お飾りの妻から生まれた、飾りにもならない私の話
私の母は『お飾りの妻』でした。
母と父は政略結婚でした。言葉だけ聞けば貴族の結婚として何もおかしなところはないでしょう。けれど彼らに限って言えば、それには特別な意味がありました。
元々母には、父とは別の婚約者がおりました。この関係は領地の近さから結ばれたもので、貴族同士の婚約としてさほど珍しいものではありません。母と婚約者との関係は特筆してよくも悪くもなく……物語のような情熱はないにしろ、婚約者同士としてはごく一般的な関係を育んでいたようです。
けれどその婚約者が、とある時期から王女殿下のお気に入りとなってしまいました。王女殿下は陛下の愛妾がお産みになった王家の長子で、陛下にもたいそう可愛がられ自由奔放にお育ちで、常々周囲のものを困らせていたといいます。
母と同じく穏健派で王女殿下の近衛騎士を勤める彼には殿下のご要望を拒むすべもなく、周囲もどうせひと時のことと大目に見ておりましたけれど、予想に反して王女殿下の執着は止みません。やがて彼女の婚約者選びが本格化する頃から雲行きは更に怪しくなり、遂には母の婚約者を自らの伴侶にと望まれるようになりました。
もちろん彼には幼い頃から定められた婚約者と既に婚姻も間近であることや家格の差など――彼も母も伯爵家の人間でしたが、王位継承権もあり王配ともなり得る王女殿下の夫には他国の王族や高位貴族を想定しており、彼では聊か出自が不足しておりました――を持ち出していかに周囲が諌めようとも、王女殿下は聞く耳を持ちません。何せ今までご自分の意に染まぬことなど、ひとつも成しては来なかったのです。
しまいには臍を曲げた王女殿下が、彼と結婚できないのであればと食事も摂らず、公務も行わず、部屋に引き籠ってしまわれました。そのご様子に王弟殿下などはたいそうご立腹され、いっそ王籍を離脱させよと申されたそうですが、結局は折れた陛下に周囲が巻き込まれる形で母と婚約者との婚約は速やかに破棄され、彼はとある高位貴族の養子となって殿下と結ばれることとなりました。
それだけでしたらただの婚約破棄。もちろん適齢期の令嬢にとっては十分な醜聞ではございますが、事情が事情ですから母の生家もまた新たな嫁ぎ先を探せばよいと鷹揚に構えておりましたし、元婚約者のご実家ですら母のために心を砕いてくださろうとしておりました。
そも、母は切れ長でやや吊り上がった目元はしておりましたが、涼しげな青い瞳にきゅっと引き締まった薄い唇、色素が薄く金よりもやや銀色がかって見える髪は自ら輝くようで、少しばかり冷たい印象が勝るものの美しい容貌ではありましたので、王家の横やりによる婚約破棄など瑕疵にもならず引く手は数多とあるはずでした。
けれどもその矢先の夜会で、またも王女殿下の邪魔だてが入ったのです。
きっかけは数日前の茶会でした。王家の瑕疵により婚約破棄となったことへの、形ばかりの謝罪の茶会であったといいます。
とはいえ、王女殿下にはもとより謝罪の心などございません。ご自分が愛した男と結ばれることの何が悪いかとそう思っておりましたから、王弟殿下のご下命で謝罪の場を強要されても反発心しかなく、その怒りの矛先は自らが婚約者を奪った相手、つまりは謝罪相手の母へと向かっておりました。
そのうえ母は少しばかり感情の起伏に乏しい性質で、表情も滅多に動くことが無かったものですから、その見た目もあり周囲には酷薄な性格であると誤解を招く事も多かったようです。
はたして王女殿下の茶会でも、母のその性格が災いしました。
「わたくしのせいでごめんなさいね。でも仕方ないじゃない? わたくし、彼を愛してしまったのだもの。あなたと愛のない結婚を結ぶより、わたくしに愛し愛される結婚の方が良いと思うの。あなたもそう思うでしょう?」
「……王女殿下の仰せの通りかと」
謝罪とは名ばかりに毒を撒き散らす王女殿下に対し、母は表情を変えることなく、ただ粛々と静かに頷きを返します。
その様子に王女殿下は更に怒りを募らせながら、婚約者が庭園でわたくしのために花を摘んでくれただの、池の中に飛ばされたリボンを危険を冒して取りに行ってくれただの、婚約に際してわたくしの瞳の色と同じ石の指輪を贈ってくれただのと、いかに自身が愛されているかを熱弁されました。
けれどそのどれに対しても、「それは素晴らしいことです」と平坦に返す母にふるふると拳を震わせつつも、お目付け役である王弟殿下の侍従の手前一応は我慢をしていたようなのです。
「わたくしが謝っているのよ? 何か言ったらどうなの?」
「謹んで殿下の謝罪を受けいれます」
けれど仮にも一国の王女殿下に対し、単なる伯爵令嬢でしかない母に一体何ができたというのでしょう。ただ粛々と頭を下げる母を残し、王女殿下はフンと席を立ってお行きになりました。
そして開かれた王女殿下の婚約披露の夜会にて、母の運命は決定付けられたのです。
「あなた、ご結婚間近だったのですって? その年で婚約者がいなくなってしまったのではかわいそうでしょう? だからわたくしがあなたに相応しい相手を用意してあげたわ」
婚約者の腕にしなだれかかりながら、にんまりと微笑む王女殿下は母に無理やりと新たな婚約者を宛てがわれました。
それが、私の父でございます。
