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9R 薫風跳び越えて

 日本ダービー当日。有馬記念の時のように、亜由美の家に香奈が来ている。すっかりムジークヴィントのグッズに染まってしまった部屋に通され、香奈は亜由美の本気度に圧倒されると同時に沼に落ちる一押しをした自分のことを誇りに思った。この部屋には、これからもっとムジークヴィントもしくは他の馬達のグッズが増えて行く。


 テーブルの上に転がっていたホープフルステークスと皐月賞のムジークヴィントのアクリルスタンドをよけて、亜由美はお茶とお茶菓子を並べた。買い置きしておいたたくさん入ったお得なティーバッグの紅茶と、土曜日に買って来たちょっぴりおしゃれな輸入物のクッキーだ。


「あぁ、勿体ない。アクスタどけちゃう前にテレビと一緒に写真撮ればいいのに」

「テレビと?」

「ほら、パドックですよ」


 クッキーを一つ摘まみながら、香奈がテレビを指差した。今日のダービーに出走する馬達がぞろぞろとパドックに登場し、ぐるぐると回り始める。一番のムジークヴィントはトップバッターだ。


「ほら、ほら駒村さん。早く撮らないと次の子になっちゃう」


 アクリルスタンドを並べ直し、ティーカップ越しにテレビの写真を撮る。テレビに映るムジークヴィントの姿は写真の中では少しぼやけてしまったが、絵としては香奈が満足する出来上がりのようだった。亜由美はスマホの画面を見つめて、首を捻る。


「これでいいの? 芝崎さんはこういう写真が好き?」

「はい。グッズと一緒に実物を写真に収めるのわたしは好きですよ」

「へぇ、そういう楽しみ方もあるんだ……」


 亜由美は改めてアクリルスタンドを棚によける。


 テレビの中のアナウンサーが馬の紹介をしていた。


『一番、ムジークヴィント。皐月賞馬です。昨年のホープフルステークスも制しています。GⅠ三勝目、クラシック二冠なるでしょうか。馬体重は……』


 画面の中を移動して行くムジークヴィントの姿を亜由美は目で追う。鹿毛の馬体はいつも通りぴかぴかで、厩務員に引かれながらゆっくりと歩いている。皐月賞の時は観客のことを気にしてきょろきょろしていたが、今日は落ち着いている様子だった。


 クッキーを一つ指先で摘まんだまま、亜由美は画面に齧り付くようにしてムジークヴィントの姿を目に焼き付けている。別の馬が紹介されている時でも、画面の隅にムジークヴィントが映り込むとそちらに意識が向いた。


「わたしこの後の京都のレースも気になってて。ちょっと気になってる子が出るんですが……。……駒村さん。……駒村さん? 駄目だ、もうヴィントくんしか見えてない」


 画面が切り替わって京都競馬場の様子が映し出される。


「わぁ、始まった! 安土城ステークス!」

「好きな子が出るの?」

「あ、画面からヴィントくんがいなくなったらいつも通りの駒村さんですね」

「え……?」

「このレースにはクルリちゃんのお姉さんが出るんですよ」

「へぇ、どの子?」


 香奈は三番のゼッケンを着けている芦毛の馬を指し示した。白が混じった灰色の馬体。芦毛の馬は年を重ねると共に白くなって行くのだと香奈は亜由美に説明をする。


 シュクルリーヴルの姉、ムジカカネル。背に乗る騎手が着ている勝負服は亜由美にとって見覚えのあるものだった。赤をベースにした勝負服である。


「この子……ムジカカネル? 勝負服がムジークヴィントと同じだね」

「そうですよー。オーナーさんが同じなので」

「シュクルリーヴルの兄弟なんだよね?」

「はい、お姉さんですよ。兄弟や姉妹だからってオーナーさんも同じとは限りませんよ。同じお母さんから生まれても、誰が買うかは分かりませんし」

「へぇ……」


 ゲートが開いて馬達が走り出した。


「クルリちゃんとお姉さんはオーナーも違いますし、お父さんも違いますし」

「お父さん違うの!?」

「よくあることですよ」


 テレビの画面を見たまま香奈は答える。亜由美の言葉は耳に届いているし応答もするが、目は画面の向こうの馬に釘付けである。


 最終コーナーを回ったところで、ムジカカネルは前から二頭目。先頭の馬は勢いよく逃げていたものの、疲れて来たのか徐々に下がって来ている。そして最後の直線。先頭に立とうとしたムジカカネルだったが、後続の馬達に次々と追い越され結果は七着となった。


「あぁっ……。うん、また応援しよう。……さあ、駒村さん! 次はいよいよダービーですよ!」


 香奈は普段馬券をしまっている小さなクリアファイルをバッグから出した。テーブルの上に広げられるのは十八枚の単勝である。


 全部!? と亜由美が声を上げている目の前に、さらに馬券が広げられて行く。エイアイバイレとムジークヴィントの応援馬券と、ムジークヴィント軸のワイド流し、そして適当に選んだ三連複一つ。合計二十二枚。


