第3話:二人の雪解け
アレクシス様から手渡された素朴な野の花は、私の部屋のテーブルの上、スノードロップと月光花の隣にちょこんと飾られた。不格好だけれど、私にとってはどんな高価な宝石よりも大切な宝物だった。
あの日を境に、私とアレクシス様の間には、ほんの少しだけ変化が訪れた。
相変わらず食事の席での会話は少ない。けれど、以前のような針を呑むような沈黙ではなく、どこか穏やかな空気が流れるようになった。私が「今日のお天気は良いですね」と話しかければ、彼は「……ああ」と短く相槌を打ってくれる。彼が読んでいた本について尋ねれば、「……軍事史だ」とぶっきらぼうに教えてくれる。
それは、他の夫婦に比べれば、あまりに拙く、ささやかな交流かもしれない。けれど、私にとっては、一つ一つの言葉が温かい雫のように心に染み渡り、乾いていた心を潤してくれた。
彼の不器用な優しさも、変わらず続いていた。
私が図書室で高い場所にある本に手を伸ばせずにいると、いつの間にか背後に現れた彼が、無言でその本を取ってくれる。私が庭仕事で少し手を汚してしまえば、どこからか綺麗な布を持ってきて、黙って差し出してくれる。
そして、そんな彼の耳が、いつもほんのり赤く染まっていることに、私はもう気づいていた。
彼のことをもっと知りたい。
その思いは日増しに強くなっていった。特に私が知りたかったのは、彼がなぜ『氷の騎士』と呼ばれるようになったのか、その理由だった。執事のクラウスや侍女のハンナにそれとなく尋ねてみたが、皆、どこか言い淀み、口を閉ざしてしまう。それは、この城の誰もが触れたがらない、彼の深い傷であるようだった。
そんなある夜のこと。
私は、ふと喉の渇きを覚えて目を覚ました。侍女を呼ぶのも忍びなく、自分で水を飲もうと部屋を出て、廊下を歩いていた。すると、城の奥にあるバルコニーに、人影が見えた。
月明かりに照らし出されたその広い背中は、アレクシス様だった。
彼は手すりに寄りかかり、じっと夜空を見上げている。その姿は、ひどく孤独で、寂しげに見えた。私は、声をかけるべきか迷い、その場に立ち尽くす。
すると、彼がゆっくりとこちらを振り返った。私の存在に気づいたのだろう。
「……眠れないのか」
静かな夜に、彼の低い声が響く。
「喉が渇いて……。アレクシス様こそ、どうかなさったのですか?」
私が近づいていくと、彼は少しだけ身じろぎした。けれど、逃げるようにはしなかった。
「……昔のことを、少しな」
彼はそう言って、また空に視線を戻した。その横顔は、いつもの無表情とは違う、深い哀しみを湛えているように見えた。
「昔のこと、ですか?」
私は、今なら聞けるかもしれない、と思った。
「もし、ご迷惑でなければ……お聞かせいただけませんか。アレクシス様が、『氷の騎士』と呼ばれている理由を」
私の言葉に、彼の肩が微かに強張った。やはり、触れてはいけない話題だっただろうか。
「申し訳ありません、出過ぎたことを……」
慌てて謝罪しようとした私を、彼は静かに制した。
「……いや」
彼は小さく首を振ると、重い口を開いた。
「あれは、五年前の戦争でのことだ」
彼の声は、淡々としていた。けれど、その奥に押し殺された痛みが滲んでいる。
「私は、一軍を率いる隊長だった。部下には、まだ若い者も多かった。……弟のように、可愛がっていた者もいた」
彼は一度言葉を切り、夜空の月を見上げた。
「最後の激戦だった。敵の罠にはまり、我々の部隊は包囲された。絶体絶命の状況だった。……皆、死を覚悟していた。泣き出す者、家族の名を呼ぶ者……部隊の士気は、崩壊寸前だった」
その光景を思い出すように、彼は目を細める。
「隊長である私が、動揺するわけにはいかなかった。私が崩れれば、全滅する。だから、私は……心を殺した」
彼の声が、わずかに震えた。
「全ての感情を、心の奥底に沈めた。恐怖も、哀しみも、痛みも。ただ、敵を殲滅することだけを考える機械になるしかなかった。……そうしなければ、部下を守れなかった」
彼は、血を浴びても表情一つ変えず、鬼神の如く戦い続けた。その姿は敵だけでなく、味方すら恐怖させた。けれど、そのおかげで部隊は活路を見出し、多くの兵士が生還することができたのだという。
