10R 挑戦者VS挑戦者
ダービーの興奮冷めやらぬ競馬ファン達の元に、宝塚記念のファン投票結果が届けられた。得票数一位は春古馬三冠に挑む現役最強アルテフェリーチェ。二位はアオハルキネマ。三位はシュクルリーヴル。実力馬達の名前が続き、ムジークヴィントは八位に入っていた。三歳馬の中では最も票を集めている。
「馬のことは全然分からないけど、自分が選んだ名前が上の方に載ってると嬉しいね」
「それじゃあ鞍田さんも一緒に宝塚記念見ますか?」
「いやぁ、俺は彼女と予定があって」
「自慢話ですか?」
「違うよ」
東京競馬場で行われた五週連続GⅠも終わり、宝塚記念で上半期のGⅠは終了となる。全力応援だというファンもいるし、ここで負けを取り戻したいというファンもいるし、好きな馬は夏に走るのでそれまでのんびりするというファンもいる。
安田記念の振り返りが掲載されている雑誌を開きながら、香奈は手元のスマホで宝塚記念の投票結果を改めて確認していた。エイアイバイレは四十九位である。
「おはよう、鞍田君、芝崎さん」
「あ! おはようございます駒村さん」
「おはよう駒村さん」
「何見てるの?」
「宝塚の投票結果です」
昨日発表されたやつだね、と亜由美は返す。
「シュクルリーヴル三位すごいね」
「ついにクルリちゃんとアルテくんが対決するんです。楽しみです」
「初対決なんだ?」
クラシック三冠路線からそのまま有馬記念に向かったアルテフェリーチェと、牝馬三冠路線からジャパンカップに挑戦しその後休養したシュクルリーヴルは昨年の直接対決がない。今年に入ってからも、春古馬三冠に挑戦しているアルテフェリーチェとドバイ遠征及びヴィクトリアマイルに参戦したシュクルリーヴルはすれ違い続けている。昨年のダービー馬とオークス馬、どちらが強いのか。そんなことを言われ続けた二頭が宝塚記念にてついにぶつかる。
有馬記念からGⅠ三連勝中のアルテフェリーチェと、大敗したジャパンカップ以外は堅実な成績を取り続けているシュクルリーヴル。アルテフェリーチェに先着したことのあるファン投票二位アオハルキネマは宝塚記念に出走予定がないため、メディアやファンの注目は二頭に集中していた。
今のままでも面白くなりそうだけど、もしムジークヴィントが参戦していたら絶対もっと面白くなるな! というような競馬ファンのコメントがSNSには上がっていた。それを少し嬉しく感じながら、亜由美はファン達の声を眺めていた。
「芝崎さんはシュクルリーヴル応援?」
「はい! もちろん! でもアルテくんの春古馬三冠達成も見たいです……」
「はるこばさんかん?」
訊ねたのは智司である。
「大阪杯、天皇賞(春)、宝塚記念の三つを同じ年に全部勝つと春古馬三冠になるんです。秋の天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念だと秋古馬三冠ですね。秋古馬三冠はこれまでに二頭が達成しているんですが、春古馬三冠は前人未到なんですよ。アルテくんはそれに挑もうとしているんです」
「じゃあ、もしも達成したらとんでもない大記録になるんだ」
「はい。偉業を成し遂げるところも見たいし、デビューから追い駆けている子が勝つところも見たいです」
全然違う子が勝つかもしれませんが、と香奈は続ける。どの騎手が勝っても、どの馬が勝っても、香奈はその人馬を祝福する。けれど、応援している馬が負ければもちろん悲しい。
競馬雑誌を閉じて、香奈は口角を吊り上げて笑った。陽キャパリピギャルとも称される香奈の素敵な笑顔は男女共に色々な人の心を揺さ振るものだが、オタク気質の本性を知っている亜由美と智司には何か恐ろしいものに見えた。
「ふ、ふふっふ……。宝塚記念……! 楽しみ……!」
アルテフェリーチェの春古馬三冠達成がかかる、宝塚記念当日。
亜由美は自宅で一人テレビを見ていた。香奈も自宅である。金曜日の終業後、香奈は帰り際「クルリちゃんのレース見て見せられない姿になるわたしを駒村さんに見られたくないので! 宝塚は各自で!」と言っていた。毎回一緒にGⅠを見ているわけではないものの、そういえばシュクルリーヴルの走るレースは一度も一緒に見たことがないなと思いながら、芸能人達の馬券予想を流し見る。
