第24話 邪神教徒の活動
ベルガモットの香りが鼻腔をくすぐり、アンナのすくんでいた肩から力が少しだけ抜けた。
香りの出所は、紙面を前に震えるアンナを心配してくれたスサンナさんの淹れた紅茶である。
ゆるゆると湯気を上げて立ちのぼる、癒しの香りだ。
「ところでアンナ嬢の妹君は、結婚式どころか、結婚自体できないかもしれませんぞ」
アンナのサインが入った書類をいそいそとしまいながら、司祭様が言った。その言葉をイェルド様が真面目な顔で首肯している。
二人の言動に、家族への気がかりでアンナの眉根が寄る。
あれ以来家族からの連絡はないが、もしかして彼らに何かあったのだろうか。
〝田舎娘、まさかの聖女認定〟という、どこからどう処理したらいいのかわからない出来事をいったん頭の外に放り投げると、アンナの脳内は徐々に不安で塗りつぶされていく。
アンナの顔が曇ったのを見て、イェルド様が繋いだ手を優しくぽんぽんと叩いてくれた。
「いやいや、アンナ嬢の妹君たちが何かというわけではありませんぞ。世界全体で結婚式などやっとる場合ではないという話でしてな。というのも邪神教徒どもを追い詰めすぎたのか、最近奴らが地方の神殿に火をかける事件が頻発しておりまして。そのせいで保存してあった書類の焼失が多いのです」
神殿は出生・死亡届だけでなく、発現した魔法や婚約、結婚、離婚の届も管理していて、庶民も貴族もその身分に関係なく皆が神殿にそれらを書類として提出する。
これは我が国だけの規則ということではなく、全世界的な習わしでもある。
なかでも話題に上った結婚の場合、まず神殿に婚約届を提出する。
結婚はその婚約届と本人たちの名前が一致しているかを、届けを受けた神殿が確認してからでないと許されない。
婚約者を変更する際は、改めて婚約届を提出しなおす必要がある。
場合によっては理由を聞かれるし、それがあまりにも非道徳的なものであると受理されない。
もちろん婚約届と婚姻届けに記載された名前が一致しない場合は結婚できない。
それどころか下手をすると詐欺などの犯罪の疑いをかけられ、そのまま憲兵にしょっ引かれる事態に陥ることもある。
「特に出生届の焼失は大問題です。戸籍がなくなりますからな……」
戸籍が無いのは人権が無いのと一緒だ。
アベニウス国では奴隷売買を全面禁止しているが、他国によっては戸籍のない人間は捕らわれて奴隷として売買されることもあるらしい。
我が国では神殿に提出された出生届、死亡届は必ず控えが王城に届けられる。そのため現在急ピッチで記録の見直しと、届の再提出の呼びかけや許可の再発行が行われているという。
「死亡届も大切ですよ。最近では特に魔王との戦いで命を落とした者には、きちんとした敬意と見舞金を払わねばなりませんから」
イェルド様が最前線で戦った戦士の目をしながら、次期公爵の目線で憂う。
「さようですな。ああ、それと魔法届の見直しも緊急性が高いですぞ。特に地方だと家職にそぐわぬ魔法は役に立たない、程度が低いなどと思われて、中央にその有用性が伝えられないこともしばしばありますのでな」
干しぶどうのような目でちらっとアンナを見てくるのはなんなのか。
首を傾げるアンナに、やや遠い目をして司祭様は首を振った。なにやらあきれられたような気がする。
そんな目で見られても、大変ですね……という労わりの視線しか差し上げられないが。
もちろん書類の修復や見直しなどの仕事を手伝えと言われれば、喜んで手伝うけれど。なぜだか〝聖女〟などという大それたものになってしまうようだし。
聖女――……確かに結界を張ってイェルド様の髪の毛を守ってはいる。イェルド様を守るのだ! という気持ちは誰よりも強いし、負けない。
ただ〝呪いから世界を守った聖女〟などと言われると、急に〝それはいったい誰のことだ感〟が増してしまう。
だって気合いに対してあまりにも何事も起きないのだ。
忙しさでいったら輸送部隊で働いていた時の方が忙しかったし、魔王討伐部隊の一員としてみんなで頑張る! という大きなテーマにそった働き方をしていたような気がする。
髪への結界は魔力の消費もほとんどないし、気持ち的にも行動的にも、はたから見ても自分自身が思い返してみても、ここ最近のアンナはイェルド様と手を繋いでお茶をしていただけである。
なのに、いつの間にか〝聖女〟になってしまうことが決定してしまったという。ならばいただけるという聖女手当という名の生活費分くらいは働くことはやぶさかではない。
ぜひ働かせてほしい。無職、怖い。
「そうなると婚姻関係の書類は後回しになってしまいますでな。先日もどこかの男爵が自領で提出した娘の結婚届が受理されないと、わざわざ王都の神殿に訴え出たということがありましてなあ」
肩をすくめて、「調べたら婚約届と結婚届に記載された名前が違っていた、という不備があり差し戻しておったのです」と司祭様は続けた。
「それを説明すると、〝いや、ちゃんと婚約者の変更届を提出した〟と。それでよくよく聞いてみると、それを受け取った神殿が燃やされておりましてな。変更届だけ燃え、最初の婚約届だけが残っておった……と」
司祭様が手に持ったティーカップに視線を落とし、ゆっくりと紅茶を一口含んでから再び口を開く。
「その男爵から再提出された婚約者の変更届は、王都の神殿で事情を調べて一応は受理いたしましたが……その事情というのが――なかなかのものでしたのでな。どうなることやら」
「それはそれは。不運には同情しますが、今は緊急事態ですからね……。邪神教徒の蠢動は全世界的にも問題になっていますし、理解していただけるといいのですが」
邪神教徒の活動を活発にした私が言うのも心苦しいですが、とうつむくイェルド様の手を、今度はアンナがぽんぽんと叩く。イェルド様のせいではない。
「何はともあれ、まず整えなければならないのは戸籍関係ですからな。元気に生きて戸籍のある者には、申し訳ないが我慢をしてもらわねばなりますまい。籍を入れるだけならばともかく、結婚式となると物理的に式場となる神殿も足りませんしなあ」
ちなみに魂を神の元へと返すための葬儀は、司祭が故人の家まで赴いて行うので神殿がなくても支障はない。
司祭様はまたゆっくりと紅茶を飲んで、ほーっと息をついた。
なんとなく猫背になってしまったアンナたちとは対照的に、茶菓子に舌鼓を打ち幸せそうな顔をしている。
「責任を感じることはありませんぞ。悪いのは邪神教徒どもですし、普通に結婚しようという者たちにはなんら支障ありません。人の生き死には待ったなしですが、結婚式は待っていれば必ずできますから」
そういうわけで、領の神殿の状態によっては妹君の入籍および結婚式は延期になる可能性が高そうですな。と、司祭様は肩をすくめた。
干しぶどうのようだった司祭様の濃い紫色の瞳が、紅茶の湯気で潤って艶々と光る。
「ま、わしならば神殿を焼いた邪神教徒どもと、こんな時に私事によって婚約者を変更した自分たちを恨みますがな!」
司祭様は秀でた額をぺしっと叩いて朗らかに笑った。
その笑顔を見ながらアンナは、たぶん話に出てきた男爵というのは自分の父親のことなのだろうな……と、察してうなだれた。
イェルド様の温かく響くぽんぽんが、心底ありがたいと思った。




