第1話:絶望の政略結婚
「リリアーナ、お前に縁談だ」
父であるラングストン伯爵からそう告げられたのは、うららかな春の陽気が窓から差し込む、穏やかな昼下がりのことだった。刺繍の続きをしていた私の手から、針がぽとりと落ちる。
「……縁談、でございますか?」
聞き間違いかと思った。この私に、縁談など来るはずがない。ラングストン伯爵家には、二人の娘がいる。一つ年下の妹、マリアンヌは、薔薇の花のように華やかで、蝶のように愛らしい少女だ。陽気な性格と社交術に長け、夜会に出ればいつも男性たちの輪の中心にいる。豊かな金髪を揺らし、サファイアのような青い瞳を輝かせる彼女こそが、我が家の至宝だった。
一方の私は、マリアンヌの影。亜麻色の髪に、ヘーゼル色の瞳。良く言えば落ち着いている、悪く言えば地味で面白みのない娘。それが、ラングストン伯爵令嬢リリアーナに対する衆目の一致した評価だった。本を読むことと、庭の片隅でハーブを育てることが好きなだけの、社交界では壁の花に徹する存在。そんな私に、一体どこのどなたが興味を持つというのだろう。
父は、私の動揺を気にも留めず、事務的な口調で続けた。
「相手は、北の辺境を治めるアレクシス・フォン・ベルクシュタイン辺境伯様だ」
その名を聞いて、私は息を呑んだ。
アレクシス・フォン・ベルクシュタイン。
社交界でその名を知らぬ者はいない。ただし、それは輝かしい噂によってではない。むしろ、その逆だ。
『氷の騎士』
『戦場の死神』
『感情を持たない鉄仮面』
彼を形容する言葉は、どれもこれも血と氷にまみれていた。数年前、隣国との大規模な戦争で圧倒的な武功を挙げ、王国を勝利に導いた英雄。しかし、その戦いぶりはあまりに苛烈で、敵だけでなく味方すら恐怖に震え上がらせたという。戦場では一度も表情を変えず、血を浴びても眉一つ動かさなかったことから、『氷の騎士』の異名がついた。
戦後は、父君の跡を継いで北の広大な辺境領地の主となったが、その領地は冬には深い雪に閉ざされる厳しい土地だ。王都の夜会に姿を見せることもほとんどなく、その素顔を知る者は少ない。ただ、数少ない目撃談によれば、人を寄せ付けない冷たい空気をまとい、その灰色の瞳に睨まれれば、誰もが凍り付いてしまうのだとか。
「……なぜ、その方が、私に……?」
震える声で尋ねると、父は初めてこちらに視線を向け、忌々しげに舌打ちをした。
「もとは、マリアンヌへの縁談だったのだ」
やはり。そうだろうと思った。ベルクシュタイン辺境伯家は、由緒正しい武門の家系であり、その領地は国防の要。ラングストン伯爵家としては、ぜひとも縁を結びたい相手のはずだ。そして、嫁がせるならば、自慢の娘であるマリアンヌを、と考えるのは当然のこと。
「だが、マリアンヌが嫌だと泣いて騒ぐものでな。『氷の騎士様なんて怖い』『北の果てになんて行きたくない』と。あの子には、もっとふさわしい、王都の華やかな青年との縁談を探してやらねばならん」
父の言葉は、まるでマリアンヌの代わりが見つかって安堵した、とでも言いたげだった。私の気持ちなど、初めから存在しないかのように。
「そこで、お前だ、リリアーナ。お前ならば、文句は言うまい。どうせ、このまま家にいても、ろくな嫁ぎ先も見つからんのだからな。辺境伯夫人となれば、お前にとっては望外の幸運であろう」
幸運。これが、幸運だというのか。
冷酷無比と噂される男の元へ、愛らしい妹の身代わりとして嫁ぐことが。まるで、傷んだ果物を処分するかのように扱われることが。
唇を噛みしめると、血の味がした。けれど、私は何も言い返せなかった。父の言う通り、私には何の選択肢もなかったからだ。ラングストン伯爵家の一員として、家の利益のために身を捧げる。それが、貴族の娘に生まれた私の、唯一の価値なのだから。
「……謹んで、お受けいたします」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。
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嫁入りまでの日々は、あっという間に過ぎていった。
マリアンヌは「お姉様、ごめんなさいね。でも、私にはどうしても無理だったの」と涙ながらに私の手にすがりついてきたが、その瞳の奥に安堵の色が浮かんでいるのを見逃すことはできなかった。両親は、厄介払いができたとばかりに、私の存在をいないかのように扱い始めた。屋敷の誰もが、私ではなく、新しい縁談を探し始めたマリアンヌの話題で持ちきりだった。
