二項対立の最たるもの
ルネ・ジラールの「欲望の現象学」ではロマン主義が特に告発されている。ロマン主義は「何でも善悪二元論で考えたがる」と指摘されている。
ロマン主義の問題は、現代の人間には他人事ではない。ジラールはこの問題を押し広げて、様々な問題を解いているが、私の感想だけを書いていこう。
ジラールを読んで痛感したのは、人は真実を掴まない限り、いつまでも安心できないという事である。その事がよくわかった。
真実とは何かと言えば、二項対立を貫くあるものである。それがわからなければならない。現代でも、ただひたすら二項対立による不毛な対立、論争が続いている。善と悪であるとか、右翼と左翼とか、男と女とか、勝ち組と負け組とか。色々なバリエーションに富んでいる。その全てが二元論的発想で行われている。この論法で運動している限り、人は安らぎを得る事はない。
彼らは論争している相手が実は自分の味方であるとは気づかない。それは相手があってはじめて成り立つ。悪を消滅させようと必死に運動している人間から悪を取り上げてしまえば、彼は、新たな悪を内外に見つけるだろう。それがどんな些細な事でも、例えば、一分遅刻したとか、挨拶の時に声が小さかったとか、何でもいいがそうした事で相手の首を吊るそうとするだろう。現実にこうした人間は沢山いる。彼らは自分が自分と戦っている事に気づかない。
例えば、私が「年収一千万以下は人間ではない」と声高に言ったとする。そうすると様々な批判が飛んでくるだろう。その批判も予想できるものばかりだ。年収一千万以上の人間は、私の言説を見て密かに満足を覚えるかもしれない。だがその満足は公にできないから、黙っている事だろう。
この時、何故、年収一千万で九百五十万ではないのか?とか、あなたの言う「人間」とはどういう内実なのか?、と問う人間はおそらくいないだろう。実際には年収一千万というのはあまりにも恣意的だ。また、人間という概念もはっきりしていない。それなのに人はその意味を問う事をせず、論争を始める。そこでは、誰かが勝手に引いた線であっても、二項対立が現れるからであって、そうなると敵ーー味方に分かれて戦うゲーム、我々におなじみなこのゲームに、人々は参加していく。
意味はわからなくても、このゲームに参加するのは簡単だ。どっちかの陣地に入って石を投げればいい。勝てそうなチームに後から入って、一方的に石を投げれば快楽も大きいだろう。このゲームは手頃だ。だが、このゲームの中に真実はない。
別の例を出そう。我々が望んでいるような幸福、社会的栄達、暖かい家庭、自分のした事が他者に認められる事。そうした事をどれだけ達成してもやはり安心は得られない。何故かと言えば、幸福と呼ばれるものに近づけば近づくほど、その反対である不幸に突き落とされる恐怖も増してくるからだ。自分の子供がすくすくと何の障害もなく育つと、その子供が事故などで亡くなった時の衝撃は計り知れない。ここに存在するのは、幸福と不幸の二項対立である。幸福を育てる事は、その反対の不幸を育てる事でもある。
最近は受験が流行っているようだ。進学塾のCMもよく見る。そういうCMでは、「ステップアップ」とか「明るい未来」とか言った言葉がよく使われる。しかし、勉強して、合格して、明るい未来に到達する。その道を指し示せば指し示すほど、その反対の、道から外れた時の悲惨さも強調する事になる。この道は明るく、希望に満ちていて、未来は幸福であると人は言う。ではその道から外れたらどうなるか、とは人は答えてくれない。メディアも答えない。彼らはこの人物を無視する。道から外れたこの人物は、世界への復讐として通り魔事件でも起こす他ない。
…私が言いたいのは、世界のある部分を白く塗り上げるという事はそれ以外の黒を強調する事でもある、という事だ。希望や幸福と、血塗られた絶望とは、表裏で人間の本質を形成している。その一方だけを取り上げても、問題解決は訪れない。
世界はこのような二項対立で満ちている。うんざりするほど満ちている。そうして真実を語る人間はほとんどお目にかかれない。もしいたとしても、彼はゲームの参加者ではないから、ゲームに参加したくてうずうずしている人からすれば、面白い存在ではない。「誰しも考える事はしないのに、意見だけは持ちたがる」と昔の哲学者は言った。意見を持つというのは、誰にでもできる簡単なゲームだ。
二項対立について語っていたら、きりがないので重要な部分だけ言う事にする。上記のような事については、以前の私でも薄々気づいていた。しかし、次に言う部分は、気づいていなかった。そうしてその事が、この世界における最も根源的な二項対立であり、最も気づかれにくい、人間の心性に深く根を下ろした二項対立であると思う。
それは何かと言えば「私」という観念である。「私」は「僕」「俺」でも構わない。「私」は「世界」と対になっている。あるいは、「世界」の部分には違う言葉を入れてもいい。「あなた」「彼氏」「父」「他人」「ヤマダヒフミ」などなどだ。要するに、「私(自己)」VS「世界(他者)」という関係性である。
