第10話 天使とワカメ
髪を守るための、アンナとイェルド様の共同生活が始まった。
朝、ベッドで目が覚めてもイェルド様と手は繋いだままだった。寝ている間によく外れなかったものだ。
アンナは自分が初対面の男性と一緒のベッドでぐーすか寝れてしまったことよりも、なぜかそちらのほうに驚いてしまった。
イェルド様はこちらを向いてまだ寝ている。
枕の上で絡まることなくサラリとしている金髪にも、アンナはびっくりした。イェルド様の短い髪はまるでシルクのように天使の輪を作っている。
それに対し、アンナのくすんだ緑のくせっ毛は、まるで海の中のワカメのように束になってうねっていた。いつもの見慣れた海藻ヘアだ。
アンナだってべつに自分の髪にそこまでの劣等感を持っているわけではない。ワカメのような癖毛だってかわいい。が、なぜだろう、ちょっと悲しい。
「……おはようございます」
「! えっと、おはようございます」
天使の輪を凝視していたら、髪と同じように真っ直ぐな金のまつ毛がぴくっと動いて目が開いた。
朝だというのにイェルド様の瞳は濁ることもない。艶やかなロゼゴールドの瞳に、挙動不審なワカメが映った。
イェルド様は起き上がるとゆっくり伸びをした。つられてアンナもばんざーいと手を上げる。
アンナの右手を握った手にもわずかに力が入って、目を閉じていた時は人外の美しさを誇っていたイェルド様の人間らしさを感じた。
寝起きで少しだけ乱れた夜着の襟から、なめらかな首筋と鎖骨が見える。
これは、朝から見てはいけないものなのでは……?
〝救世の英雄〟の面々で赤裸々な妄想をしていた出稼ぎ仲間から聞いた、赤裸々で邪な妄想話を思い出し、アンナはゆっくりうつむいた。
むっつり、ではない。ゆっくり、である。
朝からそんな気まずさに苛まれるアンナなんぞに、イェルド様は微笑んでくれる。天使なのは頭髪の光の輪だけにしてほしい。
「ありがとうございます、アンナさん」
「えっ」
そして謎の感謝である。
心当たりが全然……いや、それはあれか、邪な目で見ていることを自覚して目をそらしてくれてありがとう。とか、そういう?
いいえ、あなたに邪な目を向けていたのは出稼ぎ仲間の女性、通称・赤裸々姉さんであって、私ではないんです。
私はちょっと彼女の話を思い出して、あ、なんか実物を見て話の赤裸々解釈度が上がったなーとか思っただけで……なんてアンナは自分の髪を左手でくるくるしながら焦った。
「おかげさまで、昨夜は髪のことや邪神教徒のことを考えずにぐっすり寝られました」
「あ、そういう……いえ、あの、お役に立てれて良かったです!」
本当に幸せそうにほんわかと笑って頭を下げるイェルド様に、アンナは思わず視線を外した。
ゆっくり寝れたよありがとう。なんて、生き物として基本的なことを喜ぶイェルド様が不憫でならない。
イェルド様は自分の髪に世界の存亡がかかっているという強烈なプレッシャーによく耐えていると思う。アンナだったらその日のうちに心が死ぬ。比喩ではなく死ぬ。
偉いよなあ。と思って尊敬のまなざしを送ると、にこっと笑顔を返してくれた。
よく寝られたという彼の目元には、けれどまだ薄っすらくまが残っている。
「もう少し眠りますか?」
起きるにはやや早い時間である。
アンナが言うと、ふんわりした笑顔でイェルド様は首を振った。
「いえ、朝食もとらなくてはいけませんし、約束した解呪の時間に遅れると妹に怒られますから」
そう言われてハッと気づく。
そう。朝起きたら朝食を食べねばならないことを。
何を当たり前のことをと、昨日の朝のアンナだったら笑ったかもしれない。
だがこの〝朝食を食べる〟という普段当たり前に行っているこの行動は、アンナにとって〝世界を守る〟ための大仕事になってしまったのである。
昨日は偉い人たちに囲まれて何がなんだかわからないままに結界魔法を使い、何がなんだかわからないまま夕食を終えた。
緊張のなかで食べた白身魚のムニエルの味など全く覚えていないが、ひとつだけ強烈に覚えていることがある。
右手で結界魔法を使うせいで、その右手をイェルド様と繋いでいたアンナ。
カトラリーを使えないアンナにムニエルを食べさせてくれたのは、右手を自由に使えるイェルド様だった。
つまり、「あーん」である。
このイェルド様の「あーん」で味わった羞恥の味は、魚の味より鮮明に覚えている。
せめて給仕のメイドか誰かに代わってもらえないかというアンナの訴えは、呪いのことを知る人間をおいそれと増やせない、と却下された。
いくらアンナがアクセサリーに付与した結界をはじめ教会の結界魔法など、多くの結界に守られているとはいえ、それが機能しない何らかのアクシデントがないとは限らない。
突然襲われる可能性を考えると、食事中無防備なイェルド様の背後に使用人を立たせることも考えられない。ゆえにテーブルの上に料理を全部並べた状態で、二人きりの食事をしたのであった。
すまなそうなイェルド様の「お嫌でしょうけれど……」と肩を落としてしょぼんとする様子に、アンナの心は申し訳なさに痛んだ。
イェルド様だってこんな田舎娘の口に魚を突っ込むなんてこと、やりたくもなかろう。
さっさと食べてお互いを解放するのがアンナにできる精一杯のことだ。と、アンナは腹を決め、「いただきます!」と言ってぱかっと口を開けた。
これも仕事。
王城の料理人が腕を振るった料理を魔王討伐の英雄に「あーん」して食べさせてもらうことが、世界を守ることに繋がるのだ。たぶん。
当事者でなければアンナだって「何を言ってるの??」と膝を詰めただろうが、それしかやりようがないのだから許してほしい。
誰に謝っているのか。世界中のイェルド様ファンへか、イェルド様本人へかはわからないが。許してほしい。
着替えを終え、運ばれてきた朝食をあーんされながら心を無にして摂取し、まずは仕事を一つやり遂げたことにほっと胸をなでおろしたアンナだった。
 




