第1話 そんなことある?!
それ一脚で実家のセーデン男爵家にある全てのテーブルセットが買えそうなお高い椅子に座らされ、アンナは冷や汗をかきながら『機密保持契約書』にサインをしようとしていた。いや、させられようとしていた。
機密漏洩の罰は死刑。
そんな危険な書類に言われるがままペンを走らせているのは、アンナの心が弱っているからだ。
アンナは遠い目をしながら、出稼ぎ仲間たちとの楽しいランチを終えたあとのことを思い返していた。つい先ほどのことである。
仕事場に帰ってきて、午後の結界付与の仕事も頑張るぞ! と気合十分にポーションの入った箱を取り上げた時、後ろから肩を叩かれた。
「ひえ!」
魔王が倒され平和になった今、アンナが契約隊員として働く魔王討伐部隊専属物資輸送部隊は解散が決まっている。
アンナの職場での立場は微妙である。このままうまくいけば軍の輸送部隊本隊と再契約できるかもしれないが、このまま臨時輸送部隊の解散とともに契約解除になるかもしれない。という、ギリギリのところでクビを免れるべく死ぬ気で頑張っている最中である。
もしかしたら魔王が倒されてからのほうが、契約隊員たちは必死かもしれない。
いやもちろん、魔王討伐戦最中だって前線で戦う人たちのために死ぬ気で頑張っていたけれど、この戦いだってアンナにとっては生活の安定のためには負けられない戦いなのである。
王都に出稼ぎにきている貧乏男爵家の娘にとって、クビは魔物と同じくらい怖いのだ。
だから背後から、よりにもよって肩なんて叩かないでほしい。
アンナがおそるおそる振り返ると、硬い表情をした上司が王城の騎士に挟まれて立っていた。制服から近衛騎士であることがわかる。
彼らは緊迫した表情でアンナに言った。
「セーデン男爵令嬢、国王陛下がお呼びです」
そんなことある?!
陸に投げ捨てられた魚のように口をパクパクさせて上司にしがみついたアンナの手は、無情にもその上司自身によって叩き落とされた。
そして捕獲された小鬼のように両脇から騎士に見張られつつ、作業室を退室したのがついさっき。
案内された先は、やや質素に見える会議室だった。
王城にある部屋が質素に見えてしまっただけでも、もう精神がどうにかなっていることがお察しである。
なーんだ、陛下がお呼びというのは何かの間違いだったのね。と、アンナを油断させておいて、開いた扉の向こう側にいたのは、確かにデビュタントの時に一度だけそのご尊顔を拝したことがある陛下であった。
油断させておいて出る。
それはもう幽霊のやり口である。
それだけでもアンナの心臓はうっかり水洗いしてしまったシルクのパンツのようにきゅっと縮み上がったのだけれど、その陛下を囲むように会議室の席についていた面々にさらに縮み上がることとなる。
魔王討伐軍の将軍閣下、近衛騎士団の団長様、王都大神殿の司祭様……アンナが何千回生まれ変わっても、きっとすれ違うことすらなかったであろう肩書のおじさんたちだった。
名乗られるたびに「おやめくださいーおやめくださいー」と心の中で泣きながら拒否するも、それを表に出せるわけもなく。
「間違いだった」を期待して名乗ったら、逆に「間違いないな」と頷かれてしまった。
なにが……? と、目をぐるぐるさせて倒れそうになったアンナを支えて椅子に座らせたのは、ラーゲルブラード公爵令嬢エレオノーラ様だった。
さらにはこんな田舎娘を支えた妹の様子を、心配そうに見つめる兄のイェルド様。その背後になぜか周囲を警戒した様子でたたずむ勇者エドガー様もいた。
彼らは魔王討伐を成し遂げた〝救世の英雄〟として全世界に名を轟かせる有名人で、田舎の男爵家の娘が気軽に視界に入れていい人たちではない。
いや、他のおじさんたちだってできれば視界に入れたくはないし、場合によっては視界に入れると不敬罪に問われる可能性がある。
そしてそんな偉すぎる彼らの視界に、アンナを留めてほしくもない。
このとんでもない面々に囲まれ、「さあ、まず話の前に機密保持契約書にサインを」と言われて拒否できる人間がいるだろうか。
アンナは壊れた首振り人形のように頷いて、すぐさまペンを取り上げたのだった。