私のための準備は、最低限のものだった。持たされるドレスは数着のみ。それも、流行遅れの地味なデザインのものばかり。まるで、辺境へ行くのだから、お洒落など不要だろうと言わんばかりの仕打ちだった。
そんな中で、唯一私の身を案じてくれたのは、長年仕えてくれている侍女のハンナだけだった。
「お嬢様……。あまりにも、ひどすぎます」
荷造りを手伝いながら、ハンナは何度も涙ぐんだ。
「いいのよ、ハンナ。これが私の役目なのだから」
私は努めて穏やかに微笑んでみせた。もう、何も期待しない。何も望まない。ただ、与えられた運命を受け入れるだけ。そう心を決めてしまえば、不思議と痛みは感じなくなっていた。
出発の朝。
家族からの温かい言葉など、もちろんない。父は「辺境伯家の名を汚すでないぞ」と一言告げただけ。母とマリアンヌは、姿すら見せなかった。
私は誰にも見送られることなく、たった一台の馬車に乗り込んだ。付き添ってくれるのは、ハンナだけ。ガタガタと揺れる馬車の中で、私は一度も振り返らなかった。もう、私に帰る場所はないのだから。
北へ向かう旅は、長く、過酷だった。緑豊かだった景色は次第に荒涼とし、空気は日増しに冷たくなっていく。数週間後、ようやくベルクシュタイン辺境伯領の入り口を示す門が見えてきた。
「ここが……」
馬車の窓から外を眺める。どこまでも続く針葉樹の森と、遠くに見える険しい山々。噂に違わぬ、厳しくも壮大な自然が広がっていた。王都の華やかさとは全く違う、静かで、荘厳な世界。なぜだろう。この景色を見ていると、私のささくれだった心が、少しだけ凪いでいくような気がした。
やがて、馬車は小高い丘の上に立つ、質実剛健な石造りの城館の前で止まった。これが、ベルクシュタイン城。私の新しい家。
ハンナに支えられながら馬車を降りると、城の重厚な扉がゆっくりと開かれた。
中から現れたのは、初老の執事らしき男性と、数人の使用人たちだった。彼らは深々と頭を下げ、私たちを迎え入れてくれた。
「ようこそお越しくださいました、リリアーナ様。わたくしは、この城の執事を務めております、クラウスと申します。長旅、さぞお疲れのことでしょう」
クラウスと名乗った執事は、穏やかな物腰で私に語りかけた。使用人たちの様子も、どこか温かい。想像していたような、冷たく張り詰めた雰囲気はどこにもなかった。少しだけ、ほんの少しだけ、安堵する。
「……主のアレクシス様は、どちらに?」
私が最も恐れていた人物。私の夫となる人。その姿が見えないことに、私は気づいた。クラウスは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「大変申し訳ございません。アレクシス様は急な公務で、現在、領内の砦を視察に出ておられます。明日の朝にはお戻りになる予定です。本日は、どうぞごゆっくりお休みください」
夫が出迎えにも来ない。それは、私が歓迎されていない何よりの証拠のように思えた。やはり、政略結婚の駒として送り込まれただけの、望まれぬ花嫁なのだ。芽生えかけた安堵は、すぐに冷たい諦念へと変わった。
ハンナと共に案内された部屋は、驚くほど広く、そして趣味の良い調度品で整えられていた。暖炉には赤々と火が燃え、部屋全体を暖めている。窓の外には、雄大な北の山々が見えた。
「素晴らしいお部屋ですわ、お嬢様」
ハンナは感嘆の声を上げたが、私の心は晴れなかった。どんなに立派な部屋であろうと、ここは私の鳥籠に過ぎない。
その夜、私はほとんど眠ることができなかった。明日には、あの『氷の騎士』と顔を合わせなければならない。彼は、私を見て何を思うのだろう。地味で、何の取り柄もない身代わりの花嫁を。きっと、失望し、侮蔑の視線を向けるに違いない。そう思うと、心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなった。
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翌朝。
私はハンナに手伝ってもらい、持ってきたドレスの中で一番上等な、落ち着いた青色のドレスに身を包んだ。せめて、辺境伯夫人にふさわしい礼儀だけは示さなければならない。
朝食の準備ができたと、侍女が呼びに来た。食堂へ向かう長い廊下を歩きながら、私は何度も深呼吸を繰り返した。心臓が、今にも張り裂けそうだった。
食堂の扉の前で、執事のクラウスが待っていた。