当時、父には結婚の口約束をしていた子爵令嬢がおりました。そのため父はこの結婚に強く反発したそうです。母の実家もまた、「王女殿下の口利きなど恐れ多い」と固辞の構えを見せつつも父自体にかなりの難色を示しましたけれど、王女殿下ひいては陛下の強いご意向に逆らうことはできません。
そうして決まった政略結婚でありましたけれど、それは予想通り上手くはゆかぬ旅路でした。
王家の肝煎りで結ばれた婚姻ではありましたが、驚いたことに父は恋人と切れることなく、また社交の場でもその関係を隠すことがありませんでした。それでいて父は母に夜会への参加を強要しました。美しい母をまるで勲章のように見せびらかしつつ、己と愛人の姿を見せつけて母の顔が苦痛に歪むのを楽しみたかったのでしょう。母の性格から、その目論見がどれほど成功したのかは怪しいものですが。
夜会に参加する王女殿下も、母が一人壁の花になるのを見かけるたびにこれ見よがしに嘲笑います。
「せっかくわたくしが口を利いてあげたのにこんな風になるなんて、あなたの可愛げがないからいけないのではないかしら?」
見るものが見れば醜悪なその姿に、そもこれを招くための縁談だろうと良識あるものは皆眉を顰めたと言いますが、王女殿下に阿るものは母を「お飾りの妻」だと揶揄します。
そんな流れを止めようにも後ろには陛下がついておられる王女殿下のご威光はますます強く、その影響力は絶大で逆らえるものなど誰もおりません。
更には元々王女殿下に厳しく当たられていた王弟殿下は魔獣も多い辺境伯の位を賜り王都を追われ、正妃の子である幼い王子殿下でさえつい先ごろ留学の名目で隣国へと旅立たれ、王宮は王女殿下とその取り巻きの猛威を揮うところとなりました。
かように王女殿下の権威を笠に着て好き放題しておりました父ですが、やがて母が身ごもる頃には母への興味も薄れたのでしょう。はたまた、何をしても反応の薄い母の態度に心が折れたのか、愛人の嫉妬を買ったのかもしれません。しまいには母の住まう本邸にも寄り付かなくなり、子爵令嬢を囲い込んだ別邸に住まいを移してしまいました。
母も母で、私が生まれることを理由に王女殿下が権勢を振るう社交界から身を引いたのでございます。
こうして母は静かな暮らしを手に入れました。
けれども、たとえ社交に出ることがないとしてとも、当主夫人として家政を切り盛りすることは正妻である母の仕事でした。
当主夫人の仕事はただ単に伯爵家を維持し、やりくりするだけではありません。父の愛人のために予算を割り当てるのも、そこを超えた支払いを手当するのも、時に愛人主催の茶会や伯爵家の夜会を取り仕切るのも、やはり母の仕事でした。
そこに参加しなくとも、です。
「お飾りとはいえ正妻の地位をあげたのだから、そのくらいは当然でしょう?」
というのが愛人の言でした。
「あたくしは旦那様に愛されるのが仕事なの」
とも仰っていましたので、愛人のお仕事とは気楽なものだとひっそり思っておりました。
更には本来父がやるべき領地経営の仕事もまた、母の仕事となりました。
「社交もろくに出来ぬお飾りなのだからそのくらい役に立て」
当主の書斎からそんな怒号が何度か聞こえておりましたのは、きっと父の言葉なのでしょう。
書斎で遅くまで領地の書類を揃え、家令に相談し時には領地の代表者や領内の商会長とも面談を重ねながら領地運営を決裁する母に、「お父様はお仕事を手伝われないのですか?」などと不満を投げかけたことがございます。そんなときでも母は表情を変えず、いいえ少しだけ困ったように眉尻を下げて静かにほほ笑んでおりました。
「お父様は王宮でのお仕事がお忙しいそうよ。それに何もしなければ困ってしまうのは領民でしょう? 彼らを路頭に迷わせるわけにはいきません。それに、この仕事もやってみると案外楽しいものですよ」
そんな風にただただ粛々と日々を過ごす母を手伝うのが、いつしか私の日課にもなりました。二人で執務室に籠り、さほど会話もなく書類を捌く。まるで普通の親子らしくはないかもしれません。けれどもその時間が、私には至極幸せでした。
社交をしない母のもとに訪れるものは限られています。王女殿下の権勢の世に、その不興を買ったお飾りの妻のもとになど、わざわざ寄り付く人間もおりません。
母方の祖父、母の友人で私の家庭教師でもあるハドソン夫人、祖父の代わりに屋敷へ足りないものを届けてくれる商会の親子。それに本邸に仕える家令と家政婦長、母の侍女兼私の乳母とその娘のアンネリッタ。
それだけが、幼い私のすべてでした。
慎ましいけれど穏やかで、慈愛に満ちた日々でした。
そんな日々に変化が訪れたのは、私が十二のときです。
その夏、母が流行り病で亡くなりました。
葬儀のため本邸にやってきた父は出迎える私を見るなり、「母親に似て可愛げがない」と宣いました。母が亡くなっても涙せず、ただ粛々とふるまう姿がお気に召さなかったようです。
喪が明けるとすぐに父は愛人と再婚し、その子供と共に本邸に移ってまいりました。私には異母妹ができ、父の愛人は継母になりました。
父たちの引越しに伴い、空き部屋だった当主の部屋は父の部屋に、母のいた当主夫人の部屋は継母の部屋に、私の部屋は異母妹の部屋になりました。私には二階の端の、私室としては一番手狭な部屋が宛てがわれました。
屋敷の中は新しい女主人の趣味に作り変えられ、階段にかかる歴代当主の肖像画の中には私のいない家族の肖像が加わりました。そこにあった母と見上げた風景画も、共に語ったガゼボの籐ソファも庭の花を生けた玄関ホールの白磁も片付けられ、趣味の悪い壁紙とけばけばしい耳付きの壺に置き換わり、屋敷は一変いたしました。
