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11R 爽籟進み行きて

 春古馬三冠の夢に届かなかったアルテフェリーチェ陣営が、今度は史上三頭目の秋古馬三冠を目指すと宣言した。夏の間はゆっくり休んで、秋に全力で挑むという。


 最強アルテフェリーチェを下したシュクルリーヴルも夏は休養を取り、どこか丁度いいレースで準備をしてからエリザベス女王杯と有馬記念を予定しているとのこと。


 年末の有馬記念で、再び二頭がぶつかる。


 ムジークヴィントも夏は休んで菊花賞に直行予定と発表された。香奈は色々な馬を追い駆け、水族館や動物園にも行き、アイドルのライブにも参戦するので夏も忙しいが、亜由美は夏の間は推しとの距離が少し離れることとなった。


 推しがいないレースほど欲が消えて冴えるもので、たまにはこうして賭けもちょっぴりね。香奈はそう言って、函館記念と札幌記念で大穴を当てた。その払戻金は各ジャンルの推しのグッズになる。


 香奈の夏競馬の話を聞きながら、亜由美の夏は過ぎて行く。


 書類を纏めて、電話を取って、上司のお小言を聞いて、後輩を手伝って、同僚と居酒屋に行って、ムジークヴィントの近況を確認する。新しいグッズが出ていたので買っておいた。


 ムジークヴィントと出会ってから一年が経って、回り続ける時計の針と一緒に歩いて、季節は秋になる。


 十月。


 クラシック三冠目、菊花賞。三千メートルという長距離を走ったことがある馬は、出走する馬の中に一頭もいない。誰も知らない距離での戦いになる。


 ファンやメディアの注目はムジークヴィントに集まっていた。世代最強ムジークヴィント、クラシック三冠達成なるか。そんな見出しが紙面や画面に並ぶ。アルテフェリーチェのように簡単に三冠は達成されないのだから、別の馬が菊を勝つだろうという声もあった。


「菊花賞! 菊花賞こそバイレくんが勝ちます!」

「その心は」

「バイレくんは血統的に長距離は得意なはずなので、ダービーの時よりもいいパフォーマンスができる気がします。お父さんが菊花賞四着で、おじいさんが天皇賞(春)二着ですから。母方のおじいさんも菊花賞と天皇賞(春)両方で掲示板入ってますし。血統はいいはず。いいはずなんです。ダービー二着が評価されて人気も上がりそうですね。ただやっぱり三千メートルは未知の領域ですから、どうなるか……」

「なるほど……?」

「セントライト記念一着の意地を見せてほしいですね」

「予想は? 推し抜きで予想だと、どう?」


 訊ねた亜由美のことを香奈は少し驚いた様子で見た。馬のことも競馬のこともレースのことも何分からないといった顔をしていた亜由美から予想について訊かれるとは思わなかったのだ。


 好きな馬を追い駆けて好きな馬の応援馬券ばかり買っている二人は、普段は賭けとは遠いところにいる。尤も、香奈はワイドなどを買うこともあるし、推しの馬券の払戻金だけでは足りなさそうな時にはグッズ代の為にギャンブルに挑むのだが。


 香奈は弄んでいたカフェラテから手を離した。閉じていたスポーツ新聞を開き、亜由美に見せる。


「さっき言ったようにバイレくんは血統的には向いているはずなので好走しそうな予感はあります。どうしても少し贔屓目に見てしまいますけど。……警戒すべきは、この子です」


 そう言って、香奈は一頭の名前を指差した。





 菊花賞当日。


 亜由美はテレビの前で静かに祈りを捧げていた。


 ムジークヴィントのクラシック三冠達成の瞬間を見届けたい。そして、無事にゴールまで戻って来ますように。全力疾走で他の馬を寄せ付けずに強さを見せてほしい。怪我がなければ何位でもいい。いいや、やはり三冠達成してくれ。三冠! 三冠! 三冠!


