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12R 王者達

『アルテフェリーチェ一着! やはり強い! 秋の盾を手にしたのはアルテフェリーチェ!』


 天皇賞(秋)。他を寄せ付けない圧倒的な走りでアルテフェリーチェが勝利した。春古馬三冠は届かなかったが、秋古馬三冠は成し遂げてしまうかもしれない。アルテフェリーチェのファンは期待に胸を膨らませた。


 レース結果と払い戻しを表示しているテレビの前で、亜由美は最強馬の名前をじっと見つめていた。あまりにも強い。強すぎる。そんな相手を倒せるのは、同じくらい強い者しかいない。


「アルテフェリーチェとシュクルリーヴルが待ち構えている有馬記念……か……」


 菊花賞を七着で終えたムジークヴィント。地力はこれまでの走りで示して来た通り十分だが、三千メートルの長距離ではスタミナが持たなかったのだろうという見解を調教師はしていた。レース後の速水騎手のコメントも「今日はちょっと疲れてしまったのかもしれません」だった。今後は主に二千メートル級のレースに出走する予定だという。


 次走として発表されたのは、年末の有馬記念。当初はジャパンカップも視野に入れており、有馬記念とどちらか、もしくは両方を予定していた。結果として菊花賞の疲れを癒すためにジャパンカップは回避、有馬記念を目指すこととなった。つまり、アルテフェリーチェとシュクルリーヴルと走ることになる。


 怪物のような二頭と共に走って、ムジークヴィントはどれくらい活躍できるのだろうか。亜由美は観客に称えられている人馬を眺めながら、二ヶ月後の戦いを思い描く。


『いやぁ、強かったですね』

『次のジャパンカップも楽しみですね。アルテフェリーチェが勝利するのか、伏兵が現れるのか』


 スタジオのアナウンサーと芸能人がにこやかに話をしている。皆が迷いなく期待するほど、アルテフェリーチェの存在は絶対的なものだ。シュクルリーヴルが彼を下した時、彼女のことを悪役のように言う者もいた。負けた彼を責める者もいた。強すぎるが故に、一挙手一投足が周囲の感情を大きく動かした。


 あれに挑むのだ、ムジークヴィントは。


 クラシック三冠を達成できなかったムジークヴィントに対して落胆する声もあったが、次も応援するという声もたくさん寄せられた。あのムジークヴィントに食らい付いたエイアイバイレとイリュミナシオンもすごいという声も少なくない。菊花賞は落としてしまったが、三歳世代で最も注目され、強さの指標とされているのはやはりムジークヴィントだった。


 あの日、風は止んだ。しばらくの間、亜由美は呆然としていた。何をしていても上の空で、自分で思っていたよりもずっとずっとムジークヴィントに強い思いを抱いていて、思っていたよりもショックを受けていたことを実感した。三冠まであともう少しだったのに。野球やサッカーのファンが大きな試合で負けた時に、普段の試合よりも残念そうにしているのはこのような気持ちなのだ。


 自分は馬券を買って声援を送って、ただ応援しているだけである。練習も本番もその後も、大変なのは馬主や厩舎関係者や騎手、そしてムジークヴィント自身の方だ。亜由美がいくら思い悩んでも、レースの結果にそれが関わることはない。次のレースで元気に走って、そこで良い結果を出せるようにまた応援しよう。天皇賞(秋)が始まるまでに、気持ちはおおよそ切り替えられた。


 今日は馬房でのんびりしているだろうか。明日は飼葉をもりもり食べているだろうか。そんなことを考えながら、『また来週!』と言って手を振るアナウンサーと芸能人の姿を見送った。





 アルテフェリーチェが強さを見せつけた二週間後、シュクルリーヴルがエリザベス女王杯を制した。道中で別の逃げ馬にハナを取られたが、直線で追い抜き後続を突き放してゴールした。オークス、宝塚記念に続いてGⅠ三勝目である。


 翌朝、月曜日。職場に現れた香奈は放心状態だった。ぼんやりとした様子でオフィスに入って来て、バッグをデスクに置き、椅子に座る。「すごかったですね!」と亜由美に声をかけることはない。