「だが、戻ってきた私を待っていたのは、英雄という賞賛だけではなかった。『感情のない男』『血も涙もない死神』……そして、『氷の騎士』。生き残った部下たちでさえ、俺を恐れるようになった。……俺が、守りたかったはずの者たちに」
彼は、自嘲するように、ふっと息を吐いた。
「感情の殺し方は覚えた。だが、……その戻し方を、忘れてしまった。どうやって笑うのか、どうやって人と話すのか。気づけば、周りには誰もいなくなっていた」
そう言って、彼はぎゅっと拳を握りしめた。その拳が、小刻みに震えている。
ずっと一人で、その大きな体に、あまりにも多くのものを背負って生きてきたのだ。強さの鎧をまとい、その下で、誰にも見せずに傷つき続けてきたのだ。
私は、たまらない気持ちになった。
気づけば、私は彼のその大きな拳を、自分の両手でそっと包み込んでいた。
「……!」
アレクシス様が、驚いて私を見る。
私は、彼の灰色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「あなたは、冷酷なんかじゃありません。誰よりも、お優しい方です」
私の声も、震えていた。けれど、伝えなければならないと思った。
「あなたは、皆を守るために、たった一人で戦ってこられたのですね。……もう、一人で戦わなくても大丈夫です。これからは、私も一緒にいますから」
私の言葉に、彼の灰色の瞳が大きく見開かれた。その美しい瞳が、ゆらゆらと揺れている。まるで、分厚い氷が、春の光を受けて少しずつ溶け出していくように。
「リリアーナ……」
初めて、彼は私の名前を呼んだ。
その声は、もう平坦ではなかった。確かな感情の響きがあった。
彼は、私の手を包み返すと、その大きな体で、私をそっと抱きしめた。
驚いて身を固くする私に、彼は囁くように言った。
「……すまない。ずっと、どう接していいか、分からなかった」
「……私もです」
「お前が来てくれて……嬉しいと、思っていた」
「……私も、ここに来られて、良かったと思っています」
彼の腕の中は、驚くほど温かかった。森の木々のような、清々しい香りが私を包む。
私たちは、どちらからともなく、顔を見合わせて、そして、笑った。
彼の笑顔は、まだ少しぎこちなかったけれど、今まで見たどんな表情よりも、素敵だった。
---
翌朝。
食堂に現れた私たちは、二人並んで席に着いた。
「おはよう、リリアーナ」
「おはようございます、アレクシス様」
自然に交わされる挨拶に、給仕をしていた使用人たちが、息を呑むのが分かった。
その日の朝食は、カボチャのポタージュだった。
「……うまいな」
アレクシス様が、そう言って微笑む。
「ふふ、私の好物なんです。アレクシス様もお好きでしたか?」
私も、心からの笑顔で答えた。
「ああ。お前が美味しそうに食べるからな。……俺も好きになった」
少し照れたようにそう言う彼に、私の胸はまた温かくなった。
もう、私たちの間に、気まずい沈黙はない。
不器用な優しさの裏に隠された本当の気持ちを、私たちはもう知っているから。
絶望から始まった、北の辺境での生活。
けれど、今、私の心は春の陽だまりのような幸福感で満たされている。
地味で価値がないと言われた私を、必要だと言ってくれる人がいる。
孤独な『氷の騎士』だった彼の隣で、これからは私が、彼の心を温めていくのだ。
ふと、窓の外に目をやると、中庭の片隅に白い点がいくつも見えた。
それは、この城に来て初めて彼が名前を教えてくれた花、スノードロップだった。
厳しい冬を乗り越え、一番に春の訪れを知らせる健気な花。
「見てください、アレクシス様。スノードロップがたくさん咲いています」
私が指さすと、彼は私の視線の先を追い、穏やかに目を細めた。
「ああ。……お前が来てから、今年はやけに綺麗に咲いている気がする」
絶望の冬に咲いた一輪のスノードロップは、今や満開の春を迎えようとしている。
テーブルの下で、私の手をそっと握った。しかし、その大きな手は、まだ氷のように冷たかった。
まるで、まだ春が訪れていないかのように。
『氷の騎士』の意味も、スノードロップに隠された本当の意味も、この時は分かっていなかった。