使用人も入れ替わり、出入りの商会すら代わってしまい、屋敷は見慣れぬ顔を向けます。
母と二人、最低限の使用人に囲まれた静かな暮らしは遠ざかり、そこにあった甘やかな思い出もまた母と一緒に旅立ってしまったのでしょう。温かな手に撫でられる小さな幸せも、幼い頃の約束も、もうなにもかも、望んでも二度と手の届かぬものになりました。
本邸に住まいを移してもまだ、父は変わらず領地の仕事はせず、継母もまた当主夫人の仕事をしませんでした。
父と継母は私に、母の仕事をやらせました。
「親の仕事は子が継ぐものだ」
と、そう言うのです。
なるほど確かに、母の侍女で私の乳母の娘でもあるアンネリッタはその母親と同じく今では私の侍女をしてくれておりますし、以前祖父が我が家に送ってくれていた商会の息子も、大きくなったら彼の父親と同じ仕事に就くのだといっておりました。それならば母の子供である私もまた母の仕事を継ぐことは、理にかなったことでありましょう。
そうして母の担っていた当主夫人の仕事は、私の仕事になりました。父に代わって当主の仕事をするのも同じです。
母と同じ仕事をするのですから、当然社交は含まれません。異母妹が茶会を開いても、継母がサロンや夜会を開いても、私が参加することはありません。同年代の子供たち相手の社交デビューもしていないので、私宛に茶会の招待状が届くこともありません。
元々友人もいない私です。そうなれば、会う人間といえば債務の取り立てにくる商会の下働きか、領地の書類を届けてくれる配達人だけとなりました。
そうしていれば自然、着飾ることもなくなります。ドレスは暗緑色や濃紺、黒などインクが跳ねても目立たぬ地味な色合いのもの、髪も書類仕事の邪魔にならぬよう簡素にまとめるだけ。まるで修道女か未亡人のような装いに、父は顔を顰め、継母と異母妹は嘲りの表情を浮かべます。
それだけではありません。私は、一時は社交界の氷花とも呼ばれた美しい母の色合いを少しも引くことがなく、地味な黒髪に焦げ茶の瞳という父方の色合いばかり継いでしまいました。
だからでしょうか。父は私に母の容貌がまるで受け継がれていないことを憎み、継母は私に父の色合いが濃いことを憎みます。ゆえに彼らは私を視界に入れるのも嫌がります。家族の食卓にも呼ばれることはありません。私は、家族の中では存在しないものなのです。
「お前は飾りにもならん娘だな」
父曰く、母の「可愛げのない」ところばかりを受け継いだ私では、誰かの目を楽しませることもできぬそう。事実、継母や異母妹の茶会の給仕として呼び出されれば、その亡霊のような姿に皆の笑いものになります。
確かに、「飾る」ということは何か美しいものを見て目を楽しませるためにする行為。私のように見目も悪く、可愛げがないものは「飾る」こともできません。そんな娘の役割は、きっとせいぜいが仕事で役に立つか、皆の笑いものになるかだけなのでしょう。
私は当主とその夫人に代わって、彼らの仕事を代行する給金を払わなくてよい侍従のようなもの。
けれど衣食住が保証され、仕事があるだけでもありがたいこと。見目も悪く、飾りにもならぬ私にできることはこれだけしかないのですから、仕方がありません。私はただ母のように、私にできることを粛々と進めてゆくしかありません。それ以外の生き方など私は知らないのです。
異母妹のデビュタントの年は、いつもと少し違いました。
それまで隣国にいた王子殿下がお戻りになり、大夜会が開かれることとなったのです。そのためにデビュタントの年をずらす貴族家も多くありました。妹もデビュタントを一年早め、他家に劣らぬようにと念入りに準備を重ねました。なぜなら、幼い頃よりずっと隣国におられた王子殿下には未だ婚約者もおらず、しかもこれが本国での初の夜会参加であらせられたからです。年頃の娘を持つ親たちが、王子殿下の伴侶の座を狙うのも無理はありません。
王子殿下が戻られたことで、王宮は俄かに賑やかとなりました。
若く才気煥発な王子殿下と陛下の寵愛も厚く社交界を取り仕切る王女殿下。王位の継承はどちらになるか、どの派閥に属するのが有利であるか。華やかさの裏で、慎重な駆け引きは続けられておりました。
伯爵家にも連日のように異母妹と継母のために様々な商会が呼ばれます。普段は出入りのない商会や、時には王都の有名サロンに赴きここぞとばかりに寄せ集めたあらゆる贅を凝らした装いは、我が家のような弱小の伯爵家にはややも過ぎるものではございましたが、少しでも王子殿下の目に留まればとどの貴族家も必死でしたのでしょう。そこに付け入る商会も多く、王都の経済は大いに賑わったようでございます。
けれども当然に、その賑わいは私の元には訪れません。いいえ、正確には私の元にも商会の人間は訪れます。但しそれは支払いの取り立てのため。美しい装いのすべては異母妹や継母の元へ届けられ、私には仕立ての注文書と請求書だけが舞い込むのです。
そこに夜会の招待状はありません。当然でしょう。妹よりの三つ年上の私は、まだデビュタントすら迎えてはいないのですから。
それでもそんな請求書の中に、いつか祖父が送ってくれた、そして父の再婚で疎遠になってしまったあの商会の名前もないものかと探しましたけれど、見つけることはできませんでした。
