第63話 閑話 世界を繋ぐ少女の世界
◇◇◇
小学5年生にもなると、小学1年の頃とは趣味も好みも変わるものだ。
だが、殆ど……と言うか、ほぼ全ての小学生は卒業まで同じランドセルを使い続けている。
シロウはぺしゃんこにつぶれてはいるが、黒のオーソドックスなランドセル。イズミもオーソドックスな飾りの無いタイプの赤いランドセル。金森すずは丁寧に使われたピンクのランドセル。
本来であれば大分子供っぽく思えるそのランドセルも、女の子らしい雰囲気と服装の金森すずには不思議と似合って見えた。
勿論毎日と言う訳で無く、大体週に一度、多くて週に二度程シロウと金森は曲がり角を一つ曲がるまでの間一緒に登校をするようになる。
「穂村くんもいずの家に遊びに行けばいいのに」
品の良い微笑みを湛ながら金森すずはシロウをチラリと見る。
「やだよ。何で俺が裏切り者の家に行かなきゃならないんだよ」
「裏切り者って、ふふふっ」
クスクスと笑った後でまたチラリとシロウを見る。
「伝えとくね」
「だから伝えんなっ!」
元々積極的で社交性もあり、運動も勉強も得意なイズミは転校先でも上手くやれるだろう事はシロウもよくわかっていたし、特別心配もしていなかった。
転校してすぐに出来た友達は小さい頃から剣道をしているそうで、一度練習を見せてもらったと楽しそうに語ったと言っていた。
本当に理不尽で勝手な感情だけれど、イズミが楽しそうにしていると、段々と忘れられて行ってしまう様にも感じた。
「ん、これ。裏切り者に渡して。面白かったから貸してやるって」
二学期に入ったある日の通学路、シロウが愛用の旧型ゲーム機とソフトを金森に渡したのもそういう心の表れだったのだろうか?
これから学校に向かおうと言うのに小型とは言えゲーム機を差し出された金森は流石に困惑の表情を浮かべる。
「え~、渡すのは良いけどさぁ。今?これから学校だよ~?」
「だって帰りはお前習い事あるって言うじゃん。頼むよ、な?」
ゲーム機を持ちながら手を合わせ、申し訳なさそうに言うシロウに金森すずは根負けしてゲーム機を受け取る。
「しょうがないなぁ。今回だけだよ?」
「サンキュー、絶対渡してくれよな!」
「うん、任せて。ふふふっ」
小五の男子が、どうか忘れられない様にと何とか考えて、少女に託した細い糸。
――その糸は、やがて少女を締め付ける事になる。
◇◇◇
「穂村くん、おはよう」
いつも通りマンションを出て二つ目の曲がり角で、いつも通りニコニコと微笑みながら金森は言う。
「おう。ゲーム渡してくれたか?」
ほんの一瞬、恐らく金森も気が付かない間の後でやはり微笑んでコクリと頷く。
「うん」
頷きの後で何か金森から言葉が続くのを待つが、何も続きが無いので不本意ながらシロウは自ら問いかける。
「何か言ってたか?」
「えっ、ん~……っとね」
何秒か考える様に宙を見て、またニコリと笑う。
「ありがとう、って」
「あっそ」
自分から聞いておいて照れ隠しの様にそっけない返事をするシロウ。
シロウと金森が一緒に歩くのは、二つ目の角から三つ目の角の間だけ。三つ目の角に近づくと、いつも通り『それじゃ、またね』と言い金森は先を歩く。
いつも通り先を進む金森の背中には綺麗な赤いランドセル。
「あれ?」
流石にいつもとの違いに気が付いたシロウの声に金森は内心ギクリとする。
「ど……、どうかした?」
「ランドセル違くね?」
何の気無く金森のランドセルを指さすと、言い辛そうに申し訳なさそうな顔をして振り返る。
「……やっと気が付いた?古くなって来ちゃったし、新しいの買って貰ったの。変かな?」
言い辛そうにそう言って笑う金森に呆れ顔のシロウ。
