虹色Café奇譚
雨の朝になるたび、窓に手形がつくのだと、女は言った。
それも一つや二つではない。寝室の窓いっぱいに、小さな手を何度も何度も押しつけた跡が残るのだという。外側から、べたり、べたりと。
ルファは女の前に紅茶を置き、向かいの椅子に腰を下ろした。
女は三十を少し過ぎたくらいに見えた。濡れた髪をきちんとまとめているのに、目の下には薄い影がある。眠れていないのだろう。ライトは視線を宿題へ戻し、耳だけを傾けた。
「最初は、いたずらだと思ったんです」
女は膝の上で両手を握った。
「でも、雨の夜だけなんです。晴れた朝には何もなくて、雨が降った翌朝には、必ずついているんです。小さな手が、いくつも」
「子どもの手ですか」
ルファが尋ねた。
「ええ。たぶん。でも、近所にそんなことをする子はいませんし、窓の外は庭です。塀も高くて……」
「毎回、同じ窓?」
「最初は寝室だけでした。でも、昨日は廊下の窓にもついていました」
ライトは鉛筆を置き、頬杖をついた。
「外に見に行ったの?」
「ええ。何度も」
「誰かいた?」
女は首を振った。
「雨だけでした」
そこで口を閉じ、カップに目を落とした。紅茶にはまだ手をつけていない。
「……今朝は、内側にもあったんです」
ライトが顔を上げた。
「内側?」
「窓の、部屋の中のほうに」
女は自分の手を見た。
「ひとつだけですが。少し大きな手形が」
窓の外では、細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が、石畳を黒く濡らしている。
「拭こうと思ったんです。でも、どうしても触れなくて」
女は膝の上で指を組み直した。
「今夜、見に来ていただけませんか」
ルファは少し考え、それから頷いた。
「ええ。伺いましょう」
立ち上がって棚の奥へ向かい、戻ってきたとき、その手には小さな植木鉢があった。
鉢の中には、硝子のサボテンが植わっていた。緑の茎は三つに枝分かれし、先端には赤や紫の花の蕾がついている。細い金属の枠が硝子を縁取り、茎の表面には本物のサボテンに似た筋が入っていた。
ルファが窓辺に置くと、青い硝子の部分だけが、薄暗い店内でひときわ深い色に見えた。
「これを持っていきましょう」
ライトが覗き込む。
「サボテン?」
「ええ。雨の夜には、よく咲くのよ」
「花が?」
「そう。咲いたら、普段は見えないものを見せてくれるかも知れないわ」
ルファは鉢を持ち上げた。
その拍子に、閉じていた紫色の花弁が、わずかに動いた気がした。
*
女の家は、坂を下った先にある新しい住宅地の一角に建っていた。
まだ木の匂いが残る、二階建ての家だった。白い外壁は雨に濡れて鈍く光り、黒い窓枠には水滴が幾筋も流れている。庭には植えられたばかりの若い木が一本立ち、その根元に雨水が溜まっていた。
寝室へ案内されると、ライトは窓へ近づいた。
手形が残っていた。
朝から拭かずにいたのだろう。小さな掌の跡が、ガラスのあちこちに重なっている。低いところから高いところまで、何度も押しつけたような跡だった。
ライトは顔を寄せた。
「……指、変だな」
女が振り向く。
「変?」
「長い」
子どもの手にしては、指がひどく細長い。濡れ跡が重なって数えにくかったが、輪郭のはっきりしたものを見つけて、ライトは目を細めた。
「四本しかない」
女が窓を見た。
「……そんな」
ライトは隣の手形も確かめた。それも四本だった。
指の先が、どれも細く尖っている。
「昨日までは、気づかなかったんです」
女が小さく言った。
ルファは窓をひととおり眺め、硝子のサボテンを窓際の台に置いた。外では、雨が外の植木に跳ねていた。
「今夜はここで待ちましょう」
「ここで……?」
「ええ。いつもと同じように、灯りを消して休んでいてください」
女は窓から一歩離れた。
「何かが起こったら、どうしましょう……」
「何が起こるか、確かめに来たんですもの」
ルファは穏やかに答えた。
女はしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく頷いた。
夜が更け、三人は寝室の灯りを落とした。
窓辺のサボテンは、外の街灯を受けて淡く縁取られている。女は寝台の端に腰掛け、ライトは壁際の椅子に座った。ルファはその隣で眼鏡を外し、静かに目を閉じていた。
雨脚が強くなった。
屋根を打つ音に、雨樋を流れる水の音が重なる。時折、庭木の枝が窓を擦った。
