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5R 春嵐駆け抜けて

 四月。千葉県船橋市、中山競馬場。


 人々にもみくちゃにされながら、亜由美は歩いていた。


 今日のために用意した赤いバッグに、ホープフルステークスの記念のキーホルダーが揺れる。アクセサリーは赤と茶色をメインに選び、ネイルチップには勝負服の柄を描いた。


 年末にGⅠ馬の仲間入りをしたムジークヴィント。「この後グッズが出ますよ」と香奈に言われ身構えていた亜由美は、散財した。キーホルダーにストラップ、ブロマイド等々。ご飯を食べて寝るだけだった亜由美の部屋にはムジークヴィントのグッズが次々と増えて行った。


 もっとグッズがほしい。もっとレースを見たい。もっと姿を見ていたい。今日も元気でいてくれてありがとう。亜由美はすっかりムジークヴィントに惚れ込んでいた。メロメロである。


 競走馬は年が明けると皆一斉に年を取る。本馬(ほんにん)の誕生日が来るまではもちろん実年齢は変わらないのだが、レースに出走する際の区分は年明けに切り替わって行く。三歳になったムジークヴィントは三月に弥生賞に出走。いつものように中団後方から先頭集団を追い駆けたが、あと一歩届かずハナ差の二着となった。


 今日は皐月賞だ。三歳の馬だけが走ることのできる、クラシック三冠と呼ばれる三つのレースのうち最初の一つ。


 香奈の推し馬であるシュクルリーヴルが走ったレースは牝馬だけが出走できるものだが、ムジークヴィントが出走を予定しているレースは性別に関係なく出走することのできるレースだ。とはいえ、三冠レースでは牝馬は基本的に牝馬限定戦に出走している。稀に牡馬に混じって走る子やそのまま優勝してしまう子もいるが、前例は数える程しかいない。シュクルリーヴルもダービーを走れるのではないかと言われていたが、オークスを選択し優勝した。仮にダービーに出ていたらアルテフェリーチェとぶつかることになっていたので、勝てたかどうかは分からない。


 人ごみから抜け出て、亜由美はメッセージアプリを開く。


『駒村さん今どこですか?』


 香奈からのメッセージが届いていた。時間は数分前。


 入場券の抽選に打ち勝ったと香奈から連絡を受け、亜由美は共に皐月賞を現地観戦することとなった。一緒に入場して、さっさと馬券を応援分だけ買って、売店に行く香奈と別れて今に至る。


『待ち合わせ場所にいるよ。女性専用エリアみたいなとこ。ちょっと混んでるみたいだけど』

『えー』


 きょろきょろと辺りを見回す猫のキャラクターのスタンプが届いた。


『動かないでここにいるからね』

『はーい』


 香奈を待ちながら、亜由美は今日の出馬表を確認する。場内を歩く人々の中には競馬新聞を手にしている人も少なくないが、ぬいぐるみなどのグッズを持った親子連れの姿もあった。


「やっぱり、おじさんばっかりってわけじゃないんだ……」

「あっ! いたいた! 駒村さーん!」

「あぁ、よかった。ほしかったやつ買えた?」


 親子連れとすれ違う形でやってきた香奈は満足げに袋を掲げる。香奈の推し馬、シュクルリーヴル。オークスの時の写真を用いた新作グッズが出たのだと香奈は熱く語っていた。


 椅子に座って休憩したり、フードコートで食事をしたり。レースまでまだ時間があると思って亜由美がスマホを見ていると、香奈に手を引かれた。


 香奈に連れられて辿り着いたのはパドックである。レース前の馬達が担当の厩務員らに引かれながら周回している。ある者はここで馬の状態を見てどの馬の券を買うか考えるし、ある者はただひたすらに推しの写真を撮る。


 六番のゼッケンを着けた馬が亜由美の目の前を通って行った。パドックには大勢の人々が集まり馬とは随分と距離があったが、その姿ははっきりと見えた。前方にいる人々も柵も何もかもそこにはなくて、触れるくらい近くを歩いているかのように感じた。


 声が出なかった。亜由美は息を呑んで、目を見開く。無意識に笑顔になる。写真を撮ろうと思って構えていたスマホを落としてしまいそうなくらい、全身が震え上がってしまいそうだった。


 初めて生で見るムジークヴィントに、亜由美の目は釘付けだった。テレビや写真で見る姿もとても格好いいが、実物はさらに格好いい。艶々した鹿毛と呼ばれる茶色い毛に覆われた筋肉の塊が、勇ましい動物の姿をして歩いている。かわいらしい目できょろきょろと興味深そうに他の馬や観客のことを見ながら、首を振って鬣を揺らす。


