第26話 悩み
「それで、何を悩んでいたんですか?」
どうにかこうにか一人でクッキーを食べる権利をもぎ取ってほっとするアンナに、イェルド様は改めてそう訊ねた。
イェルド様のあーんの衝撃によって脳を揺らされたアンナは一瞬、はて? と首を傾げる。
自分は何を悩んでいたのだろうか……と真っ赤なハートのジャムに埋もれた記憶を掘り返した。
「あ! えっと、結婚式のことです」
「そちらでしたか。聖女認定についてかと思いました」
イェルド様の言葉に、んぐっとアンナは言葉とクッキーを喉に詰まらせた。
知らないうちに肩に力が入って、イェルド様の手も思いっきり握ってしまった。
「それもすごーく悩んではいますけれど……」
なんとかクッキーを飲み下し、唇を尖らせて言う。
しかし悩んだところでどうしようもない。
あの書類にずらっと並んだ名前を思えば、粛々と従うのが木っ端貴族の娘が生き残る術なのは一目瞭然である。
「司祭様の話をうかがっていたら、妹の結婚はいつになるのかしらって、やっぱりちょっと心配になったりして……」
妹のカロラの結婚と結婚式は、邪神教徒が神殿に放火したせいで当分先になりそうだ。
どうにかしろと王都の神殿に訴え出たところで、貴族だからといって優先されるものではない。
イェルド様や司祭様が言ったように、結婚よりも出生届や死亡届の確認作業の方が急務であることも当然である。
問題は、カロラのお腹にいるであろう新しい命のことである。
妊娠してどのくらい経ったのかは知らないけれど、両親が王都の神殿に訴え出てまで結婚と結婚式を急ぐのは、妹のお腹が目立たないうちに済ませたいからだろう。
他の国はどうかわからないけれど、この国では婚約届を出して婚約し、入籍し、結婚式を挙げ、子を授かるという流れが通常である。けれど王都では以前から入籍後、結婚式を挙げる前に命を授かる人たちが増えていた。
魔王の出現で出兵する人たちが、せめて自分が生きた証を新しい命として残したいと望むことを、神殿も世間も否とは言えなかったのだ。
魔法の発現率や戦闘能力など、それらの能力の高いものを積極的に取り込んできた歴史からして、平民よりも貴族の方が能力が高い。
公爵家であるイェルド様やエレオノーラ様を見てわかるように、高位貴族になるほど魔王討伐に適した能力を持っていた。
籍を入れ、命を育み、無事に戦いから帰ってきたら式を挙げようと約束して戦場へ行く。
刹那的だがその切ない願いと行動を蔑む人は、王都では少数派だった。
特に貴族たちには、跡継ぎという問題がある。
感情と理性のどちらもが、婚姻に関する伝統的な順番が違うことを些末なことだと納得し、理解を示した。
だが田舎に行けば行くほど人々は非常事態における臨機応変さよりも、順番と規則を重んじる。良くも悪くも頑固なのだ。
それが身内を守る場合もあるけれど、悲しいことに激しい拒絶と攻撃性を産むこともある。
アンナの実家があるセーデン男爵領を含めその周辺の貴族たちも、どちらかといえば頑固寄りの人たちばかりであった。
「つまり結婚式の時に妊娠……場合によってはすでに出産しているとわかれば、妹たちは祝福されないと思うのです」
婚約者の変更届は受理されたと司祭様は言っていたけれど、事情が事情だとも言っていた。
邪神教徒たちによって焼失してしまった神殿も多いと聞くから、その〝事情〟とやらを調べるための時間も足りないだろう。そのせいで司祭様は難しい顔をして「どうなることやら」と言ったに違いない。
そもそも書類の焼失という混乱に乗じて、よからぬことを企む者もいる。だから書類の精査はより厳しくなっているはずだ。
財産管理の観点では婚姻関係の書類も重要だけれど、戸籍がなければ財産も何もない。
それを考えると出生・死亡届の方が重要度が高いし、魔法を使えるおかげで出稼ぎ先で職を得ることができたアンナのように、魔法届の有無が明日の生活を左右する場合もある。
こうした事情を鑑みれば、確かに私事によって相手が変わっただけの結婚など緊急性は低い。どれだけ訴えても神殿関係者が重要視するはずがないのだ。当分先まで後回しにされることだろう。
そうすると、妹たちは結婚式どころか籍すら入れられない。となれば妹は未婚の母、お腹にいる子は婚外子となってしまう。
式に参列予定の人たちは妹たちが籍を入れられない事情が邪神教徒の非道な行いのせいだと理解しても、二人の結婚に納得はしないだろう。
入籍と結婚式を急ぐ理由が参列者たちの多くが思う順番を違えたお腹の子供のためとなれば、祝福もされないのではないか。
両親がアンナへの説明をすっ飛ばして婚約者の変更届を出したことに、アンナが理解はすれど納得はできないのと同じように。




