約束の風
正午を過ぎていた。
あのあと、私はテントに戻ってひとりで過ごしていた。
まだ、頬には涙の跡が残っている。
……大丈夫。もう、切り替えた。
少し硬くなったパンをかじりながら、ぼんやりと天井の布を見上げる。
外では風が吹き、焦げた布の匂いがまだ微かに残っていた。
頭の奥では、“これから”のことが渦を巻いている。
そんなとき――
聞き慣れた声が、テントの外から響いた。
「セラナ様、失礼いたします。」
朝と同じ声。
避難民の中からアルディアへの同行者を探しに行っていた、ニナが戻ってきたのだ。
テントの布がめくれ、整った足取りでニナが入ってくる。
その顔には疲労の影があったが、瞳には強い光が宿っていた。
「セラナ様。三名、同行してくださる方を見つけてまいりました。」
私は思わず立ち上がった。
「さすがニナ! 仕事が早い!」
口調が自然と明るくなる。
ニナはわずかに微笑み、外を振り返った。
「テントの外まで来ていただいております。」
「おっけー! 挨拶する!」
私はパンを置き、ぐっと胸を張って立ち上がった。
テントの布をめくり、ニナのあとに続いて外へ出る。
まぶしい日差しに、思わず目を細めた。
冷たい風が頬をかすめ、焦げた匂いがまだどこかに漂っている。
ニナが一歩前に出て、三人の男たちを紹介した。
「こちらの方々が、アルディアまでの護衛をお引き受けくださった方々です。」
まず、一人目。
黒い短髪に、やや緊張した面持ちの青年。
年は二十代前半――もと王宮の兵だったらしい。
剣の扱いには自信があるようだが、どうにも覇気がない。
一言で言えば、“真面目すぎて冴えない”。
「リオン・カスベルです。もとは……王都近衛の所属でした。」
彼はぎこちなく頭を下げた。
礼儀正しいのはいいけれど、肩が固すぎて少し息苦しそうだ。
次に、一歩前へ出た獣人の青年。
日焼けした肌と、耳の先の毛並みが印象的。
南方の村の出身で、二十代半ばくらいだろうか。
腕の筋肉がしなやかで、動くたびに尻尾がふわりと揺れる。
目つきは鋭いけれど、どこか飄々としていて――嫌いじゃないタイプ。
「バルナ・ロウ。南の方の出でね。足の速さだけは自信あるよ。」
笑いながら言う。口元から覗いた犬歯が、陽の光を反射した。
そして、最後の一人。
彼が一歩前に出た瞬間、風がマントをはためかせた。
背が高い。私より二つ……いや、三つ分は上を見上げるほど。
屈強な体つきに、鋭い眼光。
けれど、声は驚くほど落ち着いていた。
「――ディラン・ヴェルド。元、冒険者だ。」
その声には、妙な安心感があった。
重く、けれど澄んでいる。
――なるほど。
この三人が、アルディアまでの同行者。
私は一歩前に出て、ローブの裾を軽く摘まみ、丁寧に頭を下げた。
「セラナ・アルセリアです。アルディアまで――どうぞよろしくお願いします。」
完璧なはず。
母様から仕込まれた“貴族式の挨拶”だから。
……たぶん、姿勢も悪くない。
私も一応、貴族だからね。
リオンは慌てたように背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「はっ、こちらこそ……命を懸けてお守りいたします!」
その真面目さに、思わず笑いそうになる。
バルナは腕を組んでニヤリと笑った。
「へぇ、思ってたより気取ってねぇじゃん。
貴族様ってやつは、もっとこう……堅いもんだと思ってたけど。」
あれ? 私の期待した反応とは違う。
貴族らしくできたと思ったのに。
そして――ディラン。
ただ静かに私を見て、短く頷いた。
「……了解した。よろしく頼む。」
その声には、不思議な重みがあった。
お互いに挨拶を終えたあと、
ニナが一歩前に出て、アルディアまでの道のりを説明してくれた。
距離としては――およそ一週間。
かつて国交があった頃は街道が整備され、商人や旅人で賑わっていたという。
けれど今はもう荒野と化し、
ところどころで魔物や野盗が出没する危険地帯になっているらしい。
「……つまり、安全な道なんて、もう残ってないってことね。」
思わず口にすると、ニナは静かに頷いた。
風が吹き抜け、焦げた草の匂いが微かに漂う。
――この旅が、生半可なものじゃないことだけは、よくわかった。
本来なら、旅に出るには入念な準備が必要だろう。
けれど、この野営地では――それは叶わなかった。
私たちは、それぞれ最低限の支度を整え、
一時間後に東の出口へ集まる約束を交わした。
……私の準備は、ひとつだけ。
ピピ先生に――挨拶をしておきたい。
◇
ピピ先生は、すぐに見つかった。
避難民の子どもに包帯を巻いているところだった。
「先生!」
思わず声をかけると、先生が振り向く。
疲れた顔の中に、それでも優しい笑みが浮かんでいた。
「アルセリアさん。」
その声を聞いただけで、胸の奥がほんの少し温かくなる。
「先生、行ってきます。」
「……はい。頑張ってください。――待ってます。」
短い言葉だった。
けれど、その一言には、確かな力が宿っていた。
“待ってます”――その響きが、静かに胸の奥へ沈んでいく。
私は深く頭を下げた。
冷たい風の中を、まっすぐに歩き出す。
約束の場所へ――。