「本音の在処」
大学の図書館の隅、人気のない自習スペースで、川島悠真はノートを閉じた。
「疲れたな……。休憩しないか?」
向かいの席に座る吉岡美咲が、ペンを置いて小さく伸びをする。
「うん。じゃ、外行こっか」
二人は並んでキャンパスの外に出た。春の夕方、まだ少し冷たい風が頬を撫でる。美咲は髪を押さえながら笑った。
「ねえ、川島」
「ん?」
「彼女とはうまくいってる?」
悠真は一瞬答えに詰まり、曖昧に笑った。
「……普通、かな。デートもしてるし、喧嘩もない」
「普通、ね。そっか。幸せそうでいいじゃん」
そう言った美咲の声が、少しだけ硬い。彼女にも恋人がいる。俺とは正反対の真面目で几帳面な同じゼミの男子。誰が見ても「お似合いのカップル」と呼ぶだろう。
......けれど俺たち二人は、誰にも言えない関係を持っていた。
夜のマンション。明かりを落とした部屋で、二人はベッドに並んで横になっていた。カーテンの隙間から、街の光が細く差し込んでいる。
「ねえ、美咲」
「ん?」
「俺たちって、なんなんだろうな」
天井を見つめたまま、悠真は口にした。美咲はしばらく黙って、それからぽつりと答える。
「……さあ。彼氏彼女にはなれないでしょ。私たち」
「だよな」
互いに付き合っている人がいて、その関係を壊す気はなかった。少なくとも表面上は。
でも、ここにいるときだけは、飾らない自分を出せる。愚痴も弱音も、ちょっとした下らないことも、恋人には言えない言葉が自然と口をつく。
「私さ、彼といると、ちゃんと“いい彼女”を演じてる気がするの」
「わかる。俺も、彼女の前じゃ“頼れる男”を無理やりやってる気がする」
二人は同時に笑い、そして沈黙した。
「私のこと...1度でも好きになったことある?」
美咲の問いにすぐには答えられなかった。
別に恋愛経験が少ないわけではないが、経験が増していく度考えることがある。
「わからない...好き、てなんなんだろ」
きっとこの関係になったことも原因の一つなのだろう。
「普通の人はこんなこと考えないんだろうね。恋愛感情が無ければ浮気相手でも無く、ただのセフレなんて言ってたよね私。もしそこに少しでも好意があったら浮気...なんだよね...」
「どうした?いつにも増して変だぞ?」
「変なのはお互い様。それが私達の普通なんだから。」
普通。普通って...
「なんなんだろうな」
ある日の帰り道。
美咲がぽつりと言った。
「恋愛ってさ、大人になれば“ひとりを選ぶもの”って思ってたけど……違うのかな」
「どうだろうな。俺もわからない。文化が違えば一夫多妻......。いや、なんでもない」
彼女の横顔は真剣だった。夕焼けに染まった頬が少し寂しそうで、悠真は思わず手を伸ばしそうになった。だが、その指先は空気を切って戻る。
「もしさ」美咲が続ける。
「......お互い、彼氏も彼女もいなかったら、私たち、付き合ってたのかな」
「……そうかもな。でも、そうじゃないから、こうなんだろ」
二人は笑った。けれどその笑いは、どこか苦い。
季節は流れ、卒業が近づく。
就職活動、研究、そしてそれぞれの恋人との未来。二人で過ごす時間は自然と減っていった。
最後に会った夜、美咲はいつになく真剣な顔で言った。
「悠真。私ね、きっと彼と結婚すると思う」
「……そうか」
「でもさ、もし辛くなったら。もし“いい彼女”を続けられなくなったら。あなたのこと、思い出すかもしれない」
悠真は少し黙って、それから笑った。
「俺もだよ。たぶん俺は、これからも“いい彼氏”を演じ続ける。でも、演じ疲れたときは……お前のこと、思い出す」
二人は黙って手を重ねた。その温もりを確かめるように、ほんの数秒だけ。
そして、それが最後の夜になった。
数年後。
互いの連絡先は残っているが、もうやり取りはほとんどなかった。SNSの画面には、結婚式の写真や幸せそうな投稿が並んでいる。
スクロールしていくうちに、ふと心に浮かぶのは、あの頃の会話。
本音を見せられる相手は誰なのか。恋愛とは、大人になるとは、なんなのか。
答えはまだ出ないまま、二人はそれぞれの「幸せ」を続けていた。
......けれど胸の奥に、あの夜の温もりだけは、消えずに残り続けていた。




