第8話 ずうぅぅ……っと
アンナが察した通り、この呼び出しはイェルド様の髪をアンナの結界魔法で守るためのものだった。
期間は約一ヶ月。もしくはそれ以上。
その間に、神殿の全面的なバックアップを受けたエレオノーラ様が、髪の呪いを解くという。
そしてエドガー様や団長様、将軍閣下が各国と連携して、世界中に散った邪神教徒たちを捕縛する。
この場でアンナは、魔石で出来たイェルド様のイヤリングに結界魔法を付与することになった。
一瞬だけポーション輸送用の箱を被ったイェルド様を想像して笑ってしまったのは、アンナの付与魔法に世界の命運がかかっているという心底嫌な事実から逃避したかったからだ。
もしもアンナの付与魔法が失敗し、イェルド様の髪が誰かによって害されてしまったら……その瞬間世界は滅亡する。
「お願いします」
座ったままのイェルド様が、そっと髪の毛を右耳にかけた。
そしてたった数センチの距離で正面に座ったアンナに、すいっとその耳と首筋をさらした。濁りのない真っ白な魔石が耳に光り、その影がなめらかな肌に落ちる。
きっとこれまでのことで疲れているのだろう。やや伏せられた金色の長いまつ毛の下で、ロゼゴールドの瞳が潤んで翳っていた。
「……」
イェルド様のその儚げな様子に、アンナはなぜか背徳感を感じて鼻の付け根を押さえ、顔を天井に向けた。
大丈夫。アンナはイェルド様の髪を守るのだ。
そこにやましい気持ちなんかない。
お互い無言のまま左耳のイヤリングにも結界を付与し、続けて指輪などの装飾品にも魔法をかけていく。これらはもしもの時のための保険だそうだ。
「終わりました!」
やりきった解放感に詰めていた息を全部吐き出すと、国王陛下が真剣な顔をしてハサミを手に立ち上がった。
それを見て、アンナは息を吐ききった状態のまま全ての動きを止めた。肺は空っぽだ。多分ちょっとだけど心臓も止まっていたと思う。
「ふむ。触ることはできるな」
陛下がイェルド様の髪をひと房手に取り、皆が固唾を飲んで見守るなか、その髪の毛にハサミを入れた。
息苦しいのは肺に空気がないからなのか、取り返しのつかない惨劇が起こるかもしれないからか。
アンナは息を止めたままそれを見守り――そして、ガチッと音がしてハサミは毛の1センチ手前で止まった。
ああ良かったとほっと胸を撫で下ろそうとして、今度はエドガー様が聖剣を抜いた。と、思ったらすぐに鞘に収めた。
「へえすっげーなこの結界。俺の剣でも傷つかねえ」
聖剣を見せびらかしただけのようにみえたあの一瞬の間に、イェルド様の髪に攻撃したようだ。
イェルド様本人や戦闘経験者たちは「そーだねー」みたいに頷き合っているが、アンナを含めて非戦闘員は目を白黒させている。速すぎて全くわからなかった。さすが魔王にとどめを刺した戦士の剣技である。
「セーデン嬢」
「はっ、はい!」
イェルド様に手を握られて、おやめください今私の手は恐怖と緊張のせいでべちゃべちゃです。なんて思いながら返事をしたら、アンナの声は思いっきり裏返った。
「これから約一ヶ月、ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします」
「はいっ……はい? 一ヶ月、ですか?」
アクセサリーに結界を付与したら終わりではないのか?
それとも一ヶ月の間、毎日予備の魔石に付与をしろということなのだろうか。
「装飾品はあくまで保険ですわ。手を触れていればずっと結界を張り続けられるというのなら、手を繋いでずうぅぅ……っと一緒にいてくださった方が安全ですから」
エレオノーラ様が微笑んで、イェルド様が握ったアンナの右手の上からそっと手を添えてくる。
力など全く入っていない柔らかな接触だったけれど、「逃がさねえぞ」という高貴なる圧を感じた。