 馬のことを知らない同僚から挨拶をされて、香奈は小さく返事をした。いつも朗らかな香奈の様子からは想像できないおとなしさに、出社していた面々は頭上に疑問符を浮かべた。何かあったのではないかと誰かがひそひそ話を始める。


 亜由美は自身のデスクにクリアファイルや筆記用具を並べながら香奈の様子を見ていた。


「駒村さん、芝崎ちゃんどうしたの? 馬?」


 隣に座る智司から訊ねられるが、亜由美にも理由が分からない。大喜びをしているならともかく、どこか虚ろな様子でいることについて訊かれても答えられなかった。


 書類を作成して、電話を受けて、会議を眺めて、淡々と仕事をこなして昼休み。大きな音を立てて立ち上がった香奈が亜由美の元へ大股で歩いて来た。


「し、芝崎さん?」

「駒村さん、有馬記念のファン投票が始まりますね」

「あー、そろそろなんだ?」

「はい。どの子に入れようか悩みますね」


 楽しみだと語りながら、香奈は無表情である。


「芝崎さん……怒ってる……?」

「いえ……。いえ……。ふ。ふふっ……。ふふへ……。へっ。だ、駄目だ。ふふ、笑ってしまう……」


 香奈は口角を吊り上げ、唇を歪めて、そして堪え切れずに気味の悪い笑みを浮かべた。弁当箱の蓋を開けようとしていた亜由美は手を止めて、不審な様子の後輩を見つめる。


「き、昨日から気を抜くと笑ってしまって駄目なんです」

「だからずっと無表情で静かな感じだったの?」

「クールな振りをしていればにやにやしないかと思って」


 そう言って口を真一文字にした香奈だったが、すぐににやにや笑い始めた。


「昨日のクルリちゃんがとってもかっこよくて、GⅠ三勝目で、嬉しくて。オークスで最強牝馬だって言われた後は大きな勝ちがなくて『まぐれだった』とか言われた時もあったんですが、宝塚で勝って『やっぱり強いんだ』って声は増えて、それでも『偶然だ』って言う人もいたんです。でも、これでみんなクルリちゃんのことをもっと認めてくれるはずです。あぁー、本当にかっこよかった!」

「よかったね」

「有馬記念でまたアルテくんと戦うの楽しみだなぁ……」


 どの子に投票しますか? と改めて香奈は亜由美に問うた。折角名前を知ったのでムジカカネルとイリュミナシオンにも入れようかとは思っているが、亜由美の投票先は宝塚記念の時とほぼ同じになる予定である。


 アルテフェリーチェは相変わらず強く、シュクルリーヴルもやはり強い。他はどのような馬が参戦するのだろうか。


 外へ昼食を食べに行っている智司の椅子に腰を下ろして、香奈はサンドイッチを食べ始めた。スマホの画面には競馬関連のニュースが何か表示されている。


「駒村さん、そういえば秋はハルキくんが帰って来てますね」

「ハルキくん……?」

「アオハルキネマです。春は外国のレースを走っていたんですけど、秋はジャパンカップと有馬記念に出る予定だそうです。本当はフォワ賞と凱旋門賞に出るつもりだったんですが、風邪をひいてしまって帰って来たんです。来年は出られるといいな」

「えっ、アオハルキネマも来るの!?」


 昨年の菊花賞馬であり、アルテフェリーチェに土を付けているアオハルキネマ。ドバイ、香港、イギリスと転戦し、シュクルリーヴルも出走していたドバイシーマクラシックで勝利を収めた以外は優勝を逃しているが、いずれも着順は悪くはない。


「来年はほぼずっと海外だと思うので、普通に券買えるタイミングで買いたいですね」

「芝崎さんはジャパンカップどの馬を応援するの」


 サンドイッチを頬張っていた香奈がスマホの画面を切り替えてから亜由美に見せる。表示されているのはジャパンカップに出走予定の馬の一覧だ。


 亜由美の知らない名前の馬がたくさんいる。その中に、アルテフェリーチェ、アオハルキネマの名前がある。そして香奈が指し示したのは、ムジークヴィントのことを下した馬だった。


