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恋する足音  作者: 深瀬静流
9/12

第九話

 長く感じた夏も終わり、晩秋に冬の気配が混じりだすと朝晩はめっきり冷え込むようになった。

 江美は年が明けてのセンター試験に向けて受験の追い込みに入っていた。学校から帰ってきて早めの夕食をとり予備校に行って一講座九十分の授業を終え、帰ってくるのは二十一頃になる。

 洗濯物が溜まっていたり冷蔵庫の中にろくに食べるものが無かったりすると不機嫌になり、江津に電話をかけてきて八つ当たりした。そろそろ九ヶ月にはいる大きなお腹を抱えて、江津はアパートに通ってスーパーで買ってきた食材を冷蔵庫にしまい、部屋を片付け、江美のために食事の用意をした。

 江美が電話で江津にきつくあたっても江津は一人で暮らしている江美がかわいそうだったので腹は立てなかった。一人で放っておかれて寂しいのだ。いままで姉の愛情を独り占めしていたのに、その姉には江美より大切な人ができてしまった。しかも、二か月後の一月のはじめには子供が生まれる。そうすれば、姉の愛情はますます自分から離れていく。江美は姉のお腹の子供なんか、少しも大切にはおもっていなかった。両親のいない江美は、たった一人の肉親である姉の愛情を、八つ当たりすることで試していた。

 それをわかっていた江津は、お腹の重さで腰が痛くなったり足の付け根が痛んでも我慢してアパートに通った。深貴は江津を心配して一緒に行くといったが、そんなことをすればますます江美が拗ねるので深貴は屋敷で心配しながら江津の帰りを待っていた。

 江津は体は丈夫だったので産婦人科の検診も順調で、お腹の子供は元気いっぱいに育っていた。おもしろいのは、深貴が話しかけると喜んでお腹の中で騒ぐことだった。深貴と江津とお腹の子供の三人で、よくおしゃべりした。そんな楽しいひと時が、江津にとっては宝物となった。

 子供が深貴の子だとわかってからの深幸の態度は、相変わらず冷たかったが気づかいはあった。大切なのは子供のほうだけで江津のことはどうもいいのだろうが、母子は一体なので江津を粗末にするわけにもいかず、嫌々ながら江津のために車を出したり病院の送り迎えをしてくれた。

 信孝のほうは、深幸が江津のことで頭がいっぱいでほかのことに気が回らず、嫉妬や夫婦喧嘩が無くなって喜んでいた。もともと深幸は愛情深い性質で、それでなくては虚弱な深貴は育てられなかっただろう。

 深貴はもちろんのこと深幸と信孝も、江津の出産を心待ちにしていた。古志郎だけが江津など問題外という徹底した無関心さで、これはこれで割り切ってしまえば気が楽だった。

 だが、年の瀬も迫り、正月を迎え、いよいよ予定日の一月六日を明日に迎えるという日になると、何事にたいしても平然としていた古志郎が、ちらちら江津を目で追うようになった。信孝は正月の連休が明けて出社し、深幸もNPO法人関係の新年会のパーティーに出席しており、屋敷には江津と深貴と古志郎しかいないので、もし急に産気づいたら古志郎が病院に運ぶ手はずになっていた。だから独身の古志郎は無表情を装っているものの、彼なりに少しは緊張しているのかもしれなかった。

 深貴などは、入院に必要なものを詰めたバッグを何度となく開けては中身を点検することを繰り返していた。男たちのそんな様子を見ているうちに、江津は出産の恐怖が薄らいでいくのを感じた。一人ではないとおもった。みんな緊張し、心配と期待にそわそわしていた。その時が来たら、深貴も古志郎も、いの一番に江津を支えてくれるだろう。江津は安心して自分の部屋で午睡をとることにした。

 室内は、程よく暖房がきいていて心地よく、ベッドでうとうとしたときだった。なんの予兆もなく下腹部から生温かい水が漏れたので、驚いて飛び起きた。痛みはなかった。ただ、温かい水がどんどん足の付け根から流れてきて床に水溜まりをつくった。動転して江津は叫んだ。

