8R 祭典がやって来る
クラシック二冠目、東京優駿。またの名を日本ダービー。一生に一度しか走ることのできないレースの中で、注目度が最も高いレースである。勝利を収めた人馬は最高の栄誉を手にすることができると言っても過言ではない。
競馬ファン界隈は熱気に満ち満ちていた。テレビでも、ネットでも、SNSでも、普段のレースを遥かに上回る盛り上がりである。ダービーと有馬はヤバい、とは香奈の言葉だ。宝塚もヤバい、と付け足してから香奈はスポーツ新聞を広げた。
今回、ムジークヴィントは一枠一番。初めての最内枠。中団後方からの差しが得意なムジークヴィントにとっては、他の馬が前を塞いでしまわないかどうかが大事なポイントとなる。
展開予想など亜由美には難しいが、とりあえず新聞に書かれている簡単な解説に一通り目を通す。各馬の情報をチェックしたところでムジークヴィントの応援分を買うことに変わりはないのだが、折角のダービーなのだから他の馬のこともある程度分かった状態で臨みたいと思ったのだ。横から覗き込むと、香奈は亜由美に見やすいように新聞の角度を変えてくれた。
新聞にはムジークヴィントが大きな写真と共に紹介されている。
「『二冠なるか! 大本命ヴィント! 暴風東京に吹き荒れる!』……。暴風になってしまった……」
「ヴィントくん、暴風というより疾風とかだと思いますけどね。気性難じゃないですし、あの疾風の末脚は本当にいいものです。暴風じゃ音楽聞こえませんしね」
「エイアイバイレは……。写真小さいね」
「うーん、思ったよりも小さいですね。皐月賞組がやっぱり評価されてるのかな」
金曜日の昼休み。亜由美と香奈は並んでスポーツ新聞を睨み付ける。
馬を追い駆けていることは普段職場で大っぴらにはしていないが、ダービーは別である。あまり競馬を知らないという人も聞いたことがあり気にすることもあるダービー直前、スポーツ自体に関心のなさそうな課長が珍しくスポーツ新聞を読んでいたのだ。それとなく香奈が声をかけると、「ダービーと有馬記念だけは少しだけ買ってみてるんだ」とのこと。それならばと、「ダービーだから買ってみようかな」を装って堂々と新聞を広げることにした。
香奈が買って来た新聞ではムジークヴィントのことをイチオシとして紹介している。皐月賞の上位馬がその後に続き、エイアイバイレは穴馬候補の一頭と書かれている。皐月賞に出ていなかった馬の中ではかなり注目されている方のようだが、あくまで穴である。
「バイレくん、もっと評価高くてもいいと思うんですけどねぇ。これはちょっと舐められ過ぎじゃないですか。遺憾の意」
「私には予想とかよく分からないけれど、重賞勝ってるんだからもう少し見てくれてもいいのになとは思うよ」
「で、でもこのままだったら結構オッズが美味しいのかもしれない。誰もバイレくんの魅力に気が付かなければ、わたしは払い戻しでバイレくんのグッズを買える……! でもヤダ! みんなバイレくんを見て!」
「落ち着いて芝崎さん……」
課長はどの子にするんですか!? と香奈が勢いよく課長に向かって行った。残された亜由美は一人新聞を見る。
皐月賞の時も、ホープフルステークスを制したムジークヴィントは注目馬として推されていた。今回はそれ以上である。ダービーという存在の大きさと共に、ムジークヴィントへの期待と評価が高まっていることが示されている。走るのはムジークヴィントと速水騎手なのに、まるで自分が出走するかのように緊張した。
あれから一年。ついに、自分の応援している馬がダービーを走る時がやって来た。亜由美は新聞を前にして、無意識に両手を握った。祈るように、指を組んで握る。どうか無事に走り切れますように。そして、勝利を勝ち取れますように。
「課長にバイレくんとヴィントくんおすすめして来まし……駒村さん、お祈りですか?」
「え? あっ、いつの間に」
指を解く亜由美を前に、香奈はくすりと笑う。馬鹿にしているのではなく、本当にただ面白いと思っている笑いである。
「すっかり熱心なファンですね」
「私、ムジークヴィントのことが好きだな。すごく。自分が思っていたよりもずっと、あの馬に魅せられている。まさか自分がこんなことになるなんて」
「沼というのはどこにでも広がっていて、気が付いたら落ちて出られなくなっているものですよ。わたしは土曜日に動物園に行く予定です。気に入っている子のお誕生日なので」
「紙の馬券、芝崎さんに頼んでいいんだよね。有馬の時みたいに」
「はい。動物園の帰りにウインズで買って来ますよ。本当は現地で買って、レースも生で見たかったんですが……」
香奈は掛かり気味大逃げの勢いでダービー当日の指定席の申し込みをした。指定席が外れ、次に入場券を申し込んだ。それも外れた。皐月賞は運良く当たって二人で見に行ったが、そう何度も上手くいくわけもない。
東京競馬場のGⅠを見に行けたことがないと、ある時香奈は言った。シュクルリーヴルの昨年のオークス、ジャパンカップ、そして今年のヴィクトリアマイル。いずれも全力で申し込みをしたが全て外れた。今回のダービーも外れ、香奈は「東京競馬場へは行けないんだ」と非常に悔しそうにしていた。「次はきっと行けるよ」と慰める亜由美の声に頷く様子は、自分自身に次こそはと念じているようでもあった。
亜由美はメモ帳に番号と金額を書き込み、小銭と一緒に使用済みの適当な茶封筒に入れて香奈に渡す。
「ヴィントくんの応援と……。あ。バイレくんの複勝ですか」
「芝崎さんがエイアイバイレのことすごくすすめてくるから、私も気になっちゃって」
「二枚だけでいいですか?」
「後から気になる子がいたらネットで買うよ」
「分かりました!」
香奈は茶封筒を丁寧に扱って、クリアファイルに挟む。
「あぁ、いよいよだ。いよいよですね」
「ムジークヴィントがダービー馬になるまであと二日」
「ダービーを取るのはバイレくんです」
二人はほんの少しの間睨み合った後、それがなんだか面白くなって笑った。