当時、我が家に出入りしていた商会はどこも随分失礼な形で契約を切られておりましたから、当然にあの商会長の怒りも買ったのかもしれません。
日用品だけでなく趣味のよいドレスや小物まで揃えてくれたあの商会には年の近い男の子がいて、よく父親と共に屋敷へ品物を届けてくれました。母が品物を検め支払いを含めた商会長の対応をする間、私は庭園でその男の子と遊んだりお茶を飲んだりしたものです。
「大きくなったら父様のようになりたい」
庭園のガゼボで籐のソファに並んで座り幼い口約束などを交わしながら、花を弄って屈託なく笑っていたあの子は、今頃は私のように父親の仕事を継いだのかしら。
そんな風に懐かしむのも、私には過ぎた贅沢かもしれません。
金庫から金貨を出して家令に指示を与える間、ひとときの懐かしさにじわりと沁みる胸の痛みは、手元から離れた金貨の重みと共にそっとどこかへ消えてゆきました。
同じ頃、私にも一つの変化がありました。
幼い頃から共に過ごしたアンネリッタが、この家を離れたのです。
その数年前にアンネリッタは結婚しておりました。大きな商会の、領内の支店に勤めておられたご夫君が、王都の店に栄転となったのです。
これは素晴らしいこと。
我がことのように喜ぶ私に、しかしアンネリッタは苦い顔です。どうしても私の側を離れたくないというのです。
「お嬢様一人をこの屋敷に残してはおけません」
アンネリッタの悲痛な叫びに私の胸は熱くなりましたけれど、私一人のためにアンネリッタの家族を不幸にするわけにはいきません。アンネリッタのお腹には、新しい命が宿っていたのです。
同い年なのにまるで姉のようなあの子をどうにか宥めすかし、お腹の大きくなる前にご夫君と共に王都に向かわせることができました。
屋敷で過ごす最後の夜、私たちは幼い頃のように同じベッドで一緒に眠りました。乳兄弟であった私たちは、幼い頃はこうやって互いの母の目を盗んでは一緒の布団で眠ったりしたものです。もちろん、翌朝きっちりと見つかって、乳母には叱られ、母には「仲がいいこと」と楽しそうにほほ笑まれましたけれど。
十数年ぶりに共にころりと転がるベッドは、あの頃と違って手狭です。けれど互いに寄り添えば、心がほかほかと温まります。母になるからでしょうか。くっついたアンネリッタはどこも柔らかで、とてもいい匂いがしました。
「いつかお嬢様のお子様が生まれたら、私が乳母になりますからね」
「ええ、わかったわ、絶対よ?」
手を握り合い、おでこをくっつけてくすくすと笑います。
その夜は一晩中、二人であれこれと話しました。
その殆どが夢想でしたけれど、久しぶりに心が満ちる、とても幸せな夜でした。
異母妹の贅を尽くしたデビュタントは、王子殿下の目には留まらなかったようですが、幾つかの縁談を呼び込んだようです。中には我が家より少しばかり高い家格の家や大きな商会の子息からのものもあったようですが、それでも王子殿下のことが諦められなかったのか、それとももっと良い嫁ぎ先を探したかったのか。
継母は異母妹を連れ、それまでよりもより家格の高い貴族家の茶会や夜会の招待状をもぎ取ってまいりました。もちろん、そういった場に出るには当然それなりの装いが必要です。そして身の程を越えれば、やがてその身を滅ぼします。
我が家はゆっくりと傾いてゆきました。
浪費ばかりではありません。どういうわけか領地から出入りの商会が離れ、その取引が減少したのです。
母から仕事を預かってもう五年以上、漸く仕事にも慣れたものかと思っておりましたけれど、やはり私の仕事の仕方が悪かったのでしょうか。
異母妹のデビュタントの翌年、それまで未定であった王の後継が王子殿下と正式に決まる頃には、どうしてか我が領地からは潮が引くように取引先が姿を消しました。
領地では魔石の産出が主な事業でございましたので、幾ら採掘しても流通先がなければお金にはなりません。領民がすぐにすぐ被害を被るわけではございませんが、それでも領地としては痛手です。
新たな取引先を探さねばならぬのですが、それもまた難航しました。
そもそも私は社交をしておりません。領地経営を任される身として新たな商会との繋がりを持ちたくとも、屋敷に籠り人脈のない私では商会の人間と面会をする術もありません。その相談をしたくとも、父には疎まれておりますので、その会話もままなりません。
仕方なし、領民の飢えることがないように、伯爵家が傾くことのないように。切り詰められるところを切り詰めて時に財産を手放しておりましても、散財が過ぎればそれも追いつきません。そのことで継母や異母妹を諫めても一向に話にはならず、それどころか屋敷のものを勝手に売りさばいていると、ついに私は警邏に突き出されてしまいました。
確かに屋敷のものに手を付けました。けれどもそれは殆どが母のものです。母がこの屋敷に来てから揃えた、或いは今は亡き祖父から贈られたもの。一部、屋敷の奥に昔からあった家具や絵画も手放しましたが、その殆どは価値のないものでした。そして最後に残った母の宝飾品を換金しようとしたのです。それだって、継母たちの散財の前では焼け石に水でしょうけれど。
領地の警邏隊から身柄は速やかに王都の騎士団に移されて、形だけ騎士様の尋問を受けます。話を聞いてくださった騎士様は私を見て眉を顰められました。伯爵家の被害を訴える異母妹付きのメイドの方が余程艶やかで美しいものですから、私が貴族であるということをお疑いなのかもしれません。