「深貴! 深貴ぃ――」

 古志郎が部屋に飛び込んできた。深貴も入ってくる。二人はぎょっとしてその場に立ちすくんだ。

「ど、どうしたの江津。おもらししたの」

 深貴が訊ねた。

「わかんない。している感覚はないんだけど、水がどんどん出てくる。怖いよ深貴!」

「落ち着け二人とも」

 古志郎が手で制しながら続けた。

「破水したんだ。だいじょうぶ。慌てるな。俺は、この日のために妊娠出産の本を五回も読み直したから、すべて頭に入っている。それに、犬のお産に立ち会ったこともある経験者だ。まかせろ」

 そういって深貴に入院のバッグを持ってくるように指示し、江津には、着替えるよういった。モナームが走ってきて盛んに羊水の臭いを嗅ぐので古志郎が抱き上げてケージに入れに行く。病院に電話を入れてから、新しい下着と服に着替え終わった江津と深貴を車に乗せて病院に向かった。

 深貴は必死のようすで江津の腕にしがみついていたが、着いた病院の看護師に、まだまだ出産には時間がかかるので、ご家族の方はいったんお引き取りくださいといわれてしまった。深幸は江津のために個室を取ってくれていたので、帰っていいといわれたが彼らは江津と供に個室に入った。

 江津がベッドに落ち着くと、古志郎がその横に椅子を持ってきて腰かけ、深貴にあれこれ指図を始めた。

「おい。下の売店に行ってペットボトルの水を買ってこい。500ミリリットルのだぞ。それから出産は体力がいるから、なにか食い物も買ってこい」

「う、うん。なにを買ってくればいいかな。江津は何が食べたい? 果物でも買ってこようか」

 えばりくさった古志郎に呆れたが、この人ももしかしたら、そんなに悪い人ではないのかもしないと江津はおもったりした。

 破水してもすぐに陣痛が始まるわけではなく、そのままベッドに横になっていた。深貴から電話を受けた深幸と信孝もやってきた。しかし、看護師から、まだまだ生まれないので、陣痛が5分間隔になったら電話するといわれて古志郎と深幸夫妻は渋々帰って行った。ご主人もいったん家にお帰りになってはと看護師にいわれたが、深貴は頑として動かなかった。

 深貴がいてくれて心強かった。陽が沈み、江津の食事が配られたが深貴の分はないので、外に行って何か買ってくるといって深貴は病室を出て行った。

 その頃には陣痛も始まっていて、深貴の姿がなくなると不安になった。深貴はじきに帰ってきたが、膝を立てて陣痛に耐えている江津の姿に驚いてベッドに駆け寄った。

「痛いの? すごく痛い? 腰をさすってあげようか」

「それよか手を握って深貴。そばにいてね。離れないでね」

「うん。頑張ってね。赤ちゃんが生まれるまで頑張って。あッ、そうだ!」

「なに。どうしたの」

「江美ちゃんに電話するの忘れてた。電話してくるね」

「行かないで。江美には生まれてからでいいよ。いま江美は、もうすぐセンター試験で神経質になっているから」

「でも、知らせなきゃ」

「いいの」

「どうして。変だよ。姉妹でしょ。お姉さんの陣痛が始まったんだもの、家族なら何があっても駆けつけなきゃ」

 江津は顔を背けて唇を噛んだ。江美が来るとはおもえない。妊娠中もずっと無視していたくらいだ。きっと子供が生まれても喜んでくれないとおもう。反対に、それが何、と言われそうだ。急に切なくなってきて、江津はぎゅっと深貴の手を握った。