「な、何!? 買い過ぎじゃない!?」

「いつもは応援とかだけなんですけど、今日はちょっと予想もしました! ダービーですからね! お祭りなので! 有馬と宝塚もこうですよ!」

「芝崎さんってすごいね……」


 最後に丁寧な動作でクリアファイルから取り出されたのは亜由美が頼んでいたムジークヴィントの応援馬券とエイアイバイレの複勝である。


「はい、駒村さんの分」

「ありがとう」

「追加で買った子はいるんですか?」

「ううん。今回はこれだけ。どの馬も強そうに見えるから悩んじゃって。みんなダービーに向けてたくさん頑張ったんだなって思ってさ、選べなかった。……あ、みんな出て来たね」


 誘導馬の後ろに続いて出走馬達がコースに姿を現した。


 速水騎手の合図でムジークヴィントは元気よく駆け出し、観客の前に登場した。亜由美は「来た!」と声を上げる。


『目指せクラシック二冠目。若武者乗せて、今日も旋風吹き荒れるか。一番ムジークヴィント。鞍上は速水勇樹』

「か、かっこいい! かわいい!」

「走っている様子もいつも通りで調子良さそうですね。うん、やっぱりヴィントくんが一番のライバルになりそう……」


 観客の拍手と歓声に迎えられて、十八組の人馬がターフを駆ける。


 早くゲートに入ってくれ。まだもう少し始まるまで待ってほしい。今すぐゲートが開いてくれ。心の準備が。走っている姿が見たい。ドキドキする。色々な感情と共に、現地のファンとテレビやラジオ等の前のファンが不思議な一体感に包まれていた。十八頭が走り出す瞬間を、皆が固唾を飲んで見守る。


 東京十一レース、東京優駿・日本ダービー。ファンファーレが鳴り響き、輪乗りをしていた馬達がゲートへ入り始めた。


 立ち止まって鬣を風に揺らしていたムジークヴィントは、速水騎手の合図で静かにゲートに入る。


「手、手が震えそう」

「ドキドキしますね! みんな頑張れ! 全人馬無事に!」


 全ての馬がゲートに入り、ほんの一瞬沈黙が訪れる。


『――スタートしました!』


 選ばれし十八頭がゲートから勢いよく飛び出した。


 綺麗に揃ったスタート。逃げの戦法が得意な七番と十二番が先頭争いを繰り広げながら、全体を引っ張って行く。テレビ越しの現地の歓声が亜由美の部屋に響いた。


 六番エイアイバイレは三番手。先行が得意なエイアイバイレのいつもの位置である。先行馬集団の最前、逃げ馬達のすぐ後ろの順番を取り、後方を振り払って前方を追い抜くタイミングを見計らう。


 一番のムジークヴィントはスタート直後に他の馬達に飲み込まれ、いつもより後ろの十六番手。


『皐月賞馬ムジークヴィントは後方になりました』

「う、後ろ過ぎる!」

「内枠なのが響いてるかもしれないですね」

「エイアイバイレは前の方か」

「逃げ馬がいない時は先頭に立っちゃうくらいなので」


 向こう正面を走る馬達に大きな動きはなく、ほぼそのままの順番で進んで行く。逃げ馬二頭が馬郡を引き延ばしており、ペースは速い。


 第三コーナーに差し掛かる手前でエイアイバイレが動いた。逃げ続けて疲れの見えて来た二頭との距離を徐々に詰めて行く。それに続いて他の馬達も前へ向かって動き出した。ムジークヴィントは先程よりは位置を上げているものの、まだ後ろの方である。


『大ケヤキを越えて、ここでエイアイバイレ先頭に立ちました。ムジークヴィントはまだ後ろの方』

「バイレくん頑張れ! 頑張れ!」

「ムジークヴィント! 頑張れ!」


 最終コーナーを回り、最後の直線に入る。先頭はエイアイバイレのままである。亜由美と香奈は「頑張れ!」を繰り返す。テレビの向こうの現地のファン達の歓声も大きくなる。実況のアナウンサーの声にも力が入る。


 逃げ疲れた七番と十二番が馬郡に沈んで行く。先頭をひた走るエイアイバイレに後続が食らい付いて行く。エイアイバイレ、八番、十六番、三番、九番の順に直線コースを進む。


『残り四百メートルを切りました。先頭は依然エイアイバイレ』


 先頭集団の後方では、残りの馬達が塊になって追い込んで来ていた。頑張っているが十七番が下がって行く。少しずつ前へ進んでいたムジークヴィントは、まだ前が壁だ。


「ムジークヴィント! 頑張れ! ヴィント!」

「バイレくん! バイレくん! バイレくん!」


 残り二百メートル手前。塊が少しばらけて来たところで、内ラチ沿いに閉じ込められ続けていたムジークヴィントの前にスペースができた。自慢の末脚が時は来たと言わんばかりに炸裂する。