入れられた牢の同室には、情夫を刺したとかで収監された女性がおりました。彼女は私を一瞥すると、据付のベッドへごろりと横になりました。その身に纏うのは流行りからは少し外れた、けれどそれなりに高価なドレス。肩口と胸元が大きく開き裾は足元が晒せるほどの短さで、彼女の職業を物語ります。
つまりここは平民の入る牢なのです。粗末なベッドに座ってみれば、壁に掛けられた鏡からもう一人の私が見返してきます。そこにはもう何年も誂えることのなかった、袖口の擦り切れ生地も色褪せて茶色く変色したドレスに、飾りのない、元は緑の絵の具が剥げた木製の髪留めで緩く髪をまとめ上げた痩せこけた亡霊のような女が佇んでおりました。母の生前、庭園のガゼボで幼い友人とはしゃいでいた、あの頃の面影はありません。
なるほどこれでは、貴族令嬢などと信じてもらえなくて当然です。
けれど一つの幸いは、ここにアンネリッタがいないこと。こんな私の姿を見たらどれほど嘆くかわかりません。私の大切な友人を悲しませるわけにはゆきません。辛いのは私一人で充分です。
胸に馴染んだひきつれを呑み込んで、小さく息を吐きだします。
握りしめた指先に残った滲んだインクの染みをそっと擦ってみましたけれど、乾いたそれは薄くもならず、ただ指先がひりついただけでした。
結局私はそこに五日留め置かれ、外に出されました。三日目に迎えが来て出て行った女性は、誰かが保釈金を払って私を買えばここから出て行けるだろうとおっしゃっていましたので、きっとそういうことなのでしょう。
最初に尋問を受けた簡素な部屋で、見知らぬ方からここを出て行くための書類だと、幾つかの紙にサインをさせられました。その時に初めて私は伯爵家から除籍されていたことを知りました。なるほど、だから平民の牢に入っていたというわけです。
家名のない私の名前はどこか空虚で、けれどあの家を離れた証だと思えば、それはそれでどこか誇らしいような気持にもなりました。
私が連れてこられたのは、王都郊外の小さな屋敷でした。私を買ってくださった旦那様はとある商会を営む方で、ここはその方の別邸だというのです。何をすればよいのかと問う私に、屋敷に仕えるものは何もする必要はないといい、私に食事を与え、着飾らせ香油で肌を磨き上げました。
明るいサロンでお茶をいただきながら、なるほど、と私は了解しました。
私は買われたのです。下働きでないのなら、役割など決まっています。
そう言えば同室の彼女はあけすけにいろんな話をしておりましたが、疲れ切っていた私はその殆どを聞き逃してしまいました。思えば、もう少しきちんと聞いておけばよかった。こんなことになるとは思いませんし、家庭教師のハドソン夫人は父の再婚と同時に解雇されてしまいましたから、未成年で婚約者もいない私は当然閨での作法などまだ習っておりません。
どうすればいいものかと途方に暮れつつ、もう身を任すしかないのだと半ば諦めておりましたけれど、待てど暮らせどそのお役目は私のもとに訪れませんでした。
こちらに来てから三月の間、日々何もせず、優雅にお茶を楽しみ、本を読み、刺繍を刺す。まるで貴族令嬢のような生活に、指に残ったインクの染みはきれいに消えてなくなり、ペンだこはすっかりと柔らかくなり、パサついた髪も艶が増してまいりました。
余程裕福な商会なのでしょうか。いただく食事も豪奢なもので、すっかりと肉付きすらよくなった気がします。けれどそれでも一向に、旦那様にお会いすることはできません。
「旦那様はいつこちらにいらっしゃるのでしょうか」
何度か問いかける私に、屋敷の侍従は決まって「旦那様はお忙しい方ですから」と答えます。
「多分旦那様は、お嬢様がいい具合にお育ちになるのを待っておられるのですよ。お嬢様はまだ細すぎますもん。きっと自分で育てた女を食べるおつもりなんじゃありません?」
私の世話をする頬にそばかすの浮いた若いメイドなどはカラカラとあけすけに笑って、風呂の中で石鹸を泡立てて無遠慮に身体を擦り上げます。そんな彼女に眉を顰めつつ、けれどこの身は買われたのです。私は何もかも、旦那様のご意向に従うしかないのです。
無遠慮に擦られる腕はひりひりといたしますが、不快ではありません。
「そんな趣味の殿方もおられるのかしら?」
と、まだあばらの目立つ胸元に目をやって小さくため息を吐くのでした。
そうしているうちに次は家庭教師がやってきて、楽器を仕込まれ、ダンスの特訓をし、貴族家や周辺諸国についての学びを深めます。
これらはごく一般的な貴族令嬢の知識にほかなりません。私も、これの初歩は済ませています。これのなにが旦那様を楽しませる手管になるというのでしょう。
けれどももしかしたら旦那様は私を平民だと思っていらっしゃるのかも。だって、私はあの時、確かに平民に身を落とされたのです。それに私は見目が美しくありませんので、「お飾り」にはなれません。お金で買われたのですから、愛される愛人にもなれません。旦那様のご意向で下働きすらできないのですから、身体や手腕で楽しませるしかないのです。
そういえば、王都に侍る高級な娼婦たちは高位貴族にも劣らぬ才を身に付けておられるとか。旦那様も、そんな女をお望みなのかもしれません。
私はまた言われるがまま自分を磨き上げました。
そうやって旦那様のお屋敷に留め置かれてからそろそろ一年になろうという頃、新しい国王陛下が即位されました。