ライトはしばらく窓を見張っていたが、何も起こらなかった。雨粒がガラスを伝い、街灯の光を細く引き延ばしている。
やがて瞼が重くなった。
背もたれに頭を預けると、木の硬さが首筋に当たった。姿勢を直そうと思いながら、そのまま目を閉じる。
どれくらい経っただろう。
ぺた。
ライトは目を開けた。
雨音の合間に、何かが聞こえた気がした。
ぺた。ぺた。
濡れた布をガラスに押し当てたような音だった。
窓を見る。
闇の中で、小さな手が動いていた。
べたりと張りつき、指を伸ばし、少し横へずれる。それを何度も繰り返している。
細長い、四本の指。
朝の手形と同じだった。
ライトは椅子の肘掛けを握った。女も目を覚ましたらしく、寝台の上で身体を起こしている。
ぺた。ぺた。
手は窓の端から少しずつ移動していた。何かを探すように、ガラスの表面を撫でながら進んでくる。
やがて、サボテンの置かれた窓辺で止まった。
そのときだった。
硝子の花が開いた。
最初に赤い蕾がほどけ、続いて紫色の花弁がゆっくりと広がる。緑の茎の先からも青い花が開き、その中心に小さな光が灯った。
青白い光が窓ガラスに広がっていく。
雨の向こうに、何かがいた。
初めは、子どもの頭ほどの黒い影に見えた。やがて肩が現れ、細い腕と、ガラスに押し当てられた手が浮かび上がる。
深い緑色の肌。
肩まで垂れた黒い髪の下に、黄色いくちばしがあった。頭のてっぺんには皿のようなものがあり、そこに溜まった雨水が、ときどき頬を伝って落ちている。
身体は子どもほどの大きさだった。
その生き物は、窓の向こうに立っていた。細長い指をガラスへ押しつけ、部屋の中を覗いている。目の縁が下がり、くちばしの端もわずかに垂れていた。
何かを見つけようとしているのか、顔を右へ、左へと動かす。そのたびに、濡れた髪が頬に張りついた。
ライトは喉の奥で息を止めた。
女は寝台の端を握り、身じろぎもしない。
ルファが静かに立ち上がった。
「……東洋の河童ね」
窓の向こうの生き物は、ルファの声にも反応しなかった。
ただ、部屋の奥を見つめている。ルファはその視線を追った。それから、女へ向き直った。
「家中の窓を開けていただけますか」
「……え?」
「できれば、全部」
女は窓の向こうを見た。
「そんなことをしたら、あれが家の中に……」
言い終わる前だった。
ごと。
部屋の外で、何かが鳴った。
三人が振り向く。
ごと、ごと。
廊下の奥から、重いものを動かすような音がする。続いて、何かが床にぶつかった。
女が寝台から立ち上がった。
「……何の音?」
ライトも立ち上がり、開いた寝室の扉へ目を向けた。
廊下には誰もいない。
今度は突き当たりの暗がりで、また音がした。
ごとん。
音が近い。
ライトが一歩踏み出しかけた、そのとき。
ぺたり。
柱の鏡に、濡れた手形がついた。
大きな掌だった。
指は四本。どれも長く、先が細い。水が鏡を伝い、木の枠へ流れ落ちる。
女が短い悲鳴を上げた。
「家の中に……!」
ばた。
何かが床を蹴った。
ばたばたばた。
足音が廊下を走ってくる。
裸足のようだった。濡れた足が床板を叩くたび、ぴちゃりと水音が混じる。
ライトは身構えた。見えない何かが、すぐそこまで来ている。
ばたばたばたばた。
足音は寝室へ飛び込んできた。女が壁際へ身を寄せる。ライトも反射的に腕を上げた。
そのすぐ脇を、冷たいものが通り過ぎ、泥と水草の匂いがあとを着けた。
三人は動けずにいたが、足音は止まらずまっすぐ窓辺へ向かった。
そこで、ぴたりと静まる。
サボテンの花が強く光った。
窓の前に、もうひとつの影が浮かび上がった。
大人の河童だった。
子どもよりひと回り大きく、肩幅が広い。背中を少し丸め、濡れた髪を顔の両側へ垂らしている。頭の皿には水が溜まり、肌には泥のようなものがこびりついていた。
その河童は窓に近づいた。外にいる小さな河童が顔を上げる。
大人は身を屈め、四本指の手をゆっくりと持ち上げた。
ガラスに掌を当てる。
窓の外でも、小さな手が動いた。
同じ場所へ、そっと重なる。
ガラス一枚を隔てて、二つの手が合わさった。
大人の河童が、くちばしをわずかに開いた。
声は聞こえなかった。
けれど、外の小さな河童は何度も頷いていた。
ルファが窓へ一歩近づく。
「……窓を開けて」
女は首を振った。
「でも、あれが入ってきたら……」
「大丈夫」
ルファは窓から目を離さなかった。
