「会社サボって海を見に行こう」と思い、本当に海に行ったら課長がいたんだが
朝の満員電車に揺られ、俺は通勤していた。
あと10分もすれば会社のある駅につく。
この時、俺の中にふとこんな思いがうずいた。
会社に行きたくない――
こんなことは会社勤めの人ならば、誰しも思ったことがあるだろう。別に珍しいことではない。みんなこんな思いを抱えつつ、それを乗り越え会社に向かうのだ。
しかし、今日の“これ”はことのほか強烈だった。
なかなか頭の中から離れない。
やがて、この思いはこんな形に変貌する。
会社サボって海を見に行こう――
無性に海が見たくなった。
電車は会社がある駅に近づいている。
俺はサボりたい欲求を振り払おうするが、なかなか振り払えない。
まもなく駅に着いてしまった。
ここで降りなければ……。
俺は電車から降りられなかった。
いや、まだ大丈夫。すぐ次の駅で降りて引き返せば……もちろんそれもできなかった。電車は会社からどんどん遠ざかっていく。
やがて、引き返しても遅刻は免れないところまで来てしまった。こうなると俺の中でも開き直りの気持ちが芽生える。
「もういいや!」
俺はスマホの電源を切った。
これで会社から電話がかかってくることもない。
俺は重たい上着を脱いだような清々しい気持ちで、いつの間にかガラガラになっていた椅子に腰かけた。
この路線を終点まで行けば、海が近くにある駅に着くのは分かっている。
俺は入社して初めて、“サボり”をしてしまった。
***
終点の駅に降り立つ。
普段使う駅と違い、質素で、人もほとんどいない。だが、それがかえって風情を感じさせてくれる。
キヨスクに立ち寄ると、俺はビールを買った。
こんな朝っぱらからビールを買うスーツ姿の男など明らかに異常だろうに、店員のおばちゃんは淡々としたものである。客に興味を持っていないのか、あるいは俺みたいな客は多いのだろうか。
缶を開け、一口飲む。
「ぷはーっ!」
うまい。会社をサボって飲むビールのなんと美味いことか。
同時にこれで完全にレッドラインを越えたなと感じる。俺は酒に弱くすぐ赤くなるので、この状態で会社に行ったら飲酒していたのはバレバレである。そうなるともはや課長に怒られるぐらいでは済まないかもしれない。
そもそも無断欠勤がかなりまずい。
今日の予定を冷静に思い返すと、午前中には部長も交えた営業部会議が、午後には取引先と打ち合わせがある。
会議は俺無しでもどうにでもなろうが、打ち合わせをバックレるのはやばすぎる。
どうせならもっと予定がない日にサボればよかった。
この期に及んで保身を考えている自分の小ささにも呆れる。
ビールを飲んだことで体が火照るどころか、かえって冷や汗が出てきてしまった。
「いや……今日はサボるって決めたんだ!」
俺はビール片手に駅を出る。歩いてすぐ砂浜が見えた。
砂浜に体育座りし、海を眺める。
水平線が美しい。空は果てしなく広がり、波の音が聞こえる。砂の感触が心地よい。
「いい眺めだ……」
先ほどまでの不安がどこへやら、やっぱり来てよかったという気持ちにもなってくる。
俺はビールを飲む。
すると、俺と同じようにスーツ姿で砂浜にたたずんでいる人がいた。海岸で仕事をしているとは思えない。酒が入って気が大きくなっていたのもあり、俺はその人に話しかけてみることにした。
「おはようございます。あなたもサボりですか?」
「ええ、まあ」
男が振り返る。俺は目を疑った。
「か、課長……!?」
男は課長だったのだ。
なんでこんなところに。意味が分からない。まさか俺のサボりに気づいて追ってきた?