三年前にご帰国された王子殿下が陛下に代わり、ついに王位に立たれたのです。けれどそれは決して平和な即位ではございませんでした。
前国王陛下の寵愛をよいことに王宮で権威を揮っていた王女殿下の元には、彼女に阿って権威のおこぼれにあずかろうと多くのものが群がっておりました。国王陛下は王女殿下の言いなりで、王を諫める『不穏分子』は悉く排斥されて、王と王女の周りには甘言を用いるものしかおりません。
そんな世に心を痛める者たちが辛抱強く暗躍し、遂に隣国に逃れていた王子殿下を呼び戻すことに成功したのが三年前。そこから地道に証拠を積み重ね、漸く王女殿下の失脚と、その暴虐を許した責を取っての父王陛下の退位を勝ち取ったのでございました。
そんな王宮のごたごたは、私には遠い世界のお話でした。
伯爵家にいた頃と違い、ここには新聞も届きません。ここへ連れてこられてから約一年もの間、屋敷から出ることもできず世間を知らずに過ごしておりましたので、そんな治世の交代などまるで与り知ることはありません。
新しい国王陛下が即位されたと聞いても、「あらまあ」としか答えることはできません。
貴族令嬢であった頃ですら夜会にも、茶会にも出たことのない私では、何もかもがおとぎ話のようでした。
けれどそんな私の元に、あの日牢へ迎えにきてくださった方がやってきて、王宮の即位式とその夜会に参加せよと王家の封蝋が捺された招待状を差し出しました。
「幾ら旦那様のご下命でも平民の私では、王宮に参上することはできません」
まして私は金で買われた女です。なにを馬鹿なと驚いて固辞しましたら、彼は机の上に幾つかの書類を広げて見せました。それはあの日、騎士団の尋問室で記入した幾つかの書類にほかなりません。
あの時は随分と疲れ切っていた挙句、ひどく急かされておりましたし、暗い牢から明るい場所に出されたばかりで目もよく利いておりませんでしたから、まるで確かめもせずに言われるがままサインをした覚えがございます。なにか書いてはならぬものに、署名をしてしまいましたのでしょうか。
「既に貴女は子爵家と養子縁組を整えておりますので、平民ではございません。加えてこちらの伯爵家との婚約も調っておりますので、王宮の夜会はその披露目も兼ねております」
見れば確かにそれは養子縁組の届け出で、私の名前の上にはあの時なかった子爵家当主の署名が入っており、王家の承認印が捺されております。その家名に驚く間もなく、次いで重ねられた書類は、その子爵家ととある伯爵家の婚約誓約書。確かここの伯爵家は、母方の実家と同じく代々騎士を輩出する武門の家柄であったと、つい先日家庭教師に習ったような気がします。そんな名門のご一族に、どうして私が嫁ぐのでしょう。私を買ってくれた商会長様の政略の駒となりうる縁でございましょうか。
恐る恐るその疑問をぶつければ、彼は涼やかな目元を緩ませることもなく淡々とお答えになります。
「商会の経営は伯爵家の一事業。この別邸の所有者たるご婚約者殿は、現在は王宮騎士団にお勤めで伯爵家の次期当主であらせられます」
あまりの事実に、私は薄らと気が遠くなりかけました。けれどあれよという間に、かの人が連れてきた商会の人間に別室で丸裸にされ、即位式と夜会用のドレスの採寸が進められます。初めてのことに目を回す私に代わり、あのそばかすのメイドはきゃあきゃあとはしゃいで、あっちの布やらこっちの宝石やらを宛てがってあれこれと取り仕切ってしまいました。
そうして出来上がった身に余る装いで身を包み、婚約者の色だという金の細工にエメラルド色の羽飾りを髪に留めた女が震えながら鏡の中から見返してきます。
これだけでも今まで袖を通したこともない豪奢な装いだというのに、さらにこの後の夜会には緑を基調としたドレスが控えているなどと、考えるだけでも恐ろしい。
けれどもそんな私を、この日ばかりはドレスの着付けにと本邸から派遣されたメイド達が口々と褒めそやすのがまた恐れ多く、遂に私は俯いてしまいました。
「もう、お嬢様はどうしてそうなんです? あたしが一年もかけて磨き上げたんです。もっと自信もってくださいませ!」
そばかすのメイドが遠慮なくむくれますので、私は小さく苦笑を返しました。
「ありがとう。貴女の言葉は嬉しいけれど、私の見目が悪いことは、自分が一番よくわかっています」
そうすればメイドはむっつりと首を傾げ、「どうしてそんなことをおっしゃるのか分かりませんけれど」と前置きして腕を組みました。
「お嬢様が誰にどう言われてきたかは知りませんけど、今のお嬢様は十分お美しいです。この白いお肌に絹糸のような黒髪はとても神秘的です。今日はあたしが、そんなお嬢様が一番映える装いをご用意したつもりです。もしご自分に自信が持てないならそれでもいいです。でもこのお肌も、御髪も、お育てしたのはあたしです。夜会でお嬢様が小さくなってしまったら、せっかくのあたしの腕は皆さまに披露できません。もしかしたら、主にこんなすごい装いをさせる凄腕のメイドがいるなんて! って、王宮にスカウトされるかもしれないんです。ですからお嬢様はあたしのために堂々として、あたしを宣伝してくださいませ!」
どん、と無遠慮に背中を叩くので他のメイドたちが慌てますが、「あたしのために」という物言いが面白くて私はつい笑ってしまいました。
「ふふ、そうね。ならば今日はドナのために頑張るわ。それで誰かに褒められたら、『うちのメイドのドナが選んでくれたんです』ってきちんと宣伝しておくわね」