「深貴がいてくれればいい。深貴さえいれば…………」

 目じりから涙がこぼれた。

「どうして泣くの。そんなに痛いの。看護師さんを呼ぼうか」

 かぶりを振って江津は目を閉じた。涙が押し出されるように閉じた瞼からあふれ出る。そこへ看護師さんが入ってきた。

「どうですか。陣痛の間隔は何分ぐらいですか」

 そういいながら血圧を測る。

「だいたい十分間隔ぐらいです」

 深貴がこたえた。看護師は上掛けをめくって腹部を触診した。

「だいぶ下がってきましたね。頭も下になっているし、赤ちゃんも生まれる準備をはじめていますから、お母さんも頑張ってね。苦しいのはお母さんだけじゃなくて、赤ちゃんも狭い産道を通ってくるので苦しいんですよ。お母さんと赤ちゃんと、一緒に力を合わせて頑張りましょね」

「はい! ぼく、頑張ります」

 看護師さんがにっこり微笑んで深貴に頷いた。

「ええ。お父さんも頑張って奥さんを励ましてね」

 深貴は強く頷いた。江津が分娩室に入ったのは、それから三時間後だった。

 午前一時五十分。江津は無事に珠のような男児を出産した。そばに付きっきりだった深貴が緊張と過度の疲労で、子供が生まれた安心からその場に倒れてしまい、江津の個室にベッドを並べてもらって点滴を受けるしまつだった。

 江津は疲れてぐっすり眠ってしまったが、深貴は点滴を受けながら赤ちゃん用ベッドに身を乗り出して新生児に話しかけていた。

「吾子也。ぼくがお父さんだよ。はじめまして。元気に生まれてきてくれてありがとうね。大きな産声を聞いたときはとてもうれしかったよ。幸せで夢を見ているみたいだ。吾子也のお母さんは江津っていうだよ。ほんとうにステキな人なんだ。お父さんは、お母さんが大好きなんだよ。ぼくたちの子供に生まれてきてくれてありがとうね」

 深貴の静かでやさしい囁きにふと目が覚めた。薄目を開けて赤ちゃん用ベッドをみると、もぞもぞ手を動かしながら、じっと吾子也が深貴を見つめている。父親だとわかっているような表情だった。江津は再び目を閉じた。安堵と幸福がひたひたと心を満たした。江津は満ち足りた深い眠りに落ちて行った。

 深幸と信孝がやってきたのは面会時間を待ってからの午後だった。個室に入ってくるなり深幸は赤ちゃん用ベッドを覗き込んで息を飲んだ。

「ああ! 深貴に似ている。この目も鼻も口も!」

 信孝が笑った。

「それじゃあ全部じゃないか。どれどれ。やあ、かわいいなあ。目も鼻も口も江津さんにそっくりだ」

「信孝さん。どこを見てるの。深貴に似たのよ」

「おねま。静かにしてよ。吾子也が驚いて泣いちゃうよ」

「吾子也、ですって?」

「うん。わが子っていう意味の吾子也だよ。おねまは伯母さんになったんだよ。吾子也をよろしくね」

「吾子也……」

 江津はベッドに起き上がってそんな彼らを見ていた。深幸も信孝も江津には目もくれなかったが、吾子也の誕生を心から喜んでいた。江津はそっと病室を抜け出して携帯電話がかけられる場所まで移動して江美に電話した。

 冬休みも終わって学校が始まっていたので、留守電に無事子供が生まれたことを入れておいた。江美は学校が終わると制服のまま病院にやってきた。深幸と信孝は帰り、深貴は大学に行っていて、ちょうど江津一人だった。

 息が軽く上がっているから走ってきたのだろう。マフラーを取ってコートを脱ぎながら赤ちゃん用ベッドの中を覗き込む。そして、どういうわけか絶句した。

「なによ江美。変な顔して。吾子也だよ」

「吾子也、か」

「抱かせてやるよ」

「いい。落っことしたら怖いから。こんにゃくみたいに柔らかいんでしょ」

 江美は尻込みして後退った。

「お姉ちゃん。とうとう生んじゃったね」

「なんだ、それ」

「これからが辛さの本番だよ」

 江津ははっとした。そのとおりだ。予定では一か月ほど是枝の屋敷で静養することになっている。そして、その後は吾子也を置いて江美のところに戻るのだ。いまがあまりに幸せで忘れていた。江津は俯いてしまった。吾子也を置いて行くのが約束だったではないか。

