第2話:不器用な優しさ
アレクシス様が私の肩に掛けてくれた上着は、夜になってもほのかな温もりを保っているようだった。
侍女のハンナは「旦那様、なんてお優しいのでしょう!」と手放しで喜んでいたが、私自身はまだ半信半疑のままだった。
あれは気まぐれだったのかもしれない。
明日になれば、またあの氷のような沈黙に戻るのだろう。そう自分に言い聞かせながら、私は眠りについた。
翌朝、目を覚ますと、部屋の中にふわりと甘い香りが漂っていることに気づいた。
くん、と鼻を鳴らすと、それは間違いなく花の香りだった。
ベッドから起き上がって辺りを見回すと、窓辺に置かれた小さなテーブルの上に、一輪挿しが飾られているのが見えた。
「……スノードロップ?」
そこに生けられていたのは、昨日、彼が教えてくれた白い花だった。夜の間に誰かが置いていってくれたのだろうか。朝の光を浴びて、俯きがちに咲くその姿は、まるで小さな妖精のようだった。
「お嬢様、おはようございます。あら、素敵なお花」
部屋に入ってきたハンナが、花瓶に気づいて声を上げた。
「誰がこれを?」
「さあ……。わたくしが今朝参りました時には、既に飾られておりました」
私の胸に、小さな、温かいものが灯る。
まさか、とは思う。けれど、この花の話をしたのは、アレクシス様ただ一人だ。彼が?あの無口で無表情な人が、私のために?
考えすぎだ、と頭を振る。きっと、執事のクラウスか、他の使用人が気を利かせてくれたに違いない。そう結論付けたものの、その日一日、私の視線は何度も窓辺の白い花へと引き寄せられた。
その日の食事も、アレクシス様との間に会話はなかった。彼は相変わらず無表情で、黙々と食事を進めるだけ。私も、どう話しかけていいのか分からず、ただ食器の音だけが響く気まずい時間を過ごした。昨日の中庭での出来事は、まるで夢だったかのようだ。
やはり、私の考えすぎだったのだ。
そう思いながら、私は食事を終えて自室に戻った。
そんな奇妙なちぐはぐさが、数日間続いた。
食事の席では氷のように冷たい沈黙。しかし、私の身の回りでは、不可解で、けれど心温まる出来事が起こり続けたのだ。
ある日、図書室で古い植物図鑑を夢中になって読んでいた。その中で、北の地方にしか咲かないという「月光花」という青い花の記述を見つけ、私は思わず「綺麗……実物を見てみたいわ」と独り言を漏らした。
すると、その翌日。私の部屋のテーブルに、あのスノードロップの隣に、新しい花瓶が置かれていた。そこに咲いていたのは、夜空の色を溶かし込んだような、深く美しい青い花。紛れもなく、昨日図鑑で見た月光花だった。
またある時は、食事の席でのこと。その日のスープは、私の故郷の地方の郷土料理である、カボチャのポタージュだった。懐かしい味に、私は思わず「美味しい……」と小さく呟いた。
すると、それから三日に一度は、食卓にカボチャのポタージュが並ぶようになった。料理長が私の好物だと勘違いしたのかもしれない。そう思うことにした。
けれど、一番私を驚かせたのは、暖炉の薪のことだった。
北国は春とはいえまだ肌寒い。部屋の暖炉には常に火が焚かれていたが、ある晩、私は薪がはぜる音でふと目を覚ました。見ると、暖炉にくべられていたのは、ただの薪ではなかった。それは、りんごの木だった。燃えると甘く優しい香りがすることで知られる、高級な薪だ。実家でも、特別な客をもてなす時にしか使われなかった。
その甘い香りに包まれていると、不思議と心が安らぎ、私は久しぶりに朝までぐっすりと眠ることができた。そして、その日から、私の部屋の暖炉には、毎日りんごの薪が使われるようになった。
偶然、とはもう思えなかった。
スノードロップ。月光花。カボチャのポタージュ。りんごの薪。
これらは全て、私が「好きだ」と口にしたもの、あるいは好ましい反応を示したものばかりだ。そして、その場にはいつも、アレクシス様がいたか、あるいは私の独り言を聞いていてもおかしくない状況だった。
まさか、本当に、アレクシス様が?
あの『氷の騎士』が、私の些細な言葉を拾い上げ、私のためにこれだけのことを?
信じられない思いと、信じたい思いが、心の中でせめぎ合う。もし本当にそうだとしたら、彼は一体何を考えているのだろう。なぜ、直接何も言ってくれないのだろう。
確かめたい。でも、怖い。
もし違っていたら?もし、彼に「自惚れるな」と冷たく一蹴されたら?
