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6R ライバル出現!

 皐月賞から一夜明けて、亜由美の前に広がる世界は推しで染まった。


 テレビも、新聞も、雑誌も何もかもがムジークヴィント一色である。


「供給が多すぎる……!」


 出勤の途中に立ち寄ったコンビニで競馬雑誌を購入し、バッグに忍ばせて職場へ向かった。新聞も買ってしまおうかと思ったが、かさばってしまうので雑誌だけで我慢した。


 ずっとにこにこしながら移動をして、スキップしそうな勢いで職場に飛び込む。顔面が無意識に緩み出すので傍から見れば不審者であり、亜由美はそれを想定してマスクをしていた。ところが、楽しそうな雰囲気というものは周りに伝わるものである。


「駒村さん、何かいいことあった?」


 隣のデスクに着く同僚に訊ねられた。


 同期の鞍田くらた智司さとし。新入社員研修の時に仲良くなった良き友人である。ムジークヴィントと出会う前は、しょんぼりしたりぐったりしたりしていた時にしばしば声をかけてくれた。今でも声はかけてくれるが、ムジークヴィントに出会ってからは智司が心配するほど亜由美がくたびれることは随分と減った。


「ふふん、ちょっとね」

「へぇ、いいねえ」

「鞍田君は何かないの? いいこと」


 バッグからペンケースやメモ帳を取り出しながら亜由美は訊ねた。間違えて競馬雑誌を出しかけ、慌ててバッグの底に押し込む。


 智司は手にしていたペンをくるくると回す。


「いいことか……。まあ彼女とは上手く行ってるし悪くはないかな」

「自慢……?」

「違うよ! 駒村さんが訊くから! うーん、そうだな……。あ、これこれ。これ、最近あったいいこと。小さなことだけど」


 デスクに置いていたスマホを手に取り、智司は亜由美に画面を見せた。


 表示されているのはゲームのスクリーンショットのようだ。緑色の髪をしたクールな少女が煌びやかな衣装を纏ってポーズを決めている。


「ゲームの……ガチャ画面?」

「この子、俺の推しなんだ。この間から始まったイベントで限定バージョンが実装されて、めっちゃガチャ回した」

「それで、無事に手に入れられたんだ」

「そう。嬉しいなぁ」


 画像を閉じてデスクに置く直前、スマホのロック画面には緑色の画像が表示されていた。推しの色を身近に置くファンは少なくない。


「オ、オタクみたいだって引かないでね」

「引かないよ。私も推しいるし」

「そうなんだ。あ、もしかして駒村さん推しに何かいいことあったの」

「へへへ、ちょっとね」

「いいねえ」


 推し談義に花を咲かせていると、香奈が出勤して来た。だるそうに上司に挨拶しながら、亜由美達のデスクに近付いて来る。


「お……おはようございま、す……駒村さん、鞍田さん……」

「どうしたの芝崎ちゃん!? ゾンビみたいになってるよ!?」

「駒村さんがお酒に強すぎて」

「無理しちゃだめだよって言ったのに頑張って付き合うからだよ。大丈夫?」

「二人で飲みに行ったの?」


 昨日、中山競馬場を後にした亜由美と香奈は夕食を共にしてその後ムジークヴィントの勝利を称え祝杯を上げた。大興奮といった様子で普段の香奈のように高ぶった気持ちを熱く語ってグラスを煽り続けた亜由美は、勢いそのままに香奈を連れてカラオケで熱唱しマイクで「ムジークヴィント!! おめでとう!!」と叫んだ。


 語り合いたいがために付き合った香奈は後半にはソフトドリンクを飲んでいたが、ずっと上機嫌な様子でふわふわしており、心配した亜由美が呼んだタクシーで帰宅したのだった。


「ごめんね私が連れ回したから」

「大丈夫です。別に二日酔いってわけじゃなくて、楽しくって疲れちゃって。駒村さんずっと嬉しそうに話してるから、ずっと聞いていたくなっちゃって……。楽しい時間と疲労って背中合わせというか、めいっぱい楽しんだ後って疲れちゃうことありますよね。それです」


 そう言って、香奈は茶封筒を亜由美のデスクに置いた。


「ん。これは?」

「昨日の写真印刷したんですよ。駒村さんにプレゼントです」


 それではまた後で、と香奈は少し離れた自分のデスクに向かって行った。


 亜由美は封筒を手に取って中を確認する。ちらりと覗き込むと、ムジークヴィントの綺麗な写真が入っていた。亜由美がスマホのカメラと格闘したり感動に打ち震えて動けなかったりした間に香奈がデジカメで撮影して来たもののようだ。予期せぬ供給に亜由美は一瞬硬直する。


「駒村さん……?」

「あ……。く、鞍田君、推しっていいものだね」

「え? うん、そうね」


 今日の仕事はなんか上手くいく気がする。そんな気がして、亜由美は朝からずっと高いテンションをさらに上げる。写真が折れてしまわないように、封筒は雑誌に挟む形でバッグにしまった。


 資料作成も電話対応も何から何までばりばりとこなし、昼休みがやって来る。午後の会議も何とかなりそうだ。


 同僚と外に食べに出ている智司のデスクに香奈が来て椅子に座る。お弁当を突いていた亜由美が写真の礼を言うと、香奈は「好きで撮ってることなのでお礼なんて」と言った。


「次……次も楽しみだな……。ねえ、芝崎さん、次ってあれだよね」

「そうです」


 日本ダービー! と、声が重なる。


 亜由美が初めてテレビで見たレース。アルテフェリーチェの衝撃的な走りを見たレース。競馬ファン以外でも耳にしたことがある人が少なくない、競馬の祭典とも言われる特別なレースが今年もやって来る。


 皐月賞で優勝したムジークヴィントはクラシック二冠目とGⅠ三勝目を目指してダービーに挑む。とにかくすごいことしか分からなかったあのレースに、ムジークヴィントが出る。そう思うと、亜由美は昨日皐月賞が終わったばかりなのに、もうダービーが楽しみでならなかった。


「また、ムジークヴィントが……」

「そうなってほしい気持ちはありますが、そうはさせませんよ」


 不意に真剣そうな声を出した香奈に、亜由美は目を丸くする。香奈が見せて来たスマホの画面には金色の鬣を持つ馬の写真が表示されていた。添えられている名前は、エイアイバイレ。


「ダービーはバイレくんが取ります」

「その子は……?」

「わたしの三歳世代の推しです。ヴィントくんは好きです。大好きです。でもデビューから応援してるこの子に、ダービーを取ってほしい。いや、どっちにも勝ってほしい。ううん、誰が勝ってもいい。でも、バイレくんが……。ん、難しい。いつもこうです。好きな子ばっかりで、困っちゃいますね」


 香奈は苦笑する。そして、再び真剣な様子になった。


「この子は強いですよ、きっと。まだ重賞には勝てていないけど、必ずダービーには間に合いますから」

「ライバル、だね……」


 エイアイバイレの次走は京都新聞杯。そこで賞金を積み立てることができれば、ダービーに出られるかもしれない。香奈はサンドイッチを片手にエイアイバイレの過去のレース映像を見返し始めた。


 ムジークヴィントのことばかり見ている亜由美は他の馬のことをしっかりと認識したことがない。ところが、次のレースは他の馬のこともよく見えるレースになりそうだ。香奈のスマホに映っている尾花栗毛の美しい馬を見ながら、亜由美はその名を小さく呟いた。

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