くつくつと笑う私に、そばかすの散った頬を赤らめてドナは大きく目を見開きます。
「お嬢様が笑ってる……?」
ぽかんと口を開けたその顔がまた可愛らしくて、珍しく私は涙を浮かべて笑ってしまい、ハッと我に返ったドナに「お泣きになったら、お化粧を直さなければならないではないですか!」と怒られてしまうのでした。
即位式に参列する私を迎えに来たのは子爵家の馬車でした。旦那様との婚姻前の私は一応子爵家の人間でありますから、まずは実家の子爵家のものと登城し即位式に参加します。そこで一通りの顔見世の挨拶を終え、夜会の前にドレスを着替え今度は旦那様のエスコートで会場に入る手筈となっております。
馬車が着き降り立ってきた人影を見て、私は胸を高鳴らせました。夫に付き添われ、ギリギリはしたなくはない程度の速足でこちらに向かってきたご夫人は、頭を下げる私の前に立つと私をきつく抱きしめてくださいました。私も思わずその背に腕を回します。
「お久しぶりですわ、ハドソン夫人。この度は私などを迎えてくださり、ありがとう存じます」
「ええ、久しぶりね。また会えて嬉しいわ。これからは母と思って甘えてちょうだい」
そこには母の友人で、私の家庭教師もしてくれたハドソン夫人がおりました。夫人のご夫君は侯爵家の次男で、ご実家がお持ちの子爵の位を継いでおります。その子爵家に私を迎え入れてくださったのです。
「本当はもっと早く手を打ちたかったのだけれど、我が家もなかなか動きづらくてね。遅くなってしまってすまないね」
肩に置かれた子爵様の大きな手に、幼い頃は優しく撫でられたことを思い出します。子爵様も夫人も、厳しさの内に優しさの勝る方でした。愛情表現の薄い母に代わって子供の頃はよく私を抱きしめてくれた温かな腕に涙が込み上げますが、また泣いてしまってはドナに怒られてしまいます。ですから私はお化粧も髪型も崩れないように細心の注意を払いつつ、もう一度ぎゅうと抱きついてから顔を上げました。
なにか誤解していることも多そうだからと、場所をサロンに移して、登城までの間に子爵夫妻は、母が亡くなってから今までのことをお話ししてくださいました。それは思ったよりも壮大で、私一人のためにそこまでしていただいてよいのかと申し訳なくなるようなものでした。
母が亡くなり、父が再婚した後もハドソン夫人や祖父は私に手紙や贈り物を幾度となく送ってくださったようでした。けれどその全ては私に届くことなく、父や継母によって処分されてしまいました。そのうえ父は王女殿下派閥なのに対し、祖父や子爵様方は王宮の膿を出そうと密かに画策する側におりましたので、そう言った政治的な駆け引きからも祖父たちはむやみに父に手を出すこともできず、手をこまねいていたといいます。
そのうちに父は私を屋敷に監禁するかのように囲い込んでしまいました。これは政治的意図などではなく、単純に父の祖父への嫌がらせでしたが、私を想う祖父には効果的でした。
祖父は最期まで私を気にかけつつ亡くなったそうです。
祖父が亡くなってしまえば、血縁もないハドソン夫人には社交をしない私に接触の機会はなく、どうにか私を助け出したくても打つ手がありません。夫人にとっては、私を救い出すのが早いか、王女派を一掃し王子殿下を新王として迎えるのが早いかと、じりじりと時を過ごす日々であったと言います。
やがて王子殿下がご帰国され、王女殿下の勢力は徐々に、徐々にと削られてゆきました。父の領地から潮が引くように取引先が消えていったのもそのせいです。
にも拘らず父たちが変わらず散財を続けているのも、そのために伯爵家が傾いてゆくのも、子爵様方の狙い通りでありました。私が領地を立て直すため、伯爵家を守るためと、母の財産に手を付けたのも想定内であったようです。そこをうまく誘導し、私を騎士団に捕らえさせることで彼らは私を父から引き離すことに成功しました。
そうして罪人として伯爵家から除籍させることで、文字通り伯爵家から私を取り戻すことができたのです。
旦那様が払ってくれたと思われた私の保釈金は、私が相続した祖父の資産から管財人が支払ってくれたそうです。その管財人というのは、私を牢まで迎えに来てくれた方でした。あの方は祖父の家に仕えるものだそうです。
だから私が、私を買ってくれた「旦那様」だと誤解していた婚約者様は、実は私を買ったわけではありません。
けれどこの屋敷を用意してくれたのも、暇を持て余す私に足りぬ教育を施してくれたのも、そしてこのドレスを贈ってくれたのも間違いなく「旦那様」であるのだそう。
「彼がきっと君の誤解を解かなかったのは、その方が気兼ねなくこの家で過ごすことができると判断したからだろうね」
子爵様は悪戯にほほ笑んで仰いますが、そんなに気遣ってくれる旦那様は一体どんな方なのでしょう。
「それはこの後お会いすればわかるかもしれないね」
そう仰る言葉に、私は震えながら静かに頷きました。
初めて入る王宮は、それはそれは煌びやかでございました。高い天井からはガラスで飾られたシャンデリアが下がり、回廊の二階に配された窓からは燦燦と午後の日射しが降り注ぎます。玉座まで延びた緋色の毛氈の上に跪いた新王陛下が神官長の掲げられた王冠を戴くお姿はとても荘厳で、お美しいものでございました。
けれども私は、その神々しいお姿にも上の空です。この広い回廊のどこかに旦那様がおられるかと思うと、どうしても落ち着いてはおられません。