『内を突いてムジークヴィント! すごい脚で上がって来る! 残り二百メートル! ここで来た一番ムジークヴィント! 先頭は六番エイアイバイレ! 三番手に十六番イリュミナシオン! 迫るムジークヴィント! エイアイバイレ! ムジークヴィント!』


 実況と一緒に、互いの応援する馬の名前を亜由美と香奈は叫ぶ。スタートした直後には手を伸ばしていたクッキーは既に放置され、紅茶もおとなしくカップに収まっている。二人の間に会話はない。見えているのはターフを駆ける馬の姿だけだ。


 ムジークヴィントとエイアイバイレの体が並んだ。その次の瞬間、二頭の距離が一気に離れた。ムジークヴィントの勢いが止まらない。香奈が悲鳴を上げる。


『ムジークヴィント先頭! ムジークヴィント先頭! ムジークヴィントっ、ゴールインっ!!』

「やったー!!」


 ゴール版を駆け抜けるムジークヴィントと速水騎手。馬上で速水騎手は大きくガッツポーズをした。


『この風を止められる者はいないのかっ! ムジークヴィント二冠目! 速水勇樹日本ダービー初制覇!』

「ムジークヴィントおめでとう!」

『二着に六番エイアイバイレ、三着に十六番イリュミナシオンが入っています』


 テレビの向こう、東京競馬場に集まったファン達の大きな歓声が響く。


「あ……。あぁっ、ムジークヴィント! ムジークヴィントおめでとう! やった! やったー!」

「あー、二着……。惜しかった……。お疲れ様、バイレくん。おめでとう、ヴィントくん」

「ムジークヴィント、ダービー馬になったんだ……」


 感動と興奮に亜由美は打ち震える。まだ何も分からない時に見た去年のアルテフェリーチェのダービーは、何も分からないのに衝撃的なものだった。今、ムジークヴィントのことを追い駆けて目にした今年のダービー。それはあまりにも強烈で、亜由美の心を鷲掴みにして離さなかった。テレビの画面から目が離せない。画面に映るムジークヴィントと速水騎手が頭に焼き付いて離れない。


 ムジークヴィントと速水騎手のウイニングラン。観客席からの大歓声に迎えられて、速水騎手が大きく手を振り上げるとさらに歓声が大きくなった。ムジークヴィントは弾む足取りでスタンド前を歩いている。


 どうして、自分は今あの場にいられないのだろう。抽選に落ちた香奈を責めるつもりは毛頭ないが、亜由美はテレビの向こうの観客に羨望の眼差しを向けていた。もし、自分があの場にいられたら。それならば、どんなに幸福なことか。けれど、あの場にいたら自分は歓喜のあまりおかしくなってしまうかもしれない。家でよかったと思うべきだろうか。嬉しそうにしているように見えるムジークヴィントを見つめながら、亜由美はクッキーに手を伸ばした。


 ムジークヴィントがダービー馬になった。まだ夢を見ているようで、どこかふわふわした感覚だった。テレビは馬券予想をしていた芸能人達の様子を流しているが、亜由美の耳に彼らの結果は入って来なかった。作業をするように、淡々とクッキーを食べる。


「バイレくんは負けちゃったけど、いいレースでしたね。次はヴィントくんを負かしてやりますから! って、駒村さん? 駒村さん、わたしの分のクッキーがなくなっちゃう!」

「あっ? あぁ、ごめん。なんか、なんか嬉しすぎてなんか変な感じになっちゃってた」

「いい。いいですよねぇ。いいですよね、それ。推しの活躍で体中が震えて、揺さ振られて、堪らないっ! でもなるべく早く現実に戻って来てくださいね。ほら、速水騎手のインタビュー始まりましたよ」


 インタビュアーからの質問に速水騎手はにこやかに答えている。甘いマスクの素敵な笑顔に、またファンが増えそうである。


『――ヴィントが頑張ってくれました。皆さんも彼を褒めてやってください』


 これからも応援よろしくお願いします、と締めくくり、速水騎手はにこりと笑った。


 ゴール前のリプレイ映像が流れる。


「ようやく……ようやく実感して来たかも……。勝ったんだね、ムジークヴィントと速水騎手……」

「はい、勝ちましたよヴィントくん達」


 ムジークヴィントとガッツポーズの速水騎手の姿が改めて画面に流れる。風を奏でて駆ける姿に、多くの人々が魅了されたことだろう。その中でも自分は一、二を争うレベルに感激しているのだぞと思いながら、亜由美は人馬の勇姿を穴が開くくらい見つめ続けた。


 今日も私の推しは輝いている。今日は誰よりも輝いていて、皆が大いに祝福していた。


 亜由美の推し馬はその日、クラシック二冠馬となった。残りの冠は、あと一つ。

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