 テレビの向こう側へ念を送っている亜由美のことを、香奈はいつもよりも静かな目で見ていた。ムジークヴィントの三冠達成は自分も見たいが、最後の一冠を取るエイアイバイレの姿も見たい。美しい尾花栗毛が先頭でゴール版を駆け抜ける姿を見て歓喜したい。ムジークヴィントは倒すべき敵である。


 テーブルの上に置かれたコーヒーからは湯気が昇っていた。お菓子は置かれていないが、全てが終わった時に登場する予定である。ムジークヴィントまたはエイアイバイレの祝勝会、もしくは慰労会のために香奈がケーキを持参している。それぞれの勝負服と似たような色のケーキ達は冷蔵庫の中で出番を待っていた。


 本馬場入場が始まり、誘導馬に続いて出走馬達が姿を現した。ムジークヴィントが登場すると大きな歓声が起こる。拍手と声援に出迎えられながら、速水騎手とムジークヴィントはゲートの方へ駆けて行く。


『今年はクラシック三冠馬が誕生するのでしょうか。すっかり名コンビ、七番ムジークヴィントと速水勇樹! 今日もいい風起こすのか!』


 呪文か何かのように、亜由美は「頑張れ」をぶつぶつと繰り返している。


『ダービーは悔しい二着。次の冠は手に入れるぞ! 十番エイアイバイレ。鞍上は――』

「頑張れ、バイレくん……」


 最後の一冠。無邪気に応援なんてしていられない。亜由美も香奈もいつにも増して力が入っていた。


 三歳馬のみが走ることのできる三冠レース全てで勝利し三冠の栄光を掴んだ馬は、長い歴史の中でも数える程度だ。クラシック三冠も、牝馬三冠も、それぞれ十頭もいない。あれほどまでに強いアルテフェリーチェも、それを下したシュクルリーヴルも、メイクデビューでムジークヴィントと当たったミスフローリアも、手にした冠は一つだけだった。


 菊花賞は譲れない。ムジークヴィントを応援する者、ムジークヴィントに賭けた者、他の馬を応援する者、他の馬に賭けた者。全員が自分以外の者に睨みを利かせ、馬券の当たりと推しの勝利を願って警戒し合っている。


 ぶつぶつと呪文を唱えている亜由美の横で、香奈は静かにテレビを見ていた。心が躍り、同時に体が震えそうだった。楽しみというよりも、寧ろ怖かった。エイアイバイレが走り出したら、今日はもう声も出せずに見守ることになるかもしれない。


 東京競馬場で行われたブラジルカップに勝利した人馬が喜んでいる姿がテレビに映し出されている。CMの後、いよいよ菊花賞が始まる。


「あともう少しだね」


 亜由美の声に香奈は答えない。真剣な眼差しのままCMを見つめている香奈を見て、亜由美は口を閉じた。推し活だ推し活だ推し活だと言って普段は賑やかにしている香奈が真剣な顔をしている。今から始まるのは、一生に一度しか走ることのできないクラシック三冠競走最後の一つ。とんでもないものが始まるのだと、半ば恐ろしささえ感じながら亜由美はテレビへと視線を戻した。


 京都十一レース、菊花賞。ファンファーレが鳴り、歓声が響く。


 輪乗りしていたムジークヴィントは皆よりも早く立ち止まってゲートに入るのを待っていた。秋の風に鬣と尻尾を揺らして、体に風を纏っている。速水騎手がぽんと首の辺りを軽く叩くと、ゲートの方へ顔を向けた。


 最後の一冠を賭けた戦いが始まる。


『――スタートしました!』


 少しばらついたスタート。三番と八番が徐々に前に出て、逃げる形になる。競り合い続けるかに見えた二頭だったが、ハナを取ったのは八番だった。三番はほんの少し間隔を空けて追走する。


 十番エイアイバイレは三番手でいつも通りの位置取り。七番ムジークヴィントは中団後方の十番手から十三番手辺りである。


 三千メートルの菊花賞ではコースを約一周半する。向こう正面の方からスタートした馬達が一度客席のスタンド前を通ってから、再び向こう正面を回って戻って来る。今は一回目の三コーナーを過ぎた辺りである。


『三冠を目指すムジークヴィントはここにいます』


 十八頭が四コーナーを回り、スタンド前にやって来た。歓声が上がり、現地が大いに盛り上がる。先頭では八番が皆を引っ張り、次に三番、そしてエイアイバイレが続く。大きな動きがないまま、一コーナーに入る。


