1R 退屈な日々に吹き込んだ風
――一年前。五月。
その日、亜由美は心底くたびれていた。上司に理不尽に怒られ、後輩に舐められ、同僚は優しく声をかけてくれたが怒りは治まらず、ずっといらいらしたまま仕事をして酷く疲れてしまったのだ。
こんな日は酒だ。明日は土曜日で休みなのだから、今夜は美味しいスイーツと美味しいお酒をお供に面白い映画でも見て過ごそう。そんなことを考えながら電車に揺られ、最寄り駅で下りてゆっくり歩く。
近所のコンビニでチューハイと新作のコンビニスイーツを買う。レジに並んで待っていると、五十代くらいの男性が新聞売り場の前で難しい顔をしているのを見付けた。男性はしばらく悩んだ後、新聞を手に取って亜由美の後ろに並んだ。ちらりと横目に見るとどうやらスポーツ紙らしい。
新聞一つで何を悩むことがあるのだろう。疑問に思い、亜由美は会計を済ませた後に新聞売り場へ向かった。夕方の新聞売り場にはあまり新聞は残っていなかった。男性はいつも読んでいるものを探していたのかもしれない。
野球にもサッカーにも興味がない。若い女性に近年人気だと言う相撲にも関心がない。友人や同僚はアイドルやアニメのキャラクターに熱い思いを持っているらしいが、亜由美は芸能人や二次元にもさほど惹かれなかった。
先程の男性は何か好きなスポーツでもあるのだろう。好きなものにはまって熱を注ぐ「推し活」なるものとは縁のない生活を送って来た亜由美は、流行に疎そうなおじさんにすら負けたことを若干悔しく思いながらコンビニを後にした。
いや、後にしようとした。
新聞売り場から立ち去ろうとした亜由美の目に、スポーツ紙の一面に載っていた一枚の写真が留まった。
馬である。
動物園のパンフレットなどではないのに、馬の写真が載っていた。
「……日本ダービー」
競馬だ。今週末に行われるというレースについて特集記事が組まれているらしく、注目の競走馬が写真付きで紹介されていた。先程の男性の目当てはこれだったのかもしれない。ダービーという言葉を頭の片隅に残して、亜由美は帰路に着いた。
朝の残り物で適当に見繕った夕食を食べ、テレビで流れているよく知らない映画を見ながら缶チューハイを開けてスイーツを頬張る。会社のあれこれは頭の中でもやもやと渦巻いていたが、ほんの少しだけ気分が和らいだようだった。映画を観終わってから、地元の同級生から来ていたメッセージに目を通して静かに過ごす。そうして時間は過ぎていき、亜由美は金曜日の夜を終えた。
怠惰な土日を過ごした亜由美は週末がもう残り少ないことに気が付き絶望した。あともう少しでまた月曜日がやってきてしまう。震えながら、何かを見て来を紛らわせようとテレビを点けた。
『さあ、今年もやって参りました!』
テレビからは威勢のいいアナウンサーの声が聞こえて来た。何かのイベント会場だろうか、人々がたくさん集まって盛り上がっている姿が映っている。一見中年男性ばかりかと思いきや、親と一緒に来ているらしい子供や若いカップルの姿もある。
「え、何だろうこれ。サッカー?」
次に画面に映ったのは馬だった。十数頭の馬がぐるぐると回っている。色とりどりのユニフォームを着た人間が跨っており、中には時折馬を撫でている人もいる。
新聞に載っていた日本ダービーだ。亜由美はクッションを抱きかかえてテレビを見る。折角だからゴールするところを見よう。そう思ったのだ。
ファンファーレが鳴り、現地の大きな歓声が画面の向こうから聞こえて来た。馬が柵に入った。そう思った瞬間、亜由美の目の前でレースは終わった。
気が付いたらクッションのことを強く抱きしめていた。手にしたままのテレビのリモコンを握り締め、画面に見入ってしまった。ただ馬が走っているだけなのに目が離せなかった。二分か三分かあったようだったが、亜由美には一瞬のように感じられた。
何かすごいものを見たような気がする。しかし、亜由美にとってそれはその日だけの気持ちだった。どの人間が勝ったのか、どの馬が勝ったのか、週が明ければそんなこと忘れてしまった。