そわそわと視線を動かす私に、隣のハドソン夫人は小さく脇腹を小突きます。
「そんな不作法を教えた覚えはございませんよ」
バツがわるく見上げた私に、夫人はとふっと目を細めると小声で諫めてくださいました。
王宮の庭園は、本日は夜会まで滞在する貴族たちに向け開放されております。まるで迷路のように配された小道を緑の生垣と美しい季節の花々が彩ります。けれどそれすらも、私の目には入りません。
「貴女も落ち着かぬようですから、先に会っておいでなさいな」
夕刻から開かれる夜会のため、本来ならば子爵家に用意された控室で準備をしなければなりませんが、旦那様を想ってそわそわと落ち着かぬ私を夫人は笑いながら送り出してくれました。
子爵様に伴われて向かった王宮の庭園の、少し奥まったガゼボへにその方はいらっしゃいました。
黒の騎士服を纏い、緩く流れる金の髪は木漏れ日にきらきらと輝いています。ふと、こちらを向いた緑の双眸は深い森のよう。はくりと息を呑む私の背を子爵様はそっと押されました。
一歩、二歩と踏み出してガゼボの上からまっすぐに差し伸べる手に指先を重ねます。旦那様は静かに私をエスコートし、いつかのように籐のソファに並んで腰を下ろしました。
そうしてゆるりと見つめ合い、まずはこれまでのお礼を述べます。それにしっかりと頷いた旦那様は、あの時と同じように私の前に膝を突くと、胸に挿した花を私に捧げます。
「遅くなりましたが、父と同じく騎士となり、あの商会も継ぎました。爵位を戴くまでにはまだまだかかりますけれど、あのときの約束を果たしていただけますか?」
ふんわりと細められた瞳は木漏れ日を受け、まるで新緑のように輝きます。そんなところまで、あのときの再現のよう。
私を待っていてくれた騎士様――それは、あの商会の男の子でした。
幼い頃、互いの親の仕事の終わるのを待つ間、私と彼は伯爵邸の庭園で遊び、ガゼボのソファで並んで座りいつまでも話し込んで、ときには共に居眠りなどもしたものです。
そんなソファで幼い彼は、最近見たばかりだという騎士とお姫様の活躍する冒険活劇を話してくれました。騎士に憧れていた彼は、そのお芝居の騎士様にすっかり夢中でございました。
「大きくなったら父様のようになりたい」
そう目を輝かせる彼に、商人は騎士様になれるのかしら? なんて思った私は、今から思えば随分失礼なものです。
お芝居の騎士様は、最後は悪い竜を倒し共に旅をしたお姫様と結ばれるのだとか。騎士に憧れる彼は劇を真似、きらきらと輝く笑顔で私に求婚してくれたのです。
「いつか父様のようになったら、僕とけっこんしてくれる?」
辿たどしく紡がれる言葉に目を丸くし首を傾げる私に、彼は頬を膨らませ「僕がけっこんしてくださいって言ったら、お姫様は『はい』って言うんだよ」と芝居と同じを求めますので、意味もわからず「はい!」と頷いたのは幼い子供ならではです。
あんな幼い約束を、彼も覚えて守ってくれていたなんて。
幾度となく心を慰め、胸をひりつかせたあの想い出がほろほろと熱く溶けてゆきます。
ああ、お化粧が崩れてしまっても、ドナは許してくれるでしょうか。
私は歪む頬に精一杯力を入れてほほ笑んで、父と継母を倒してくださった頼もしい騎士様を涙に潤む瞳で見上げます。
「はい」
物語と同じく跪く騎士様の指にそっと小指を絡めしっかりと頷けば、旦那様は立ち上がり幼子にするように脇腹を掴むと、私を高く抱き上げました。小さく悲鳴を上げる私を破顔した旦那様がくるくると回って振り回します。庭園を散策していたご婦人方が、何事かとぎょっとしたようにこちらを振り向きますが、旦那様は気にも留めません。お陰でドレスのリボンは乱れ、頭の羽飾りは少し傾いでしまって、私も旦那様も揃ってドナに叱られてしまいました。
その後の夜会で、昼間の庭園でのご婦人方の噂話を聞かれた新王陛下に散々に揶揄われ、それがご縁で旦那様は新王陛下のお側に仕えることとなり、私も未来の王妃殿下をお助けすることになるのですけれど、それはまた別のお話です。
ただ、あの時の王宮のガゼボは、想い合う相手と恋の実る場所だとまことしやかに噂され、さらには新王陛下まで隣国からいらした王妃殿下にあのガゼボで求婚なさったことで、その後随分と長い間、恋人たちの人気を博する場所となりました。
そのうえ乳母のアンネリッタに「囚われの姫と竜退治の騎士」の話を寝物語に聞かされて育った娘たちの手によって、あのガゼボに新たな伝説が付加されてしまうなど、一体誰が予想したでしょう。
あまりの恥ずかしさに気を失いかけた私に、さすがの旦那様ですら苦笑を浮かべます。
「でも本当の話だから仕方がないね」
深い森のような瞳を煌めかせあの時と同じように私を抱き上げる旦那様の肩を堪らず小突けば、すかさず部屋の隅に控えたドナが「せっかく整えたのです。髪もドレスも乱さないでくださいませ!」と叱り飛ばします。
恥ずかしさに悶える私を、屋敷の誰もが笑います。けれどそれはあの頃とは違う。胸が擽ったくなるような温かな笑みなのです。ふつふつと胸に湧き上がるなにかは、もうそこをひきつらせ痛みを加えることはありません。ただただ甘やかに、私を包み込むのです。
お飾りの妻から生まれた飾りにもならぬ私は、もうここにはおりません。
悪い竜に囚われたお姫様も。
これは、愛するものに囲まれて、ただ只管に彼らを愛しているだけの、平凡な女の話でございます。