思考の重力 あるいは蠱毒の作法
思考は自由である。
それは質量を持たず、重力の影響も受けず熱や電磁波や磁場、その他様々な物の影響を受けず自由である。
思考は現実から完全に自由であり、ゆえに現実はなんの関連性もない。
論理的に正しいことと現実に即していることとは、なんの関係もない。
現実とは乖離しているが、論理的には正しいなんてことは普通にある。
哲学やなにやらが説得力を持つのは、巨大な質量が重力を放つように哲学に至るまで圧縮、凝縮された思考が重力を放つからであって、内容はまったく関係ない。
論理的な事柄を凝縮することはできても、不合理なこと、意味脈絡のないことを凝縮することは人には無理だから結果として意味の通ることだけが凝縮され、見かけ上は正しく思えるってことだけだ。
ああ、なるほど、呪物ってのはそうやって作ればいいのか。
悪意やら怨念やらを哲学に至るまで凝縮された思考が重力を放つように、それ自体が毒を放つまで圧縮すればいいんだ。
蠱毒がそうじゃん。
無数の毒蟲を集めて、同じ壺に入れ最後に残った一匹を呪いに使うってあれ。
あれは毒蟲を集めろってことじゃない。
そんなことしたってかぶれるか、腫れるか、くたばるか、するだけじゃん。
無数の毒蟲を集めて競わせるがごとく、悪意なり怨念なりを凝縮しろってことだ。
それ自体が毒を放つようになるまで。
だから慰霊の森みたいに空中分解した飛行機から宙に放り出されて、死ぬしかない、しかし地面に激突するまではいささか時間があるみたいに絶望と死の間にタイムラグがある場所は凶悪な心霊スポットになるんだ。
タイムラグの間に絶望がそれ自体毒を放つほどに凝縮されるんだ。
で、こうゆう視点に立つといくつかの手垢のついた呪いの作法も、違う面が見えている。
もしかしてあれって本当はこうやるんじゃない?
なるほどなあ。
人を呪うってこうやるんだな。