また、代り映えのない日々が始まる。
書類を纏めて、電話を取って、上司のお小言を聞いて、後輩を手伝って、同僚と居酒屋に行って。亜由美にとっての何でもない時間。特別好きなことも、特別嫌いなこともない。いつも通りの日々。
回り続ける時計の針と一緒に歩いて、二ヶ月ほど経った。
七月の週末。亜由美はスーパーに入っているパン屋で買って来たパンを食べながら何気なくテレビを点けた。お昼のワイドショーは芸能人のゴシップで盛り上がっているが、亜由美の関心は芸能界にはない。適当にチャンネルを変えて色々なものを画面に映していると、動物の姿が目に入った。
「お、動物番組やってるじゃん。見よ見よ」
チャンネルを動物の映っていたところに戻す。放送されているのは競馬の番組だった。アナウンサー曰く、この夏に初めてレースに出る馬達が走るそうだ。すなわちデビュー戦だ。
「メイクデビュー……っていうんだ」
落ち着かない様子できょろきょろしている馬や、緊張しているのか立ち止まったままの馬がいる。
「あ。あの子ちょっとかわいいかも」
亜由美が目を留めたのは五番のゼッケンを着けた馬である。茶色い体で、後ろ足の先だけが白い。馬上の人間は赤い色のユニフォームを着ていた。
ファンファーレが鳴る。馬達が柵に入り、そして走り出した。亜由美は五番の馬を目で追い駆ける。
全体の真ん中辺りを走る五番の馬。そのままの位置を維持したまま最後のカーブに入ると、徐々に位置を上げ始めた。そして、ゴール前の直線。五番は先頭に立った。
「頑張れ……!」
思わず声が出た。
「頑張れ!」
ところが、ゴール直前で後方から現れた馬に追い抜かれてしまった。テレビのカメラは一着になった馬を映し、親が誰だとか上の人が誰だとかの解説をし始めた。一着になった馬にとっては喜ばしい結果であり、上の人間も実に嬉しそうにしている。会場に集まった観客の祝福の声が画面越しに聞こえる。
亜由美は五番の馬のことが気になった。五番の馬のことが知りたかった。名前は何というのか教えてほしかった。食い入るようにテレビをじっと見る。
『――二着は、五番ムジークヴィント』
「ムジーク、ヴィント……」
その名前を繰り返す。
亜由美の目は画面の端を歩いているムジークヴィントに釘付けだった。姿に、走りに、それとも名前に。風を奏でる馬に、亜由美は心を鷲掴みにされた。
テーブルの上に投げ出していたスマートフォンを手に取り、画面に指を滑らせる。タップして、スワイプして、検索して、競馬の情報が見られるどこかのサイトに辿り着いた。そのページが公式のものか非公式のものなのかは今の亜由美には関係ない。とにかくあの馬のことが知りたかった。
ムジークヴィント。北海道の牧場で生まれ育った二歳のオス。
父は数年前のマイルチャンピオンシップというレースを勝った馬で母も良い成績を積み重ねた馬だそうだが、亜由美には親の馬の成績がどれくらいのものなのかよく分からなかった。父馬が勝ったマイルチャンピオンシップはレースの中で最も格付けが高いGⅠレースの一つであり、母馬は一つ下のGⅡを三勝している。成績優秀な両親を持つムジークヴィントは先程のメイクデビューで一番人気になっており、ファンの期待が数字に表れていた。
知らない単語、分からない単語が次々と画面に出て来て、亜由美は目を回してしまいそうだった。それでも、ムジークヴィントのことをもっと知りたくて画面を睨み付ける。
オーナー、すなわち馬主は音楽関係の仕事をしている人物であり、所有馬にも楽器や音楽に関する名前を多く付けているそうだ。馬主の名前は亜由美の知らない名前だが、おそらく業界では名の知れた人物なのだろう。
今、亜由美が知ることのできた情報はこれくらい。僅かなものだが収穫は十分だった。ただ一度画面の向こうを走っているのを見ただけの馬に、すっかり惹き付けられてしまった。
また、走っているところを見たい。
駒村亜由美はその日、ムジークヴィントと出会った。