「ねえ、江美。深幸さんが振り込んでくれたお金、どのくらい使った?」

「お姉ちゃん!」

 江美の顔つきが変わった。

「大学の願書を出すのに、いくらかかるか知ってる? 一校二校じゃないんだよ。受かったら入学金をすぐ払うんだよ。授業料なんか年間130万円もかかるんだよ。まさか、わたしに大学を諦めろって言うんじゃないよね」

「…………」

 江津はうつむいたまま喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。だって、江美。わたしは吾子也と別れたくないんだよ。江美もだいじだけど、吾子也がかわいい。吾子也を手放したくないんだよ。江津は漏れそうになる声を無理やり飲み込んだ。

「お姉ちゃん。子供は諦めたんでしょ。だからお金と引き換えに産んだんでしょ。生めただけでもよかったじゃないの」

「江美……」

 江美! と心の中で叫んだ。だが、やはり言葉に出せなかった。最初からの約束。そういわれてしまったら、もう何もいえない。吾子也がぐずりだした。人形のような小さな手を顔や口元にもっていってぐずるだけで、江津の乳房が張ってくる。首が座っていなくてくにゃくにゃする吾子也の体をそっと抱き上げて、パジャマの襟元を広げ抱き寄せた。すると吾子也は匂いを嗅ぐ子犬のように鼻を鳴らして乳房に吸い付いてきた。

 江津の頬にぽろぽろ涙がこぼれた。ごめんね吾子也。お母さんを恨んでいいよ。みんなお母さんが悪いんだから。吾子也。かわいい。

 泣きながら授乳している姉を見ていた江美だったが、一言、「お姉ちゃんはバカだ。妊娠なんかするからだ」と言い残して逃げるように病室を出て行った。


 退院して、是枝家での生活が再び始まった。吾子也の誕生が屋敷の雰囲気を一変させていた。吾子也が泣いただけで深幸は大騒ぎしたし、吾子也が機嫌よくしていると抱いてはなさなかった。信孝の帰りも早く、話題は吾子也のことばかりだ。深幸と深貴で吾子也の取っこは日常茶飯事だし、意外だったのは、深幸のいないところで古志郎も吾子也を抱いて深貴に抱かせずワンマンぶりを発揮することだった。

 なんて幸せな吾子也だろうと江津はおもった。ありがたかった。みんなに祝福されて生まれてこれて、これほどの幸福があるだろうか。赤ん坊はみんなを幸せにする天使だとおもった。

 だが、夢のような日々は瞬く間に過ぎてしまった。江津が深幸に客間に呼ばれたのは深貴が大学病院での定期検診で留守をしているときだった。

 客間に呼ばれただけで江津は話の内容が予想できた。自分の部屋のベビーベッドで眠っている吾子也を起こさないようにそっと抱き上げる。寒くないようにキルトのお包みに包んで部屋を出た。いざとなったら、このまま吾子也を抱いて逃げればいい。そんな気持ちだった。だが、客間に入って、深幸の隣に信孝が座っているのを見て江津は動揺した。最初に江津に出産準備金の話をして子供を置いて行くように話を取り決めたのが信孝だったからだ。

「またたく間にひと月が過ぎたね」

 信孝はにこやかだった。深幸は傲慢だったが真っ直ぐ自分の感情をぶつけてくる人で、腹の中が見えているという点ではわかりやすかった。だが、信孝のほうは人当たりのいい笑顔できつい要求を突き付けてくる。若くても是枝ホールディングスの代表取締役社長として活躍しているだけあって、情に流されるようなことはなさそうだった。江津は吾子也を抱く手に力をこめた。信孝は苦手だった。

「さあ、座って。吾子也はよく寝ているね」

 江津は次に何を言われるか警戒しながらテーブルを挟んで二人の正面に腰を下ろした。深幸は吾子也から目を離さなかった。できるなら深幸から吾子也を隠したかったがそうもいかない。いよいよ江津は覚悟して信孝に視線を合わせた。それを感じ取ったのか、信孝の表情が冷たく変わった。これが信孝の本当の顔かもしれなかった。