思考が超高速で駆け巡る。
「君こそ……!」
向こうも驚いていた。
それはそうだ。本来とっくに出勤しているはずの部下が、海岸にいるのだから。
しばらくお互いフリーズしていたが、先に我に返ったのは課長だった。
「そうか……君もか」
「え」
「私もね、今日はふとサボって海を見たくなってしまったんだよ。それで、この海岸に来ていたんだ」
そうだったのか。
真面目一徹。他人にも自分にも厳しい人だと思っていた課長にもこんな一面があったとは。
「ところで、それ……」
「あ!」
課長が俺の持っている缶に気づいた。
サボって海に行くだけならともかく、さすがにビールはやりすぎたか。
と思いきや、
「実は私も買ったんだよ」
課長も缶ビールを持っていた。
二人とも苦笑いしてしまう。
「よかったら乾杯でもしないかね?」
「ええ、しましょう!」
俺たちはサボッてビールを買った者同士、乾杯をした。
課長に出くわしたのには、最初はビックリしたが、今は心が軽くなっている。
思わず笑顔がこぼれてしまう。
「いやぁ、驚きですよ。まさか課長がいるなんて」
「私もだよ」
ビールをぐいっと飲んでから、課長がぼそりとつぶやいた。
「たまには……本当にたまにはこんな日があってもいいんじゃないかな」
「そ、そうですよね!」
俺も同意する。
しかし、気がかりなこともある。
「午前中の営業部会議……係長が大変でしょうね」
「うむ……」
課長がいないとなると、ウチの課からの報告については係長が仕切ることになる。
なんの予告もなくそんな役にさせられて、係長も混乱することだろう。
俺も課長もなんとなく気が沈んでしまう。
俺はふと顔を上げる。
砂浜を係長が歩いていた。
奇遇だ。まさに噂をすればなんとやら。いや、ちょっと待て。
一瞬意味が分からなかった。だが、目をこすってみてもそれはやはり係長だった。
「えええええ!?」
俺に遅れて課長も気づく。
「なんで君がここに……!?」
俺たちの声に、係長が振り返る。
「二人とも!?」
係長の驚きぶりから察するに、俺や課長を追ってきたわけではなく、係長もたまたまこの駅に来ていたようだ。
三人でしばらくフリーズしていたが、最初に解凍されたのはやはり課長だった。
「君も……つい出来心でというわけか」
「ええ、まあ。海を見たくなってしまって」
係長も笑顔で答える。
「そうだ、君も一杯どうだね?」
「いえ……酒はあまり飲めないんで」
「そういえばそうだったね」
海岸に俺のセクションの課長、係長、そして平社員が集まってしまった。
オフィスのデスクが寂しい光景になっているのが想像できる。
そんな光景を想像しながら、俺は一人のOLさんのことを思い出していた。
「しかし、こうなると営業アシスタントの吉田さんが心配ですね」
ウチの課には吉田さんというOLがいる。俺と同世代の優秀な女性で、俺も課長も係長も彼女に助けられたことは数多い。
「うむ、我々三人がいないと、彼女は困ってしまうだろうな」
「そうですね、心苦しいです」
課長と係長も思い悩んでしまう。
「やっぱり会社に戻った方が……」
今更ながらこう提案しようとした俺の視界に、一人の女性が映る。
華やかなワンピースを着た美しい女性。しかし、どこかで見たことある。
「ん……吉田さん!?」
「えっ!?」
向こうも俺に、いや俺たちに気づいた。
「皆さん何をしてるんですか!?」
「いや、それはこっちの……」
話を聞くと、吉田さんも通勤していたら会社をサボって海を見たくなり、ここに来てしまったという。
「まさか課のみんながいると思わなかったわ」
吉田さんが笑う。
笑った顔が特に可愛いんだよななどと思ったが、笑ってる場合ではない。
俺は今の状況を改めて確認する。
「吉田さんまでいるということは、ウチの課はからっぽ状態ってことですね」
「そういうことになるね」と係長。
「オフィスにいる部長がそれを知ったらどうなるか……部長は怒ると怖いんだよな」
なぜかどこか他人事のような課長。