 亜由美と香奈は声援を送ることを忘れたまま、息を呑んで展開を見守っていた。祈る亜由美と、険しい顔の香奈。この後どうなるかな、という会話も今日はない。


 今、香奈に話しかけたら機嫌を損ねかねないのではないか。そんな思考が亜由美の頭に過る。本気だ、今日の香奈は。


 二回目の向こう正面。逃げていた二頭と後続の間隔が詰まって来ていた。エイアイバイレが三番と並び、追い抜く。そしてそのまま八番のことも追い抜いた。


『ここでエイアイバイレ先頭に立ちました。三コーナーに入って行きます』


 ムジークヴィントはまだ中団だ。しっかりとマークされていて、思うようにコースを取ることができていなようだった。


 あ……。と香奈が小さく声を出した。一瞬笑顔になるが、すぐに真剣な顔に戻る。勝負はまだ終わっていない。


 逃げ馬達を追い抜いて上がって来たエイアイバイレ。そのやや後ろにぴったりとくっ付いている馬がいた。


『残り四百メートル! 直線コースに入って先頭は十番エイアイバイレ! 続いて二番手に十五番イリュミナシオン!』


 スタートした時から、十五番の馬はずっとエイアイバイレの近くいた。前に出たエイアイバイレを追い駆けてそのまま並び立ち、併せ馬の形になる。


『ムジークヴィントはまだ後ろ!』


 ダービー三着、イリュミナシオン。警戒すべきだと香奈が言っていた馬だ。両親共にフランス生まれで、父は凱旋門賞馬である。


 メイクデビューで敗北以降はパッとしない成績で、ダービーはなんとか間に合わせてぎりぎりで切符を手に入れた状態であり、血統の良さの割には人気も注目もあまりなかった。しかしダービーで三着だったことが評価され、今日の菊花賞ではこれまでより人気が高い。


 香奈はこの馬に賭けていた。ずっと推しているのはエイアイバイレである。エイアイバイレに勝ってほしい。亜由美が応援しているムジークヴィントにも頑張ってほしいし三冠を達成してほしい。他の馬を買う予定はなかったが、悩んだ末にイリュミナシオンの馬券も買ってしまった。推しを応援する自分は推しに勝ってほしいと言うが、過去のレース映像やデータや調教を確認した自分はこの馬を外せないと言う。


『残り二百メートル! エイアイバイレここで捕まった! 先頭は十五番イリュミナシオン! 三番手には九番――』


 エイアイバイレが後続に巻き込まれかける。なんとか再加速するが、先頭までは届きそうにない。ムジークヴィントは集団の中に埋もれたままだ。


 香奈が悲鳴を上げた。亜由美は目を見張ってテレビを見つめる。


『イリュミナシオンっ、ゴールイン!! 最後の一冠を手にしたのはこの馬でした!』


 京都競馬場が一瞬どよめき、やがて歓声が上がる。


『エイアイバイレはまたも二着!』

「ムジークヴィント、負けちゃった……」

「う……。うぅ、バイレくん……!」


 悔しい! と香奈が声を上げた。


 テーブルに置かれた本日の購入馬券。エイアイバイレとムジークヴィントの応援馬券と、イリュミナシオンを軸にした馬連など。香奈の予想は的中しており、収支はプラスである。


「悔しい! 悔しい! あともう少しだったのに!」

「券はムジークヴィントの以外当たってるみたいだけど……」

「当たったのは嬉しいです。イリュミナシオンはよく頑張りました。強い馬でした。でもやっぱり悔しい! バイレくんが勝つところを見たかった! ……イリュミナシオンおめでとう! 嬉しい! 悔しい! うぅー」


 現地のファンの声援に迎えられるイリュミナシオン。とぼとぼと引き上げて行くムジークヴィントが画面の端に映っていた。


「ムジークヴィント……。今日はお疲れ様……」


 労うように速水騎手から撫でられているムジークヴィントがフレームアウトする。


 皐月賞、日本ダービーの二冠を達成した注目の馬は七着。この日、同世代に対して猛威を振るっていた風が止んだ。

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