「単刀直入に話すよ。ちょうど深貴もいないしね」

 深貴のいない時を狙ったくせにとおもった。

「ほんとうなら、吾子也が六ヶ月ぐらいになるまで一緒にいさせてやりたいが、それでは離れ難くなって辛くなるばかりだ。いっそ、深貴のいないうちに出て行ってはどうかね」

「え。今すぐですか」

 あまりに急な話だった。猶予も与えてくれないのかとおもったら怒りが込み上げてくる。

「取りあえず、アパートに戻りなさい。妹さんの大学が決まったら、大学の近くにマンションを借りてあげよう。そこで再出発するといい。だが、新しい住所は深貴には言わないように。なにかあれば、わたしがきみと直接連絡を取るから、深貴とは縁を切ってくれ。それでいいね」

「お金は返します。だから!」

「返せるのかね」

 信孝は背広の内ポケットから用紙を出して広げてから江津の前に置いた。そこには、直江江津の名義の通帳のコピーと江美にかかる四年間の大学の学費の概算が明記されていた。

「妹さんに通帳をコピーしてもらったんだ。この金額が現在の残高で、生活にも金がかかるし、センター試験の受験料は一万八千円、大学の受験料は一校約三万五千円で七校受験する予定だから、受験費用だけでも二十四万五千円ぐらいか。けっこうかかるよね。そのほかにもだいぶ使っているし」

 去年の三月は江美の高校三年に進級する初年度の学費にも困っていたくらいだ。通帳の貯金残高が一万円にも満たない情けなさで途方に暮れていたのに、そこに信孝が一千万円振り込んでくれた。その金額が半分ほど減っていた。どうしてこんなに使ったのと、江美を責めたくなったが、お金が入って気が大きくなり、それまで我慢していたことをぜんぶやってしまった結果がこの金額だとしたら、江津には言葉もなかった。

「荷物の整理をしなさい。深貴が帰ってくると面倒だ」

 信孝に促されたが江津は動けなかった。深幸が立ち上がってテーブルを回り江津のところにやってくる。吾子也を抱きとろうとしたので背中で深幸の手をじゃまして吾子也を抱きしめた。強くかぶりを振って吾子也を守る江津に深幸が言葉をかけてきた。

「だいじにするわ。深貴を育てたように、いっぱい愛情をかけて育てるわ。何不自由なく育てるわ。わたしの人生をかけるわ。それほどの覚悟よ」

 そうなのだろう。深幸の言葉に嘘はないだろう。自分のところで生活の不安にさらされながら暮らすより、深貴のそばで暮らすほうが幸せだろうと江津もおもった。だが、差し伸べられた深幸の両手に吾子也を渡すことができなかった。すると信孝がテーブルに身を乗り出してきた。

「連れて帰りたかったら帰るといい」

「信孝さん!」

 深幸を手で制して信孝が江津の目を覗きこんだ。

「使ってしまった金は返さなくていいよ。残金だけ返せばいい。だが、よく考えるんだ。これから子供を抱えて、妹を大学にやって、きみ一人の稼ぎでやっていけるのか。それとも、妹に大学を諦めさせるか?」

「――――」

 真綿で首を絞められているようだとおもった。じりじりと息ができなくなっていく。苦しくて江津はきつく目を閉じた。その時だった。深幸が江津の手から吾子也を奪った。

「はッ!」

「諦めなさい。それしかあなたにできることはないのよ」

「でも!」

「きみが去れば、約束の金額を振り込もう」

 信孝がいった。深幸も吾子也を抱きしめて頷く。

「妹さんを大学にやりなさい。そして、重荷を下ろしなさい。あなたはよくやったわ。亡くなったご両親の代わりに、よくここまで頑張って妹さんを育てたわ。だから、吾子也を諦めて」