「やっぱりお馬さんかわいいなぁ。ね、駒村さ……。……駒村さん、生きてる?」

「あっ……!? わ、分からない。一瞬どこかへ行っていたかもしれない」

「ヴィントくん今日も元気そうですね」

「あれが、ムジークヴィント……」


 胸の高鳴りが抑えられない。これが現地参戦して生で見る推しの姿。


 亜由美は己の内から湧き上がって来る喜びと嬉しさを内部で爆発させ、落ち着いた風を装ってスマホをムジークヴィントに向けた。荒れ狂う感情の中でひたすら写真を撮り続ける。レンズ越しだけではもったいないのでスマホを下ろすと、再びムジークヴィントの姿が何も通さずに目に突き刺さって来た。


「ま、眩しい……。これが、推し……」

「あはは、いいなぁ。いいですね、わたしも最初はそうでした。クルリちゃんにはまだ会えてないから、初めて会ったらやっぱりそうなっちゃうのかな」


 亜由美は画面に表示されている写真とパドックを周回している実物を交互に見て、確かにそこに本物のムジークヴィントが存在しているという事実を噛み締める。


「わ、私、今日はもうこれで大満足……」

「この後レースですよ! そっちが本番ですからね!?」

「これ以上浴びたらどうにかなってしまいそう」

「どうにかなっちゃいましょう! 推しはいいぞ、駒村さん」

「どうにかなってしまっていいのかな」

「なりましょう。わたしはアイドルのライブでも水族館のショーでもどうにかなってます。周りに迷惑かけない範囲ならどうなったっていいんですよ。愛ゆえなので」

「愛、か……」


 厩務員に引かれながら歩いていたムジークヴィントが合図で立ち止まった。亜由美はスマホを下ろす。観客の方をちらりと向いたムジークヴィントと、目が合ったような気がした。


 ぞろぞろと騎手が現れ、馬に乗ってパドックを出て行く。


 ムジークヴィントに騎乗する速水騎手も姿を現した。香奈と同い年の速水騎手は甘いマスクで女性ファンからの人気がある。馬を驚かせてはいけないので黄色い声は上がらなかったが、登場と共に静かなどよめきが起きた。


 パドックを後にする馬達を追い駆けて、集まっていた人々もコースの方へ移動して行く。人の波に乗って亜由美達も芝の広がる方へと歩いた。


 中山十一レース、皐月賞。ファンファーレが鳴り、歓声が上がる。


 ゲートに入る前のムジークヴィントは落ち着いた様子で立ち止まっている。鬣が風に揺れる。周りの馬が歩いているのも気にせずにただ立ち止まっていた。ゲートが嫌なのかと思いきや、速水騎手が指示を出すとてくてくと歩いて自分の意思で自然とそうしたかのようにゲートに入る。ムジークヴィントはいつもそうだった。


 その名の通り風が似合う馬である。立ち止まって鬣や尾を風に揺らしている姿も、走って己で風を生み出している姿も、よく似合う。


「頑張れ、ムジークヴィント」


 亜由美は人混みの隙間からムジークヴィントを見守る。


 すべての馬がゲートに入り、そして、ゲートが開いた。勢いよく飛び出した馬達はそれぞれの得意な位置を取り、徐々に縦長の配置となる。ムジークヴィントは中団後方からの差しが得意なので、今日もその位置に付けて走っていた。


 観客の声援。芝やダートの匂い。すぐ目の前を実際に駆けて行く馬達。テレビで見ているものとは違う、現地でしか味わえない臨場感。


 観客席と反対側の直線である向こう正面を通って、コーナーを回って馬が戻って来る。十八頭の馬の中にムジークヴィントを探すが、どこにいるのかいまいち分からない。


「駒村さんっ、ヴィントくんあそこです!」


 最終直線で加速したムジークヴィントがどんどん前に出て来た。静かな空間に音が突き刺さるように、風が吹き抜けるように。ただ一頭と一人で走っているかのように、周りの馬や騎手のことなど見えていないとでも言いそうなくらい軽やかに、そして力強く走っている。


 人間が追い付けない速さで走っているのに、亜由美の目はその姿をしっかりと捉えて追い駆けることができた。まるでスローモーションのように、ムジークヴィントの姿がよく見えた。


「頑張れ……。頑張れ、ムジークヴィント……! 頑張れっ!!」


 ムジークヴィントの少し前を十番のゼッケンの馬が走っている。先頭集団の後方から追い上げて来た十番に、さらに後方から追走するムジークヴィントが迫った。


 おじさん達の「行け!」「差せ!」「残せ!」という声に混じって、若者の「うおー!」「すげえ!」という声、子供の「がんばれー!」という声が聞こえる。


 亜由美も力が入った。拳を握り、呪文のように、祈るように、小さく声援を送る。


「頑張れ、頑張れ……! ヴィント!! 頑張れ! 頑張れ! 頑張れ……!!」


 十番の馬とムジークヴィントは互いに譲らず、ほぼ同じタイミングでもつれるようにしてゴール版を駆け抜けた。観客がどよめき、ざわめく。


「えっ……?」

「あれっ、今のどっちですかね?」


 周りの観客達も各々の同行者と顔を見合わせ、一人で来ている人も大型ビジョンと馬を見比べていた。大型ビジョンの掲示板には一着と二着は写真判定という表示が出ている。


「こ、駒村さん……」

「あわ……わ……。どうしよう……。どうしよう芝崎さん……。ムジークヴィントは……」


 ざわざわとした場内の視線は掲示板に向けられている。勝ったのはどちらの馬なのか。


「あ」


 確定という文字が表示された。人々が大きく盛り上がる。


 亜由美は息を呑んだ。声が出る前に、涙が零れた。体全体が震え出しそうだった。自宅で一人で見ていたら号泣しながら頽れていたかもしれない。香奈が飛び付く勢いで肩を叩いて来る。