そう思うと、一歩を踏み出す勇気が出なかった。
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そんな日々が二週間ほど続いたある日の午後。
私は、城の生活にも少し慣れてきたこともあり、執事のクラウスに申し出て、厨房を借りることにした。料理は私の数少ない趣味の一つだった。特に、ハーブを使ったお菓子作りが得意だった。
「まあ、リリアーナ様がお菓子を?ぜひ、我々にもご相伴にあずからせていただきたいものですな」
恰幅のいい料理長は、にこやかにそう言って、厨房の一角を快く貸してくれた。
私は腕まくりをすると、中庭で摘んできたばかりのカモミールと、厨房にあった小麦粉やバターを使って、ハーブクッキーを焼き始めた。甘く優しい香りが厨房に満ちていく。この無心になれる時間が、私は好きだった。
クッキーが焼きあがる頃、ふと厨房の入り口に人の気配を感じた。
振り返ると、そこに立っていたのは、アレクシス様だった。
彼は軍服ではなく、簡素なシャツ姿で、少し離れた場所から、じっとこちらを見ていた。その灰色の瞳が、私が焼いたクッキーに向けられている。
「あ、アレクシス様……」
心臓が、どきりと音を立てる。彼が厨房のような場所に姿を見せるのは珍しい。
「……何をしている」
低い声で、彼が問う。
「あの、お菓子を……クッキーを焼いておりました。もし、よろしければ……」
私は、焼きあがったばかりのクッキーを一枚、小さな皿に乗せて彼の方へ差し出した。自分でも驚くほど、大胆な行動だった。けれど、彼の不可解な優しさの理由を知るには、こうしてぶつかってみるしかないと思ったのだ。
彼は、私の差し出した皿を、無言で見つめている。
受け取ってくれるだろうか。それとも、無視されるだろうか。
沈黙が、やけに長く感じられた。
やがて、彼はゆっくりと手を伸ばし、皿からクッキーを一枚つまみ上げた。そして、それを無言で口に運ぶ。
サク、と軽い音がした。
彼の表情は、やはり変わらない。美味しいのか、不味いのか、全く読み取れない。ただ、咀嚼するその動きを、私は固唾をのんで見守った。
クッキーを一枚食べ終えると、彼はまた、じっと私を見た。
そして、
「……もう一つ」
ぽつりと、そう呟いた。
「え?」
「……もう一つ、くれ」
私は目を丸くした。聞き間違いではない。彼は、確かにおかわりを要求した。
私は慌てて、もう一枚、新しいクッキーを皿に乗せて差し出した。彼はそれも受け取ると、また黙って口に運んだ。
その時、私は見てしまった。
彼がクッキーを口にした瞬間、ほんの、ほんの一瞬だけ、彼の口元が微かに綻んだのを。それは、すぐにいつもの無表情に戻ってしまったけれど、確かに、笑ったように見えたのだ。
そして、彼は二枚目のクッキーを食べ終えると、くるりと背を向け、何も言わずに厨房から出て行ってしまった。まるで、自分の感情の揺らぎを見られたことが恥ずかしいとでもいうように、その背中は少しだけ慌てているように見えた。
後に残されたのは、呆然とする私と、まだ温かいクッキーの皿だけだった。
「……ふふっ」
思わず、笑いが込み上げてきた。
なんだ、そういうことだったのか。
彼は、冷酷なのではない。感情がないのでもない。
ただ、極度に不器用で、照れ屋なだけなのだ。
自分の気持ちをどう表現していいか分からず、言葉ではなく、行動で示そうとしてくれていたのだ。私が好きだと言った花を飾り、好物だと思った料理を出させ、安眠できるようにと特別な薪を用意してくれた。その全てが、彼の不器用な優しさだったのだ。
そして、私が作ったクッキーを「美味しい」と一言言う代わりに、「もう一つ」と要求することで、その気持ちを伝えようとしてくれた。
そう気づいた瞬間、私の胸の中にあった氷が、カラン、と音を立てて溶けていくのを感じた。
この人は、怖くない。
むしろ、とても可愛らしい人なのかもしれない。
その夜。
私は夕食の席で、思い切って彼に話しかけてみた。
「アレクシス様。本日、厨房でお出ししたクッキーですが……お口に合いましたでしょうか?」
私の言葉に、彼はびくりと肩を揺らした。そして、ナイフとフォークを握りしめたまま、固まってしまう。その耳が、ほんのりと赤く染まっていることに、私は気づいてしまった。
彼はしばらく黙り込んでいたが、やがて、意を決したように顔を上げた。
そして、私の目をまっすぐに見つめると、
「……ああ」
と、短く、けれどはっきりと答えた。
「……うまかった」
その言葉を聞いた瞬間、私の心に、春の陽だまりのような温かい光が広がっていくのを感じた。
たった一言。けれど、それは私にとって、どんな甘い愛の言葉よりも嬉しい一言だった。
この人となら、やっていけるかもしれない。
ううん、違う。
この人のことを、もっと知りたい。この不器用で、優しい人の隣で、笑って過ごしたい。
ラングストン伯爵家で、地味で価値のない娘だと虐げられてきた私。
ベルクシュタイン辺境伯家で、『氷の騎士』だと恐れられ、孤独に生きてきた彼。
似た者同士、なのかもしれない。
私たちは二人とも、自分の気持ちを表現するのが苦手なだけなのだ。
食事を終え、部屋に戻る廊下を歩いていると、前を歩いていたアレクシス様が、ふと足を止めた。そして、振り返ると、私に何かを差し出した。
それは、彼の手のひらに乗せられた、一輪の小さな花だった。
昼間、私がクッキーを焼いている間に、中庭で摘んできたのだろうか。少しだけしおれた、素朴な野の花。
「……やる」
ぶっきらぼうな、けれど、どこか照れの含まれた声。
私は、その小さな花を、壊れ物に触れるようにそっと受け取った。
「ありがとうございます、アレクシス様。……嬉しいです」
私が心からの笑顔でそう言うと、彼はまた、ふいと顔を背けて、足早に自分の部屋へと去って行ってしまった。
その大きな背中が、なんだかとても愛おしく思えた。
私の手の中には、小さな野の花と、彼がくれた確かな温もり。
絶望から始まったこの結婚は、いつの間にか、私にとってかけがえのない宝物に変わり始めていた。