 深幸の言葉が心に滲みた。江津の目から涙があふれた。こぶしで拭っても涙は次から次にこぼれてくる。泣いてしまった自分を叱った。泣いたら負けだ。いまさら歯をくいしばっても遅い。吾子也に伸びそうになった手を止めた。

 ああ。なんて理不尽なのだろう。必死で生きてきただけなのに、なぜ子供を奪われなくてはいけないのだろう。江美と子供と、どうして両方を望んではいけないのだろう。なぜ自分にはお金がないのだろう。

 お父さん、あなたは、どうして自殺なんかしたの。いくらお母さんに先立たてれ寂しかったとはいえ、女に貢いで借金までして心中して、あげくの果てに女だけ生き残ってお父さんだけ死んじゃった。バカみたいな人生だ。おかげで、娘のわたしはこのざまだよ。

 江津は嗚咽を飲み込んで深幸に抱かれている吾子也を見つめた。かわいい。わたしの吾子也。

「さあ、もう行きなさい。深貴が帰ってくる前に。光瀬くんが車を回して待っているわ」

 深幸に促された。

「行け!」

 信孝が叩くようにいった。弾かれたように江津の体が動いた。部屋にはいかず、真っ直ぐ玄関に向かう。どうせろくなものを持たずに来た身だ。吾子也以外に未練などない。玄関では古志郎が車のエンジンをかけて待っていた。江津は後部座席に身を投げだすように飛び込んでドアを閉め、号泣した。古志郎が静かに車をだした。車内には江津の号泣だけが響いた。無言で運転する古志郎の表情には苦渋が浮かんでいた。



 大学病院の定期健診からタクシーで帰ってきた深貴は、大きな声で「ただいま」と、奥に声をかけた。江津が玄関まで出てくるとおもったがなんの返事もない。靴を脱ぐと真っ直ぐ江津の部屋に行った。

「ただいま。江津」

 部屋に江津はいなかった。ベビーベッドの中を覗くと吾子也もいない。深幸のところにいるのかとおもって二階に行った。

 夫婦の寝室を挟んで右側の部屋は信孝の書斎。左側は深幸のプライベートルームになっている。深貴は左側の深幸の部屋のドアを開けた。

「おねま。吾子也は?」

 姿がないので今度は真ん中の寝室をノックする。中から信孝が返事をした。

「お義兄さん、いるんだ」

 夕刻にはまだ早い午後に信孝が寝室にいるのは珍しかった。ドアを開けて入ってみると、ベッドが二つ並んでいる片方に吾子也が寝かされていた。

「おかえりなさい。検診はどうだった」

 窓のところに佇んでいた深幸が振り向いて聞いてきた。深幸の眼が赤かったが深貴は気づかずにベッドに歩み寄ると吾子也を覗き込んだ。

「いつもと変わらないよ。検査の結果が出るのは一週間後で、それも同じ。吾子也、良く寝ているね。江津はどこに行ったの」

 吾子也から深幸に視線を戻して訊ねると、ドレッサーの椅子に腰を掛けて足を組んでいた信孝が立ち上がった。

「江津さんは、出て行ったよ。約束通りにね」

 さっと深貴は青ざめた。

「江津がぼくに黙って出て行くわけない。お義兄さんが追い出したんだね」

「追いだしたなんて、人聞き悪いな。彼女は約束を守ったんだよ」

「もう状況が違うんだよ。ぼくたちは結婚したんだ」

 深幸がびくっとした。

「なんですって。結婚したって、それじゃあ、婚姻届けを出したっていうこと」

「そうだよ。ぼくは独立した戸籍を持って、江津は妻、吾子也は長男になっている」

「早まったことを。それがどんなに重大なことか、あなたはわかっているの」

「重大なのは、ぼくの妻をぼくのいないときに追い出したことだよ」

「入籍したなんて、それじゃあ、あなたになにかあったら、財産の半分はあの女のものになっちゃうじゃない」

「それでいいんだ。もしも、ぼくが死んだら江津と吾子也が生きていけるように、二人に全部遺産をあげるために結婚したんだから」

「なんてことを。わたしがどれほど苦労してあなたを育てたと思っているの。すべてあなたに譲るために頑張ってきたんじゃない」

 信孝がイライラしながら部屋の中を歩き回った。そして深幸を指さす。

「ぼくが深幸の籍に入って是枝を支えてやると言ったのに、信用しきれなくてぼくの籍に入ったのも、その財産とやらを守るためだったんだよな。すべて弟に引き継がせるために。きみの執念の深さには頭が下がるよ」