「実績などを考えて馬券を買うべきなのはどう考えてもアルテくんとハルキくんです。わたしが今回応援するのは、イリュミナシオンくん」

「イリュミナシオン、ジャパンカップに出るんだね」

「有馬記念に行くんだと思ってたんですが、こっちらしいですね。一着はアルテくん……もしくはハルキくんだと思うんですが、バイレくんが負けたイリュミナシオンくんが弱いのは嫌なので頑張ってほしいです」


 エイアイバイレは年内休養で、年明けのGⅡかGⅢに戻って来る予定である。


 こんな馬も出ますよという説明を数頭分聞きながら、亜由美は弁当を摘まんだ。



 斯くして、ジャパンカップ当日。


 一番人気のアルテフェリーチェと二番人気のアオハルキネマが強すぎる。国内の実力馬だけでなく、海外から参戦している馬もいる。その中で二頭は圧倒的な支持を受け他の馬よりも遥かに低いオッズとなっていた。この二頭が勝つに違いない。数字にはっきりと表れてしまうほど、誰もがそう思っている。菊花賞馬のイリュミナシオンさえも霞んでしまうほどに。


 ゲートに入る前、輪乗りの際にほんの少し立ち止まったアオハルキネマがアルテフェリーチェのことを見ていた。騎手に促されても、じっと動かない。アルテフェリーチェはただ前だけを見て歩いている。互いを認識しているのかいないのか、別の馬が間に入ったところでアオハルキネマはようやく騎手に応えて歩き出した。


 東京競馬場、芝二千四百メートル。日本ダービーなどと同じコースである。アルテフェリーチェとアオハルキネマが一年振りに同じ舞台で対決する。勝負の行方を人々は固唾を飲んで見守った。


『――ここで大外からアオハルキネマ突っ込んで来た!』


 最終直線に入り、全てを蹴散らして悠々と先頭を駆けるアルテフェリーチェ。後続とはまだ少し距離がある。残り二百メートル。残り百メートル。ゴールが目の前。勝利は目前。


 そこに、がら空きの外を回ってアオハルキネマが猛追して来た。昨年の菊花賞の再現だと後に誰かが言った。


 亜由美はテレビの前で目を見張る。ゴールに届く僅かに直前、アオハルキネマがアルテフェリーチェのことを差し切った。


『アオハルキネマだー!!』

「強い……。強い、どっちも……」


 あれと、あれらと、ムジークヴィントは戦うのだ。恐ろしい。楽しみだ。わくわくして、ぞくぞくした。


『――菊花賞馬イリュミナシオンは七、八着でしょうか』


 抱えていたムジークヴィントの大きなぬいぐるみを亜由美は優しく撫でる。彼に出会ってから亜由美の世界は一変した。


 好きなものは特にないし、興味のあるものやはまっているものも特にない。代わり映えのしない生活を続けていたつまらない部屋は、今ではすっかりムジークヴィントの写真やグッズで溢れ返っている。会話をすることがあまりなかった後輩の香奈とも仲良くなれた。そして何より、ムジークヴィントを追い駆けることでそれまで味わったことのない様々な感情になることがあった。


 変わったんだ、私。貴方に会って。


 亜由美はぬいぐるみを抱き締める。風を奏でる馬は、彼女のことをどこまで連れて行ってくれるのだろう。まだ三歳。これから、もっとすごい走りをたくさん見せてくれるかもしれない。風はきっと、再び吹きすさぶ。


 まずは有馬記念。最強と、最強な彼を倒した者達が待つ夢の舞台。


「楽しみだな……。何かを楽しみに待つなんて、少し前までは考えられなかったのに」


 もう一度ぎゅっと抱いてから、亜由美はぬいぐるみを棚に戻した。大きなものから小さなものまで並ぶぬいぐるみの間には皐月賞の時に香奈が撮ってくれた写真が飾られている。


 その夜、亜由美が見たのはムジークヴィントの走りをどこまでも追い駆けて行く夢だった。頑張れと声をかける亜由美に、ムジークヴィントが小さく頷いた。そんな気がした。

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