「……ランドセルって買い替える物なのか?金持ちの考える事はわかんねぇなぁ」
呆れ顔のシロウの顔色を窺う様にチラチラと視線を送ってくる金森を見て、シロウは言葉を足す事にする。
「変じゃないと思うぞ。前のも目立って良かったけど」
それを聞いて金森すずはにっこりと笑う。
「ふふふっ、そっかぁ」
◇◇◇
金森すずは特別に美形と言うわけではないが、柔らかい雰囲気と物腰とその服装などからとても女の子らしい女の子だ。
例えば、小学5年ともなれば『子供っぽい』と感じるような明るいピンク色のランドセルがよく似合う位。
確かに家は裕福だが、親が買ってくれたランドセルを5年生になってもピカピカに使うほど大事にしていた。
――その女の子らしさが、一部の女子にはぶりっ子と映ったようだった。
今までは、隣にイズミがいた。
曲がった事を嫌い、男女と呼ばれる程度には勝ち気で、友達想いな強くて優しい金森すずの親友。
勿論イズミの他にも仲のいい子はいたのだが、転校した後も度々イズミの下を訪れるすずに内心いい気はしていなかったようだった。目の前の自分達より、転校した友人の方を優先されたように思ったのだろうか?
――結論から言うと、金森すずはイジメに遭い、小学6年の途中で転校した。
もつれた糸の始まりが何だったのかは分からない。
イズミが転校したから?足を引っかけられて転んだ時にランドセルからゲームが出てきたから?イジメの主犯が好きだった男子が、すずの事を好きという噂が立ったから?
黒い油性マジックで真っ直ぐに線が引かれたピンクのランドセルを、涙を堪えながらゴシゴシと擦った。
5年生になるまで、大切に使っていたピカピカのランドセルは、黒く滲んで汚れてしまった。
ゲーム機は池に落とされて壊れてしまったけれど、そんな事はシロウには言えず、笑顔で嘘を吐いてしまった。
一つ嘘を吐いて、一つ秘密を作れば、二つも三つも同じ事だった。
両親にも、シロウにも、イズミにも気付かれないようにいつも通りの笑顔を作り続けた。
結局、イジメに気が付いた彼女の父が転校をさせるまでの一年間、金森すずは皆に心配を掛けぬ様に、ニコニコと笑っていた――。
◇◇◇
穂村司郎が、金森すずの転校を知ったのは暫く経ってからだった。
『そう言や最近見ないな』、と思いトイレに行く振りをして教室をチラリと覗いたりもした。
――もっと早く、彼が金森すずに気を掛けていれば結果は違っただろうか?
『ピンクのランドセルとか超ぶりっ子だったよね』
『ひっど。だからってマジックはひどくない?』
『そんな事言って笑ってたじゃん』
ある日、すれ違った別のクラスの女子達がそんな事を言っていたのが耳に入り、その時漸くシロウの中で繋がった。だから、金森はランドセルを変えたのだ、と。そして、金森が転校していた事を知った。
気が付くと、振り向いてその女子の肩を掴んでいた。
頭に血が上ると言う言葉の意味が初めて分かった。
「……えっ、ちょっと何?」
何かを言おうとしても、口が上手く動かなかった。
ただ、肩を掴む手に力が入った。
少し前まで、普通に朝登校していたのに。あんなに大事に使っていたランドセルが変わったのに。何にも気が付かなかった自分が情けなかった。
そして、それ以上にイズミの友達を守れなかった自分に腹が立ってしょうがなかった。
連れの女子がシロウがすずと仲が良かった事に気が付き、慌てた様子で周囲に助けを求める。
まるで被害者の風を装って。
「おい穂村!やめろよ」
事情も知らず女子にいい恰好をしようとする男子に肩を引かれたので、そのまま思いっきり後ろに腕を振ると、拳の裏は丁度彼の鼻っ柱に当たり鼻から血が出る。
