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「境」

町はずれに、小さな湖がある。

水面はまるで磨かれた鏡のように静かで、風が吹いても揺れないと言われていた。


僕がその湖を訪れたのは、失恋で気持ちが沈んでいたときだ。

誰に聞いたわけでもなく、ふと足が向いてしまった。


湖畔に立つと、水面に自分の姿が映った。

だが、それはいつもの鏡に映る像とは少し違った。

どこか、笑っているように見えたのだ。


「……笑ってなんかいないのに」


そう呟くと、水面の中の「僕」が唇を動かした。

──大丈夫だよ。


心臓が跳ねた。

錯覚かと思ったが、確かに聞こえた。


それから僕は、何度も湖に通うようになった。

水面に映る「僕」は、毎回少しだけ違った。

あるときは落ち込む僕を励まし、またあるときは冷たく突き放すような視線を送ってきた。


「君は誰なんだ?」


ある晩、月が湖を照らしていたとき、僕は問いかけた。

すると、水面の「僕」は微笑みながら答えた。


──君がなりたかった自分さ。


言葉が喉で止まった。

湖面は相変わらず静かで、風ひとつない。

ただ、そこに映る「僕」だけが、まるで生き物のように瞬きをしていた。


やがて、「僕」は右手を水面から差し出すような仕草をした。

本当に湖から腕が伸びたわけではない。だが、その誘いを拒むことはできなかった。


気づけば僕は、水面に手を伸ばしていた。

指先が触れた瞬間、冷たい感触が全身を包んだ。


視界が揺らぎ、僕は「湖の中」に立っていた。

そこは、水の底ではなく、まるでもうひとつの世界。

空は逆さまに月が輝き、湖の外にいたはずの木々や町並みが、裏返しになって広がっていた。


そして、そこに「もうひとりの僕」が立っていた。

彼は笑っていた。自信に満ちた表情で、僕には決してできなかった笑みを浮かべて。


「ここがいいよ」

彼は言った。

「君の苦しみも、後悔も、全部ここに置いていける。ここなら、ずっと“なりたかった自分”でいられるんだ」


僕は言葉を失った。

確かに、その言葉は甘美だった。

このままここに留まれば、もう悩むことはない。


だが、ふと背後を振り返ると、湖の向こうに「現実の世界」が見えた。

夜の冷たい空気、静かな町の灯り。

そこには不完全で、失敗ばかりの僕の人生があった。


「帰るの?」

彼が問いかける。



僕は答えなかった。





──時が経ち、湖畔を散歩していた老人が、水面を覗き込んだ。

そこには、若い男の姿が映っていた。

だが、それは湖に背を向けて歩き出す姿なのか、それとも湖の中に沈んでいく姿なのか──判別できなかった。


老人はしばらく目を凝らしたが、やがて首を振り、歩き去った。

湖面は再び、静かな鏡のように光を返していた。

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