3R アイドル=偶像
駒村さん、最近何かいいことあった? そう尋ねられることが増えた。
亜由美は部屋を片付けた。これから先どれだけのめり込んでも大丈夫なように、グッズや雑誌が溢れても大丈夫なように。仕事から帰ってきたらご飯を食べてお風呂に入って寝るだけ。そんな生活の中で散らかしてきた服や下着をちゃんと引き出しにしまい、ばらばらになっていた書類を纏めた。だらしない格好をしていた休日の姿を画面越しの推しのためにある程度整えた。
そして、推しを知ろうとした。馬のこと、競馬のこと。知る度に興味が沸き、もっと知りたくなった。今はまだムジークヴィント以外に心惹かれる馬はいないが、どの馬もどの騎手もいつも皆頑張っていて偉いと思った。その姿を見ると元気をもらえる気がした。仕事で嫌なことがあっても、ムジークヴィントのレースを見返すと亜由美は気分が晴れる気がした。また明日頑張ろうと、芝の上を駆ける姿に元気をもらった。
職場で、メッセージアプリで、香奈と雑談することも増えた。パリピで陽キャな雰囲気の香奈と仲良くしていると、「駒村さんって思ってたより明るいんだね」と周囲から言われることもあった。
「わたしギャルっぽく見られることが多いんですけど、本質的には所謂オタクというか、持たれるイメージとは真逆なんですよね」
「芝崎さん、色々好きなんだよね?」
「はい。漫画もアニメも、アイドルも好きです。あと、動物園とか水族館が大好きなんですよ。競馬も最初はその延長みたいなものでした」
香奈はカクテルの入ったグラスを手元で傾ける。氷が揺れ、音が鳴る。仕事終わりにこうして香奈と共に食事やアルコールを楽しむようにもなった。亜由美は自分のグラスに入った赤いカクテルを覗き込む。
香奈おすすめの、お気に入りのキャラクターや有名人をイメージしたカクテルを作ってくれるバーだ。馬でもいいのだろうかと亜由美が躊躇っているうちに、香奈は数多の推し馬の中から一頭を選んでさっさと注文を済ませてしまった。慣れたもんだと感心しながら、亜由美も店員にムジークヴィントの写真を見せたのだった。
「ヴィントくん頑張ってますよね。この間の重賞見ましたよ」
香奈はスマホの画面にレース結果を表示させる。
先日行われたGⅢ・京都二歳ステークス。ムジークヴィントは見事な末脚で前方の馬達を差し切って一着となった。テレビの前でレースを見ていた亜由美は奇声を上げてひっくり返り、しばらくの間興奮冷めやらぬ状態になっていた。レースが行われたのは土曜日だったが、日曜日中浮かれ続け、月曜日職場に現れたところに香奈が声をかけても一人でにやにやしていた。
GⅠで勝てばもちろんすごい。しかし、GⅠに出るだけでもすごいのだ。重賞で勝てばもちろんすごい。しかし、重賞に出るだけでもすごいのだ。もっと言えば、今日も元気に走ってレースに出て、無事に帰って来てご飯を食べて寝ているだけですごい。馬はいつも頑張っていて偉いと香奈は語る。
時として馬も騎手も怪我をする可能性があり、命を落とすことさえある競技だ。どうかみんなが今日も無事にゴールして帰ってきますようにと、推しの出走に関係なく香奈はレースのたびに祈っているという。亜由美よりも競馬歴の長い香奈は、何頭もの推しの引退を見て来た。走り切った者もいれば、無念のリタイアとなった者もいた。パスケースに付けているストラップは足を怪我して引退したとある推しだそうだ。
亜由美にはまだ香奈が熱く語る内容全てを深く理解することはできない。ムジークヴィントのことは好きだ。けれど、怪我をしたり命を落としたりするリスクを動物に背負わせながら走らせていることを気にしてしまう。騎手や調教師、世話をする厩務員などが馬のことを大切にしていることは分かっている。働き口がなくなれば人も馬も困り果ててしまうほど大きな世界だ。これからも馬は走り続けるし、人も乗り続けるだろう。分かっているし、走る姿が好きだ。けれど。
「だから、元気でいるだけで偉いんです。あぁ、病気になった子や怪我をした子が偉くないってわけじゃないですからね。そこで元気に走ってくれていることがとても嬉しくて。……通ってた動物園で好きだった熊が亡くなったことがあったんです。たくさんの人がお花を持って来て、熊の思い出話をたくさんしました」
香奈はカクテルを飲む。
「推しは推せる時に推せって言葉をよく聞くんですが、その通りだとわたしは思います。そうすればきっと、応援してたわたし達はその子のことをきっと忘れない。その子がそこにいたこと、たくさん推してあげればたくさん覚えていられますから」
気が付けば、ムジークヴィントと出会ってから四ヶ月が過ぎていた。
趣味も好きなこともこれといってなかった亜由美が熱心に馬を追い駆けて四ヶ月も経ったのだ。ムジークヴィントを応援する日々は亜由美にとって充実したものだった。そして亜由美は、ムジークヴィントにとっても応援する人間がいることが彼の力になっていてほしいと思っていた。
「誰かが応援してくれて、誰かが覚えていてくれれば、きっと関係者の人って嬉しいんじゃないですかね。馬も……。ううん、馬だけじゃなくて。スポーツ選手とかアイドルとかも、やっぱり誰かの記憶に残ることって大切だと思うんです。例え世界中の全ての人がわたしの推しのことを忘れてしまっても、わたしは絶対に推しのことを忘れないんだ……」
香奈のスマホの画面にはカクテルのモデルである現役の推し馬、シュクルリーヴルの写真が表示されている。今年三歳の牝馬で、三歳の馬だけが走ることのできるレースで活躍した馬だ。牝馬三冠と呼ばれる桜花賞・オークス・秋華賞に参戦し、オークスでは見事に一着、残りの二つも五着以内と健闘した。
香奈は推しの女の子の写真を見ながらグラスに指を這わせる。
アイドルの語源は偶像である。偶像とはすなわち崇拝の対象だ。推しを推す行為は時に崇拝にも似た物であり、宗教じみた威力を発揮することもしばしばある。亜由美はそんな聖地の沼の畔で片足だけを水に浸して様子を見ている状況であり、香奈は沼のうちより亜由美に向かって手を伸ばしていた。
もう、このまま勢いを付けて飛び込んでしまおうか。そんな風に考えながら、亜由美はムジークヴィントをイメージしたカクテルで口を潤わせた。
「ヴィントくん次走決まってましたっけ」
「次はね、えっと……。ホープフルステークス……?」
十二月末に行われる二歳のみのGⅠだ。珍しく平日に行われるレースのため、リアルタイムで視聴することはできない。しかし推しの初GⅠなので、亜由美は応援の気持ちを込めて馬券を買う予定である。
「シュクルリーヴルは」
「クルリちゃんは来週のジャパンカップです! 先輩達と走るのは初めてなので胸を借りるつもりで……でもやっぱり一着になってほしいな……。うーん、でも元気に帰ってくればそれでいいです!」
「頑張ってほしいね」
「はい!」
その後しばらく馬の話をしてから、二人は帰路に着いた。
翌週、香奈の推しであるシュクルリーヴルはジャパンカップに出走した。結果は十着だったが、力の強い先輩の馬達に負けない存在感を示すことはできた。シュクルリーヴルの売りは大胆な逃げの作戦だ。スタートからゴールまで、誰かに抜かれるまでずっと先頭を走り続ける。歴戦の猛者達を引き連れて芝を疾走する乙女の姿に心を打たれ、ファンも増えたそうだ。