「ムジークヴィントっ……!!」

『一着は六番ムジークヴィント! GⅠ二勝目!』

「あっ、あぁ……! やった……! やった! やったー! おめでとう!」

「すごい! すごいですねヴィントくん!」

「ど、どどどうしよう……! 私、私……。こんなに、こんなになるなんて……」


 亜由美はバッグからハンカチを取り出して目元を拭う。


 推しの晴れ舞台を生で見て、そこで推しが勝利を手にした。感激、歓喜、興奮、ありとあらゆるポジティブな感情や動きが体を支配していく。しばらく動けないまま、亜由美は感動に打ち震えていた。


「これが、これが推し……。推しを、応援するということなんだ……」

「ほら、表彰式が始まりましたよ」


 香奈に手を引かれ、群衆の隙間を通り抜けてコースに近付いた。


 笑顔の速水騎手と関係者が記念撮影をしていた。皐月賞の優勝を記念するレイを肩にかけたムジークヴィントが傍らに立っており、マスコミやファンのカメラを気にしつつも速水騎手の方を興味深そうに見つめている。


 亜由美はスマホを向けるが、人と人の隙間からズームして撮った写真の画質はお世辞にも良いとは言えないものだった。立派なカメラを携えたファンの姿もあるが、馬を撮るためだけにカメラを購入する決断は亜由美にはまだできない。しかし、優勝レイをかけた推しの写真が自分のスマホに入っていると思うとそれだけで嬉しかった。画質など関係ない。


 おめでとう、という歓声に速水騎手は手を振って応えている。


「お、おめでとうございます!」


 亜由美の声は皆の「おめでとう」に紛れて届かないが、順番に目線を向けていた速水騎手がぴったりなタイミングでこちらを向いた。きゃあきゃあと黄色い声がちらほら上がる。


「速水ー!!」

「ムジークヴィントおめでとう!」

「速水! おめでとう!」

「きゃー! 勇樹くーん!」

「ヴィントー! よかったぞー!」


 名前を呼ばれていることが分かっているのか、ムジークヴィントは詰め掛けたファンの方へ体を向けた。


「いっ、今、今、私の方を見た。芝崎さん、今、ムジークヴィントが私のことを」


 動物の表情など分からないが、亜由美には自分を見たムジークヴィントが微笑んだように見えた。


「かっ、かわいい!!」


 推しが尊いというのはこのようなことを言うのだろうか。亜由美は天にも昇る心地である。無意識に緩みまくった顔から笑みが溢れて零れる。もう写真を撮ることすら忘れて、そこにいる推しのことをただただ見つめた。


 しばしファンからの祝福に応えていた人馬は、やがてその場から移動した。厩務員に引かれてムジークヴィントが歩き出す。


「ムジークヴィント!」


 人々の見送る声に混ぜて、亜由美は推しに呼び掛けた。


「おめでとう! 次も応援するから!」


 一瞬立ち止まったムジークヴィントが振り向き、ファンの方に耳を向けて誰かの声を拾った。厩務員に名前を呼ばれ、再び歩き出す。そういえば途中から写真を撮っていなかったな、と気が付いた亜由美のスマホには推しのお尻の写真が残った。


 集まっていた人々が少しずつ散って行く。


「駒村さん、よかったですね。わたしも今日ここに来てよかったです」

「私……こんな気持ちになったの初めて……。これが推しなんだ……。これが、推しの力……。す、すごい……!」

「本物を見たらもっと好きになりますよね。やっぱりいいですねぇ、推し。わたしも推し見に行こう。水族館行こう。うん」


 亜由美はスマホの画面に表示されるムジークヴィントの顔やお尻を真剣な眼差しで見る。今日は彼が目の前にいたんだ。目の前で走って、目の前で勝ったんだ。


「私……今日のこと、きっと忘れない……」


 ムジークヴィントを追い駆けたり、他の馬のことも気になったりしたらこれから先も同じような、もしかしたらこれ以上の体験が待っているかもしれない。それでも、初めての現地参戦、初めての目の前での推しの勝利は永遠に今日だけのものだ。


 あぁ、私の推しは今とても輝いている。この輝きが末永く続いて行きますように。


 亜由美はレイをかけたムジークヴィントの写真を指先でそっと撫でた。

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