「またその話。何度蒸し返したら気がすむの」

「江津さんに深貴との結婚は許さないと言ったのもぼくだし、金で決着をつけたのもぼくだ。これでも憎まれ役を買って出たつもりなんだけどな。きみに感謝の気持ちはないのか」

「それが夫であるあなたの務めじゃない」

「愛情とは考えないのか」

「またそれ。あなたは愛情という言葉ですべてを言いくるめようとしている」

「きみは、ほんとうにぼくを愛しているのか」

「いい加減にして」

 不毛な言い合いは続いていた。姉は夫を愛していたし、信孝のほうも姉を愛していた。一緒に暮らしている深貴には、それがわかっていたが、いちばん最初のボタンの掛け違いのせいで二人は愛し合いながら互いの愛情を信じきれないで苦しんでいた。深貴は吾子也が眠っているのを確認してから、そっと夫婦の寝室を抜け出した。

 古志郎をさがしたが、いなかったので江津を乗せていったのだとおもった。深貴は江津のアパートに向かった。

 江津のアパートまで車で十五分なら歩けば男の足で四十分ほどだ。しかし、深貴の弱い足なら一時間ぐらいかかってしまうだろう。タクシーは駅前まで行かないと乗れないし自宅に呼ぶとしても待つ時間がいたたまれない。深貴は徒歩で江津のアパートに向かった。

 二月の西日は逃げ足が速く、風が冷え込んできていた。中央本線が走っているガード下を歩いて、その先の交差点で信号が青になるのを待った。高いビルはなく、住宅地なのですぐそばには小学校があったりする。信号が変わるのを待っているあいだに日没になってしまった。

 深貴はカシミヤのコートの襟を立てて信号を見上げた。信号は赤から黄色に変わった。もうすぐ青にかわる。待ちきれなくて横断歩道に近寄った。すると、停車している車の列の後ろからバイクが飛び出してきて深貴の脇腹をかすって走り去って行った。

 深貴の体が回転して歩道のアスファルトに背中から転倒していた。頭を強く打って深貴は意識を失った。頭から出血した血がアスファルトにシミを広げていく。深貴のすぐそばには深幸が誕生祝いに贈ってくれたキーホルダーがバイクに踏まれて砕け散っており、携帯電話もポケットから飛び出してどこかにいってしまっていた。

 深貴の周りに人が集まってきて騒ぎ始めた。誰かが深貴の体を揺すろうとした。すると別の声が、やたらに揺すってはだめだと止め、救急車の手配をはじめた。深貴が意識を失っていたのは二分ぐらいだっただろうか。気がついた深貴はのろのろと立ち上がった。体がふらつきよろめいた。救急車を呼んだから、ここに座っているようにと、周りのひとがいってくれたが、深貴は「行かなくては」と呟いて、おぼつかない足取りで歩き出した。

 どこに向かっていたのか、誰に会いに行くつもりだったのか、記憶が無くなっていることにも気がつかなかった。ただ、行かなくては、大切な人に会いに行かなくては、という強い想いだけが心を支配していた。

 すっかり陽が落ちて商店の照明が明るさが増していた。倒れたときに頭から血が出て髪が濡れ、寒風に乾いて塊になっている。ロングコートは砂やごみで汚れ、倒れたときに背中を強打したせいで前屈みになりながらよろめき歩く。しかし、深貴が歩いている方向は江津のアパートの方向ではなかった。

 頭が割れるように痛かった。気分も悪い。吐きそうだ。

 深貴は自分の名前もわからないまま、誰かに呼ばれているように歩き続けた。

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