しかし、言ってることはもっともで部長は怒らせるとマジで怖い。機嫌が悪い時の営業部会議のピリピリ感は半端じゃなく、客からのクレームの方がまだマシと思うほどだ。
今日の部会議をすっぽかしたらどうなるか、俺も係長も不安になる。
ところが、吉田さんは平然としたものだ。
「大丈夫よ」
「なんでそんなこと言い切れるんだ?」
「だってあそこ」
「え……」
吉田さんが指差した方向にはなんと――
「部長!?」
部長がいた。
あの閻魔大王を思わせる強面、間違いなく部長だ。
「部長!?」
「なぜ!?」
係長と課長も驚いている。
もちろん、部長もこっちを向いて目を丸くしている。
「なんでみんなここにおるんだ!?」
「部長こそ……!」
俺の上司、部長、課長、係長が揃ってしまった。揃ったからといって、何か役が完成するわけではないのだが。
部長もやはり会社をサボってしまったようで、豪快に笑っている。
「ガハハ、みんなサボってしまったというわけか!」
まあ本人もサボってるのだから、俺たちを怒るわけにはいかないだろう。
部長がいないのなら営業部会議は成り立たない。今日俺がちゃんと出勤してたらどういうことになってたんだろう、という思いも湧いてしまう。
とにかく、俺たちはみんなサボりの共犯となってしまったわけだが、まだ問題は残っていた。
俺が考え込んでいると、課長が話しかけてくる。
「どうした?」
「俺、今日の午後打ち合わせがあるんですよ。取引先の人と……」
「ふーむ、打ち合わせか。それはまずいな」
会議なんか所詮内輪のことだからどうにでもなるが、社外の人との用事はそうはいかない。
打ち合わせをすっぽかしたら、取引停止されても文句は言えない。少なくとも信頼は地に墜ちる。謝罪や菓子折りでも挽回は出来ないだろう。
「でしょう? だからやっぱり今からでも会社に向かおうかと……」
「まあ、そう焦るな。もう少しゆっくりしてからでもいいんじゃないか? 例えば、この海岸には我々以外にも来ている人がいる。その人に“どうすべきか”聞いてみるとか」
およそ上司らしくないギャンブルじみた方法を提案してくる。
皆がこの砂浜にサボりに来ているという状況にだいぶ毒されているらしい。
とはいえそれは俺も同じだったようで、
「それいいですね。今から適当な人に話しかけて、その人が“会社に行け”といったら行く、“このままサボれ”といったらサボりますよ」
そういって俺は競馬でどの馬に賭けるか考えるような心持ちで砂浜を歩き、なんとなく後ろ姿にひかれた男に話しかけた。
「すみません」
「なんでしょう」
振り返った男に、俺は絶句した。
男もまた、俺を見て絶句していた。
「あ……!」
男は俺が今日打ち合わせするはずの取引先の人だったのだ。
なんでここに……と思ったが、もうそんなこと分かっている。この人も電車に乗っている時に魔が差し、サボって海を見に来てしまったのだろう。
「どうやら二人とも……海を見に来ちゃったみたいですね」と俺が言うと、
「そのようですね」取引先も苦笑する。
あとはもう笑うしかなかった。
もちろん、この日の打ち合わせはキャンセルということになった。片方がドタキャンするのは問題だが、両方がドタキャンするのなら問題ないはず。多分。
打ち合わせは後日ということになり、俺は課長の元に戻る。
「今日はとんでもないことになっちゃいましたね。俺も課長も、みんなサボって……」
「どうやら、今日はそういう日なのかもしれないな」
「え?」
「見てみろ。ほら」
課長に促されて海岸を見ると、いつの間にかものすごい数の人間がいた。
スーツの人間、制服の人間、作業着の人間、私服の人間……それぞれどんな職業かまでは分からないが、分かることもある。
みんな、ふと仕事が嫌になって海を見に来たのだと――
課長は歯を見せて笑った。
「たまにはいいんじゃないか? こういう日があっても……」
「そうですね。たまには……」
さっきも言われた言葉だが、俺は心からうなずいた。
会社をサボってみんなで海を見に行く。
たまにはこんな日があったっていいじゃないか。
おわり
お読み下さりありがとうございました。