この二項対立が、最も、抜き難い二項対立であると思う。ジラールのドストエフスキー論や、萩原俊治のドストエフスキー論を読んでその事がやっとわかった。この「私」は、あまりにも広がりすぎ、あまりにも一般化されたので、それが虚妄だというのを見つけるのは恐ろしく難しい。「これは私のもの」「これは私の権利」と言ったその全てが、根源的な二項対立を形成している。この対立が、現実に生活している上で必要なのは私も認めるが、それは真実を多い隠す最後のマーヤーなのだ。この虚妄に気づかない限り、人に安寧は訪れない。
ドストエフスキーが牢獄で発見したのもこの真理だった。彼は、自分のエゴイズムにある時、気づく。ジラールはそれを一つずつ丁寧に辿っている。エゴイズムは、利他主義の形を取るとジラールは言っている。この文章では細かく解説できないが、利己主義はサディズム・マゾヒズムという歪んだ愛他精神に変わっていく。
例えば、国家とか、何でもいいが巨大なものに自分の命を捧げる人物を思い浮かべてみよう。彼は、利他的な行為をした人間として称賛されるだろう。だが、実際には彼は彼という存在の小ささをより大きなもの、巨大なものに捧げて、永遠なるものと融合しようとする彼自身の「エゴイズム」を捨てきれていない。
私 (ヤマダヒフミ)が世界を救う英雄だと今、考えてみよう。最近のアニメ・ゲームを思い浮かべてもらってもいい。私は世界を救うために、自分の命を殺す。その際、英雄である私は、私が世界を救う事によって世界の一部となり、人々が私を称賛してくれるのを心のどこかで望んでいる。そう望むのをやめる事はできない。結局、私は私を取り除いた世界を想像できない。私は私が何の意味もない存在だと考える事はできない。それはあまりの恐怖を呼び起こす。私は死後にあっても、私自身を忘れていない世界を想像するのだ。私はあまりにも私に囚われている。
ドストエフスキーはこうした「私」概念の変形をはっきり見て取った。ロマン主義的な、自己献身の背後に利己主義が隠れているのを洞察した。何よりも、彼はその利己主義を彼自身の中に発見した。「カラマーゾフの兄弟」のイワンは、隠れていた自分の罪にだんだんと気づいていく。自分の罪に気づいていくという過程こそが、真実を知る過程なのだ。
オイディプス王の頃からそれは変わっていない。ドストエフスキーは心理的にはイワンと同じ道を歩いた。ドストエフスキーは、我々に何を語っているのか。それはイワンは(ドストエフスキーは)あなた自身だ、と語っているのだ。我々みなが罪を負っている、その事に気づかなければならない、とドストエフスキーは言っている。しかしそれを人は他人事として、面白いとか面白くないとか言って読むだろう。だから本を閉じた時、その人の中に何も残らない。彼らが自分自身を振り返る時は遂に来ない。
※
最初に戻ってこの文章は終わる事になる。だから、最初に言った「真実」とは、世界のあらゆる対立が「私」概念から発生しているという事だ。
トルストイは、自分の罪を悟った時、「懺悔録」を書いた。トルストイは真実を掴もうと焦ってもがいた人物だったが、遂にそれをつかめなかったのだと思う。「懺悔録」は、懺悔する事によって自分が許されたいという私概念の変形に過ぎない。自分の全財産を世界に放り出しても状況は変わらない。ドストエフスキーは「懺悔録」を書かなかった。それを書く事は、自分の罪を認める事にならないと知っていたからだ。
逆に、「悪霊」の主人公スタヴローギンは、懺悔した文章を書いて僧侶チホンに見せるが、チホンはその背後にあるエゴイズムを見て取る。スタヴローギンは、懺悔それ自体をも自分の悪行と同じような力の行使とみなしている。私概念の力の行使である。スタヴローギンに真実は掴めない。
スタヴローギンの例にも見て取れるが、悪行と善行は実は同じ事柄の表裏である。その根底にあるのは自己の発生、「私」という概念の発生である。これは動物にもその芽は見られるのだが、人間という種が思念によってそれを強化したのだろう。その事に、ブッダやキリストといった聖人は早い段階で気づいたのではないかと思う。キリストは自己を滅する行為によって、私概念の消去という無理を実行し、ブッダはただ静かにそれを悟った。全ての問題は生誕そのものにあるとブッダは知っていた。
だとすると、聖人や賢者が言っていた事は、同じ事だったのではないか、と今では思っている。私は現代が全て進歩した時代だとは思わない。むしろ、自己という概念がより強化された為に、人間関係はよそよそしく、互いに牽制しあうとともに、互いに互いを所有しようという闘争になってきている。各人は孤独であり、その孤独から抜け出せない。要するに世界は、「罪と罰」でラスコーリニコフが見た旋毛虫の夢そっくりになってきているのだ。