そして、また声を上げて女子に掴みかかろうとするシロウと、それを止めようとする男子達とで大喧嘩へと発展した。喧嘩と言っても、事情も分からずただ止めようとする男子達と、頭に血が上るシロウでは相手にならず、何人も何人も殴り飛ばし蹴り飛ばし、誰かが職員室に呼びに行った教師が到着して漸く事態は収まった。
「……ふっざけんなよ!てめぇが悪いんだろ!?離せよ!おいっ!」
教師に身体を押さえられながらも決死の形相で女子を睨み声を上げるシロウ。
周りには鼻を押さえて服を赤く染める男子や、腹を押さえてうずくまる男子や、肩を引かれて伸びてしまった服で恐怖に震えて泣く女子の姿。
諍いの理由を問われてもシロウは口を噤み何も言わず、彼は残りの小学校生活を問題児として過ごす事になる。
うまく言葉にする事は出来なかったけれど、転校してしまった幼なじみの友人を守る事も助ける事も、気付く事すら出来なかった事を他の誰にも知られたくなかった。
中学校に入ってもそれは続き、誰かの悪口を言う事で仲の良さを確認するような同級生達に嫌気が差したシロウは次第に学校に行く事が減る。それが一部であって全体で無い事に気付くにはもう少しだけ時間が必要だった。
幸いにして、両親は何となくではあるが彼の心情を察し、ある程度の理解を示してくれた。
一学期の終わりが近付いたある日の午前中、インターフォンが鳴り、家族の誰もいなかった事もありシロウが扉を開けるとそこには金森すずがいた。
「久し振り、穂村くん」
「おう。……久し振り」
今までと何ら変わらない笑顔の金森に、きょとんとしながらもシロウもペコリと頭を下げながら挨拶を返す。
いじめの事、転校の事、何も出来なかった事、色々と言いたい事や聞きたい事があったがどれも上手く言葉にできる気がしなかった。
ただ、浮かんだのはイズミと並んだすずの後ろ姿。赤とピンクのランドセルの後ろ姿。
「ランドセル」
言いながらシロウは俯く。
「……前の方が似合ってた、と思うぞ」
気が付かなくて、悪い。
俯いたままシロウが呟くと、シロウの頭にガサリと紙袋が触れる。
いぶかしげな顔をしてシロウが顔を上げると、金森は紙袋を差し出してくる。
「これ、あげる」
紙袋は、金森らしいかわいらしい図柄の高級そうなもの。
中にはいつかイズミと遊んだ携帯ゲーム機と沢山のソフトが入っていた。
「……はぁ?」
意図が分からず困惑するシロウ。
「貰う理由がねぇんだけど」
ポリポリと頭を掻くシロウに金森は再度袋を差し出す。
「あるよ」
――いつか、いずに渡してと言われたゲーム機を本当は渡せていないから。
――壊れてしまったゲーム機は、本当はまだ私が持っているから。
そんな言葉を飲み込んだまま、いつも通り金森すずは微笑んでいる。
「私、中学校はアメリカの学校に行く事にしたの。だから、あげるね」
繋がっていない『だから』だったが、シロウは手を伸ばして袋を受け取る。
「そっか。じゃあ、預かっとく」
多分、あの時の自分と同じ気持ちだと思ったから。
普通であれば子供は学校に通っている筈の平日午前。
シロウと金森は玄関先で少しだけ言葉を交わした。
アメリカの学校は日本と学期が違い九月から始まる事。本当は父だけが行くはずだったのだが、いい機会なので全員で行く事になった事。
イズミには秘密な事。
「ちゃんと帰ってくるから。強くなって」
イズミがいなくなったからイジメられて、転校したと思われないように。
いつも笑顔の金森すずは、その時だけは笑顔を浮かべずに真面目な顔でそう言った。
「あっそ。じゃあ俺も」
ニヤリと笑いシロウも応える。
紙袋を受け取り、そのまま手を差し出しシロウは金森と握手をする。
そして、金森すずはアメリカへと旅立った。
3年前、夏の始まり――。