「リリアーナ様。アレクシス様は、既にお待ちです」
覚悟を決めて、中に入る。
広い食堂の中央に置かれた長いテーブル。その上座に、一人の男性が座っていた。
彼が、アレクシス・フォン・ベルクシュタイン。
窓からの光を背にしていて、表情はよく見えない。ただ、そこにいるだけで空気がシンと張り詰めるような、圧倒的な存在感があった。噂に聞く通りの、屈強な体躯。肩幅が広く、背も高い。黒い髪は短く刈り込まれ、軍服のように仕立てられた上着を隙なく着こなしている。
私が歩み寄り、テーブルの前に立って貴族女性の挨拶をすると、彼はゆっくりと立ち上がった。そして、初めて、私の方へと顔を向けた。
息が、止まった。
冷たいと噂される、灰色の瞳。その瞳が、まっすぐに私を捉えていた。けれど、そこに侮蔑や失望の色はなかった。むしろ、その瞳は何かを問うように、探るように、じっと私を見つめている。まるで、壊れ物に触れるかのように、慎重な眼差し。
そして、何よりも私を驚かせたのは、彼の容姿だった。
『鉄仮面』という異名から、厳つい、いかめしい顔を想像していた。だが、目の前にいる彼は、驚くほど整った顔立ちをしていた。高く通った鼻筋、引き結ばれた薄い唇。彫刻のように完璧な造形。しかし、その表情は一切動かない。まるで能面のように、感情というものが抜け落ちている。
「……リリアーナ・フォン・ラングストンです。この度は、よろしくお願い申し上げます」
かろうじて、それだけを口にした。
彼は何も答えない。ただ、灰色の瞳で私を見つめ続ける。沈黙が、重く、重くのしかかる。ああ、やはり私は歓迎されていないのだ。何か言わなければ。でも、何を?
私が言葉を探して口を開きかけた、その時だった。
「……座れ」
低く、静かな声が響いた。感情の乗らない、平坦な声。けれど、不思議と威圧感はなかった。私は言われるがまま、彼が指し示した席――彼の正面の席に、静かに腰を下ろした。
すぐに使用人たちが朝食を運び始めた。スープ、パン、焼いたソーセージと野菜。どれも温かく、美味しそうだった。しかし、私にはそれを味わう余裕などなかった。目の前の夫から目が離せない。
彼は、ナイフとフォークを手に取ると、無言で食事を始めた。その所作は驚くほど洗練されていて、音一つ立てない。私も慌ててスープにスプーンをつけたが、緊張で手が震えて、うまく口に運べなかった。カチャン、と小さな音を立ててスプーンが皿に当たってしまう。
びくりと肩を揺らす私に、彼の視線が向けられた。灰色の瞳が、また私を捉える。
(何か、気に障っただろうか……)
恐怖で身がすくむ。
しかし、彼は何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめた後、ふいと視線を逸らし、自分の皿に集中する。その横顔は、やはり何の感情も読み取れなかった。
気まずい沈黙の中、食事は進んだ。使用人たちの立てるかすかな物音だけが、この空間に音が在ることを証明しているかのようだった。
食事が終わると、彼はナプキンで口元を拭い、静かに立ち上がった。そして、執事のクラウスに何か短い言葉を告げると、私には一瞥もくれずに食堂から出て行ってしまった。
一人残された私は、呆然と彼の去っていった扉を見つめることしかできなかった。
結局、彼が私にかけた言葉は、たった一言。「座れ」だけ。
会話らしい会話は、何一つなかった。
これが、これからの私の日常になるのだろうか。
感情を見せない夫と、言葉を交わすこともなく、ただ息を潜めて生きていく。それは、父の屋敷にいた頃と、何も変わらないではないか。いや、すぐそばにいる夫に怯えなければならない分、もっと辛いかもしれない。
絶望が、再び胸の奥から冷たく湧き上がってくるのを感じた。
部屋に戻ると、ハンナが心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「お嬢様、旦那様とは……お会いになりましたか?」
「ええ……」
私は力なく頷いた。
「どんな方でしたか?噂通りの、怖い方で……?」
「……わからないわ」
それが、正直な気持ちだった。怖い、というのとは少し違う。ただ、何を考えているのか全く分からなかった。まるで、分厚い氷の壁に覆われているようだった。
その日の午後。
私は、少しでも気分を紛らわそうと、城の中を散策することにした。幸い、執事のクラウスは「どうぞ、ご自由になさってください」と優しく言ってくれた。
