ステーキハウス
四月。
風の強い夕方だった。
高校を卒業したばかりの
久我ハルトは、 古びた商店街の前で立ち尽くしていた。
手には一枚の紙。
『テナント募集』
その文字を見ながら、 ハルトは小さく息を吐く。
財布の中は一万七千円。
貯金はほぼゼロ。
大学進学にも失敗し、 就職も決まらなかった。
父親はいない。 母親はパートで生活ギリギリ。
「……やるしかないか」
目の前にあるのは、 祖父が昔使っていた空き店舗だった。
元・喫茶店。
今はシャッターが錆び、 窓ガラスも汚れ、 店内には古い椅子と壊れた冷蔵庫だけが残っている。
だが、 ハルトには一つだけ夢があった。
“自分の店を持つこと”。
それだけは昔から変わらなかった。
祖父は小さな洋食屋をやっていた。
子供の頃、 鉄板で焼くステーキの音が好きだった。
ジュウウウッ……
肉の匂い。 湯気。 笑う客。
あの空間だけは、 なぜか温かかった。
「……ステーキ屋、やるか」
口に出した瞬間、 自分でも笑ってしまった。
金もない。 経験もない。 料理学校にも通っていない。
無謀にもほどがある。
だが、 他にやりたいこともなかった。
翌日から、 ハルトはアルバイトを始めた。
朝はコンビニ。 夜はファミレスのキッチン。
休みの日は空き店舗の掃除。
床を磨く。 油汚れを削る。 壊れた椅子を修理する。
少しずつ、 店らしくなっていく。
だが現実は厳しかった。
業務用冷蔵庫だけで二十万円。
鉄板は中古でも高い。
肉の仕入れ先もわからない。
開業資金なんて到底足りない。
「やっぱ無理かな……」
深夜。
一人で店内に座り込み、 ハルトは天井を見上げた。
電気もまだ通っていない。
静かな店だった。
すると。
コンコン。
入り口をノックする音。
振り向くと、 近所の精肉店の店主が立っていた。
六十代くらいの大柄な男。
名前は大谷。
昔、 祖父と仲が良かったらしい。
「坊主、お前ここ使うのか?」
「……はい。ステーキ屋やろうかなって」
大谷はしばらく黙って、 店の中を見回した。
「金は?」
「ないです」
「経験は?」
「ほぼゼロです」
「馬鹿だな」
その言葉に、 ハルトは苦笑した。
だが。
大谷は小さく笑って言った。
「嫌いじゃねえよ、そういうの」
翌日。
店の前に、 古い業務用鉄板が置かれていた。
『使え』 とだけ書かれたメモ付きで。
ハルトはしばらく動けなかった。
開店初日。
店名は、
『STEAK HOUSE HARU』
手書きの看板。
メニューは三種類だけ。
・ハンバーグ ・カットステーキ ・ライス
それだけ。
客なんて来ないと思っていた。
実際、 昼を過ぎても客はゼロだった。
「……終わった」
そう思った時。
店のドアが開く。
入ってきたのは、 作業服姿の男二人組だった。
「ここ新しい店?」
「ステーキ屋か。入ってみる?」
ハルトは緊張で手が震えた。
肉を焼く。
音が鳴る。
ジュウウウウ……
油が跳ねる。
怖かった。
失敗したら終わる。
でも。
ステーキを運び、 客が一口食べた瞬間。
「……うまっ」
その一言で、 ハルトの目頭が熱くなった。
人生はまだ何も成功していない。
借金もある。 未来も不安。
それでも。
自分の焼いた肉で、 誰かが笑っている。
その事実だけで、 十分だった。