「入ってきたいんじゃないの」
ライトが彼女を見る。
「出たいのよ」
女はガラス越しに重なった二つの手を見つめた。
大人の河童は、窓の留め金へ手を伸ばしていた。何度も触れようとするが、指先はその手前で止まり、金具まで届かない。
「この家の中に、通り道をつくってあげましょう」
ルファが言った。
「家中の窓を、早く」
ライトは廊下へ駆け出した。客間の窓を開け、続いて台所へ向かう。留め金が固く、両手で押し上げると、冷たい雨が袖にかかった。
ルファも反対側の部屋へ向かった。
廊下の鏡には、まだ大きな手形が残っている。床板には濡れた足跡が続き、その先で小さな水たまりができていた。
窓を開けるたび、家の中へ雨の匂いが流れ込んだ。閉め切られていた空気が動き始める。客間から廊下へ、廊下から階段へ。風が抜け、壁に掛かった絵がかたかたと揺れた。
最後にライトが寝室へ戻ると、女はまだ窓の前に立っていた。
大人の河童が、ガラスに手を当てている。外の小さな河童も、同じ姿勢だった。
女は二つの手を見比べ、それから留め金に指を掛けた。
金具が外れる。
窓を押し開けると、雨が吹き込んできた。サボテンの花がいっせいに明るくなり、辺りに色を落とした。
大人の河童は、しばらく動かなかった。開いた窓と、その向こうにいる小さな河童を交互に見ている。
やがて、片足を前へ出した。
濡れた足が窓枠に触れる。
もう片方の足が続き、背を屈めて外へ出ると、庭の土に二つの足跡が残った。
小さな河童が駆け寄った。大人の腹に両腕を回し、顔を押しつける。大人は少しよろめいたが、すぐにその背へ手を添えた。
二つの影は、しばらく雨の中に立っていた。やがて大人が小さな手を取り、庭の端へ歩き始めた。若い木のそばを通り過ぎ、塀の手前で一度だけ立ち止まる。
振り返ったように見えたが、雨に滲んだ輪郭からは、どちらがこちらを見たのかわからなかった。
二つの影は並んで歩き、塀の向こうへ消えた。
窓辺には、濡れた足跡が残っていた。女は開いた窓に手を掛けたまま、しばらく庭を見つめていた。その横で、サボテンの花が一輪ずつ閉じていく。
最後に青い花が閉じると、窓の外には雨だけが残った。
*
それから、その家の窓に手形がつくことはなくなった。
数日後、女は菓子折りを持って虹色Caféを訪れた。前に来たときとは違い、髪は乾いていた。席へ着くと、自分からカップに手を伸ばし、紅茶を一口飲んだ。
「近所のお年寄りに聞いたんです」
女はカップを置いた。
「このあたり、昔は大きな沼だったそうです」
ライトが顔を上げた。
「沼?」
「ええ。子どもの頃、河童が出るから近づくなと、よく叱られたそうで」
女は少し笑った。
「それで、うちの土地なんですが……沼を埋め立ててから、売りに出された場所だったんですって」
ライトはルファを見た。彼女は何も言わず、紅茶を注ぎ足している。
「昔は、あの庭の下にも水が流れていたそうです。どこへ続いていたのかは、もう誰も知らないみたいですけど」
女はカップを両手で包んだ。
「家を建てたときに、離れ離れになってしまったんでしょうか」
ルファは顔を上げた。
「そうかもしれませんね」
「あの子、ずっと迎えに来ていたのかしら」
窓の外を馬車が通り過ぎた。
女はしばらくカップを見つめていたが、やがて小さく息をついた。
「……窓を開けてあげられて、よかったです」
ルファは静かに頷いた。
女が帰ったあと、ライトは窓辺のサボテンを眺めていた。花はすべて閉じ、緑色の硝子が午後の光を透かしている。
「……生き別れになってたのかな」
ルファはカップを拭きながら頷いた。
「家が建って、水の通り道がなくなってしまったのでしょうね」
「だから、雨の夜だけ」
「ええ」
ライトは窓の外へ目を向けた。
「子どものほうは、ずっと外で待ってたんだ」
ルファは拭き終えたカップを棚へ戻した。
「……そうね」
しばらくして、白猫が窓辺へ飛び乗った。
サボテンの鉢の隣に腰を下ろし、前脚を揃える。ライトが頭を撫でようとすると、猫はするりと身をかわした。
「なんだよ」
猫は知らん顔で、窓の外を眺めている。
ルファが小さく笑った。
ライトはもう一度、サボテンを見た。
青い硝子の奥に、一筋だけ、水のような光が残っていた。
窓の向こうでは雨が上がり、石畳に大小二つの水たまりができている。
屋根から落ちた最後の雫が小さなほうへ触れ、その水が細い筋となって、大きな水たまりへ流れていった。
了