城の中は、外見と同じく質実剛健ながらも、隅々まで手入れが行き届いていた。長い廊下には、歴代の当主の肖像画や、戦で使われたであろう武具が飾られている。図書室には、天井まで届く本棚にびっしりと本が詰まっていた。本好きの私にとっては、心惹かれる場所だった。
そして、私は中庭に出た。
北の厳しい気候のせいか、花はほとんど咲いていない。けれど、様々な種類のハーブが、寒さに負けじと力強く育っていた。ローズマリー、タイム、ミント……。故郷の屋敷の庭で育てていたものと同じ香りがして、少しだけ懐かしい気持ちになる。
ふと、その庭の片隅に、小さな温室があるのに気づいた。ガラス張りのその建物に、私は吸い寄せられるように近づいていった。
中を覗くと、そこには、色とりどりの花が咲き誇っていた。寒さに弱い、王都でしか見られないようなデリケートな花々が、大切に育てられている。
「……綺麗」
思わず、声が漏れた。
こんな無骨な城に、こんなにも美しい場所があったなんて。一体誰が、この花々を育てているのだろう。
夢中で花を眺めていると、不意に背後で物音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは――アレクシス様だった。
彼は、朝と同じ無表情のまま、私を見ていた。いつからそこにいたのだろう。全く気づかなかった。心臓が大きく跳ねる。
「あ、あの……申し訳ありません。勝手に……」
慌てて謝罪する私を、彼は黙って見ている。そして、ゆっくりと温室に視線を移した。その灰色の瞳が、ほんのわずかに、和らいだように見えたのは、気のせいだろうか。
彼は、私の方へ一歩、近づいた。
私は思わず身を固くする。
彼は私のすぐそばで足を止めると、何も言わずに、温室の中に咲いていた一輪の白い花を指さした。
「……スノードロップ」
低い声が、静かに響いた。
それが、彼が私にかけた、二言目の言葉だった。
「え……?」
「その花の名だ。……春を告げる花」
感情のない、平坦な声。けれど、その言葉は、なぜか私の心にすっと染み込んできた。
私は、彼が指さした白い花を見る。俯くように咲く、可憐な花。厳しい冬を乗り越え、一番に春の訪れを知らせるという、健気な花。
「花言葉は…………。綺麗、ですね」
花言葉を口にしかけて、私はやめた。この花の持つ花言葉を、この氷のような人の前で口にするのは、何故かためらわれたのだ。私がそう呟くと、彼はこくりと小さく頷いた。そして、また沈黙が訪れる。
「あの、アレクシス様は、お花がお好きなのですか?」
言ってから、しまった、と思った。戦場の死神とまで呼ばれた男に、あまりに場違いな質問だったかもしれない。彼が気分を害したらどうしよう。
しかし、彼の反応は予想とは違っていた。
彼は何も答えなかったが、すぐに踵を返してどこかへ行ってしまうこともなかった。ただ、黙って花を見つめている。その横顔を盗み見ると、引き結ばれていた唇が、ほんの少しだけ、緩んでいるように見えた。
やがて、彼は私の方を振り返ると、また一言だけ、ぽつりと呟いた。
「……寒く、ないか」
「え?」
「ここは冷える。……風邪を引く」
そう言うと、彼は着ていた上着を脱ぎ、私の肩にそっとかけた。上着からは、彼のものだろうか、微かに森の木々のような、清々しい香りがした。そして、まだ彼の体温が残っているのか、じんわりと温かかった。
「あ……ありがとうございます」
驚いてお礼を言う私に、彼はやはり何も答えず、背を向けて足早に去って行ってしまった。まるで、何かから逃げるように。
一人残された私は、肩に残る温かさと、彼の香りに包まれながら、呆然と立ち尽くすしかなかった。
冷酷無比の『氷の騎士』。
感情を持たない『鉄仮面』。
けれど、今、私が見た彼は、噂とは少し違うように思えた。
言葉数は極端に少なく、表情も全く変わらない。けれど、彼の行動は、不器用ながらも、どこか優しさを秘めているような気がした。
もしかしたら、彼はただ、人とどう接していいのか分からないだけなのではないだろうか。感情の表し方を知らないだけなのではないだろうか。
もちろん、それは私の希望的観測に過ぎないのかもしれない。明日になれば、また冷たい彼に戻っているのかもしれない。
それでも。
絶望の色しか見えなかったこの政略結婚に、ほんの小さな、スノードロップの花のような、淡い光が差し込んだような気がした。
北の辺境での、私の新しい生活。
それは、まだ始まったばかりだった。




