇しなかった。一刻も早く、この忌々しい河から離れたかったのだ。
ヌーたちは我先にと壁に群がった。水を吸って柔らかくなった土は容易に上がらせてくれない。それでもヌーは諦めず上へと向かった。そして、前のヌーが登り終える前から、後に控えていたヌーも次々と押し寄せてくる。先に上り始めたヌーはお尻を押されひっくり返ってしまう。そして、再び河に投げ出されるか、仲間に踏み殺されてしまうのだ。しかし、逆に押してくるのを利用するヌーもあらわれた。自分を押してくるヌーの頭を足場にして、一気に飛び上がったのだ。最初は、丸い頭を上手く踏み台にする事ができず、思うように体が上がらなかったが、角の付け根にある堅い部分に足置き、相手が自分を振り払おうとする勢いを利用して飛び上がった。すると、前足が河辺の淵に引っ掛かった。一瞬、ヌーは壁にぶら下がる格好になったが、前足に思いっきり力をいれ、上へと飛んだ。
彼の目の前に荒野が広がった。
河から抜け出たのだ。
ヌーは安堵のため息を吐き、身体を震わせて水を振り落とした。なれない水に入ったため、体力を奪い取られていた。乾燥していても、堅い地面の方が安心だった。
河を抜け出る事ができたのは、もちろん一頭だけではない。河のいたるところから、ヌーが飛び出してきた。そして、同様に堅い地面の上で、身体についた水を払い落とし疲れた身体を休める。
だんだんと河で休むヌーが増えてくると、早いうちに河から抜け出たヌーはゆっくりではあるが歩き始めた。他の仲間たちも疲れてはいたがそれに習う事にした。日が、だいぶ傾いてきているのだ。後から河から上がったヌーたちは疲れていたが、仲間がすでに走り始めているのを見て同じように走り始めた。
ふと、最後に河から抜け出た一頭のヌーが後ろを振り返った。
立ち止まり、尻尾をブルッと振るわせる。そして、ゆっくりと河を覗き込んで見た。
見下ろした河は黒かった。
死んだヌーで河ができているのではないかと思える程、黒かった。
ワニに食い殺された者や、カバの牙で喉を引き裂かれた者もいたが、その多くは仲間のヌーに踏み殺された者だった。その死体に禿鷹がたかっている。
ヌーは禿鷹が仲間の死肉を食い漁るのをただ黙って見守っていた。
やがて、ヌーはおもむろに振り返り河を背にして走り始めた。
もう目的地はすぐそこだ。
この鼻を湿らせているのは先ほどの河の水だけではない。遠い空から湿気を含んだ空気が流れ込んでくる。
そして、仲間が黒い波になって進む先、その水平線の彼方にうっすらと陽炎が見える。
目的地はすぐそこだ。
END