今日買った馬券はアルテフェリーチェとシュクルリーヴルの応援馬券だけだ。ちょっぴり予想してみようかとも思ったが、出走している馬はいずれもファンから大人気の馬や成績のすこぶるいい馬ばかりである。全員勝ちそうに見えたので、前から名前を知っている二頭の応援分だけにしたのだ。
「どっちも頑張ってほしいなぁ」
現在アルテフェリーチェが圧倒的一番人気。シュクルリーヴルは二番人気だが、三番人気、四番人気のとの差は小さい。賭けている者も、応援している者も、ほとんどがアルテフェリーチェを見ている。
僕はシュクルリーヴルにします! とテレビの中の芸能人が言う。彼は数頭馬の名前を上げているが、他の出演者が推すアルテフェリーチェのことは二着か三着の候補にしているようだった。
『シュクルリーヴルの逃げ、見たいですねー』
実力も人気も十分な十五頭の馬達が発走の時を待っている。テレビのカメラはアルテフェリーチェのことを大きく映していた。次に、人気順に数頭を映す。
アルテフェリーチェ史上初の春古馬三冠達成なるか。それとも、現役最強馬を誰かが打ち負かすのか。阪神競馬場にファンファーレが響く。
歴史的瞬間を見られるのかもしれない。それを打ち砕く者を見られるのかもしれない。アルテフェリーチェと他の十四頭へ、各々が様々な感情を乗せた目を向ける。
『―スタートしました!』
「みんな頑張れー」
綺麗に揃ったスタート。八番のシュクルリーヴルが早速スピードを上げて先頭に立つ。
『すーっと前に出て八番シュクルリーヴル今日も逃げます。一番人気十三番アルテフェリーチェは後方に付けました』
後続をどんどん引き離していくシュクルリーヴル。向こう正面に到達した時には、もう八馬身近く差を付けていた。豪快な逃げに現地のファンが沸く。
出しておいた麦茶に伸ばしかけていた手を止め、亜由美はシュクルリーヴルの走りを見つめる。グラスに付いた水滴が滑り落ちてテーブルに届いた。
『三コーナーを回ってシュクルリーヴルまだ逃げている! リードは五馬身六馬身! 後続が徐々に詰めて来る! ここでアルテフェリーチェが動きました! 外を回って徐々に進出!』
十五頭が四コーナーを回り、最後の直線コースに入る。先頭はシュクルリーヴルのままだが、アルテフェリーチェが全てを薙ぎ払ってものすごい勢いで追い上げて来ていた。ゴールまで、残り二百メートル。
『アルテフェリーチェ二番手まで上がって来た! 追い縋るアルテフェリーチェ! 逃げる逃げるシュクルリーヴル! 差は縮まっている! 縮まっているが!』
それでも、追い付けない。悲鳴にも似た歓声がテレビの向こうから聞こえて来た。
『シュクルリーヴルだー! シュクルリーヴル逃げ切ってゴールイン!』
「す……すごい……。シュクルリーヴル、アルテフェリーチェに勝っちゃった……」
現地の悲鳴が少しずつ「おめでとう」に変わり、優勝した人馬に届けられる。
「すごいレースだった……」
やはり、アルテフェリーチェの走りは素晴らしい。人を惹き付ける魅力があり、実際に目を離すことができない。応援して推しているのはムジークヴィントだが、亜由美は初めて見た時からアルテフェリーチェの走りに魅了され続けている。競馬に触れるきっかけになった馬は、やはり強烈な印象を与えるものだ。
そして、それを退けたシュクルリーヴルの逃げ切り。とんでもないものを見た。亜由美はまだ呆然とテレビを見ていて、その場を動くことができない。
これからムジークヴィントが駆けて行く先には、彼らのような強い先輩馬が何頭も待ち構えている。そう思うと、期待と不安で頭と心がいっぱいになった。
テレビでは芸能人達の馬券予想の結果が発表されていた。シュクルリーヴルをイチオシにしていた男性タレントが喜んでいる。『アルテフェリーチェ春古馬三冠達成ならず……!』という男性アナウンサーの言葉に、女性タレントが『本当に難しいんですねぇ』と続ける。
亜由美は改めて着順を確認する。三着に十三番人気の馬が入っていた。一、二着は上位人気だが、三連単や三連複、ワイドの配当が思ったよりも高額になっていそうである。
「すごい。予想。予想、私もしてみようかな。でも難しそうだし、手を出したら戻れなくなりそうだな……」
払戻金と最終オッズを見比べて難しい顔をしている亜由美の前のテレビでは、シュクルリーヴルがアルテフェリーチェから逃げ切るリプレイ映像が流れていた。




