第八話
日傘をさしても真夏の陽光は足元から反射して肌をやいた。流れる汗をタオルハンカチで拭きながら江津はアパートに向かっていた。
お腹は六ヶ月に入ってふくらみが目立つようになり妊婦らしくなってきた。運動がてらに歩いてきたのだが、この暑さはさすがにこたえて、アパートが見えてきたときにはほっとした。手すりに掴まって外階段を上り鍵でドアを開ける。とたんに冷気がほてった肌に吹きつけてきた。
「うわあ。涼しい。江美。エアコン効きすぎだよ」
「だって、このくらい涼しくしておかないと、こっちの部屋まで冷気がこないんだもん」
靴脱ぎで大きな声をだすと、ドアが開けっ放しになっている江美の部屋から返事が返ってくる。
「こっちにおいで。お昼を持ってきたよ」
高校は夏休みに入っているから江美には日曜も平日もなくて、寝たいときに寝て起きたいときに起きているようだ。散らけ放題の室内に文句の一つも言いたいところだが、そこはぐっと我慢して持ってきた保冷袋をテーブルに置いた。
「ミートローフをつくったから持ってきたよ。あと、ローストビーフでしょ、夏野菜のキッシュも持ってきた。冷凍しておいたから食べるときに解凍してね。あとね、今日のお昼はサンドイッチをつくってきたんだ。おいしい生ハムのサラダサンドだよ。あの家は贅沢だから、おいしい食材がいっぱいあるんだよ」
かいがいしくテーブルに並べたり冷蔵庫にしまったりしている姉に江美は感心したように首を振った。
「お姉ちゃんが主婦に見えるから不思議だ。それもいいところの奥さん」
「なにバカなこと言ってるのよ」
冷蔵庫から麦茶を出して飲みながら笑う。
「環境って、怖いかも。お姉ちゃんみたいな最低女でも、環境が良かったら、まともな女性になってたかもしれないのよね。わたし、ぜったい大学行く。そして、平凡でも堅実な人生を生きるんだ。お姉ちゃんみたいには絶対になりたくない」
江津は顔をしかめたが何もいわずに江美の部屋に入っていった。そして、パイプハンガーにかかっている服を一枚一枚点検してから、次に箪笥を開けて下着を見た。
「何してるのよ。やめてよ。人の下着を覗くの」
江津を追ってきた江美が声を尖らせた。聞き流して箪笥を閉め、こんどは乱雑な勉強机の上の物を片付けながら、アクセサリーがしまってある小物入れを開けた。洋服は高校生にしては派手で高価なものが増えていたし、下着も女子高生が身に着けるものらしくない飾りの多いランジェリーが混じっており、アクセサリーもイミテーションの中にジュエリーが数個あった。壁のフックには女子高生に人気のブランドのバッグが三個ほどかかっている。
江津の心に痛みが走った。深幸から出産準備金を振り込んでもらって、江美はこれで大学に行けると喜んだ。生活費ばかりか江美の学費にも困っていた江津は、江美の喜ぶ姿を見てお腹の子供を諦めた。許してほしいと心の中でお腹の子供に詫び続けた。深貴が子供が生まれてくることを喜んでくれたから、それがせめてもの救いになったし、深幸のところで育てば深貴がいるから何不自由なく暮らせるだろうと自分に言い聞かせた。
そんな思いも知らず、お金が入ったら江美の服が増え、バッグやアクセサリーも増え、うるさい姉もいないので江美は好きなように暮らしているわけだ。
「江美。予備校には行ってるんだろね。ちゃんと勉強してるの。大学行くったって、受からなきゃ行けないんだよ」
「わかってるよ。そんなこと。いまさら教育ママみたいなこと言わないでよ。わたしはお姉ちゃんとは違うんだからね。お姉ちゃんみたいなヘマはやらないよ」
「そう。それならいいけど」
江津はお腹の引き攣れを感じてさすった。その時、かすかに胎動を感じた。お腹の内側をくすぐるようなわずかな感触だったが江津は息を飲んだ。赤ちゃんが動いた! 生きている! 感動が突き上げてきた。自分の胎内に自分の分身がいる。
衝撃だった。頭の中ではわかっていたし、婦人科でエコー写真も見せられていた。だが、そういう知識と実際の胎動はまったく別のものだった。
「江美。いま赤ちゃんが動いたよ」
江津は江美にささやいた。喜びで声が震えていた。
「だから何よ」
江美は江津に背中を向けてテーブルに戻るとサンドイッチを食べはじめた。
「うん。おいしい。生ハムとアボカドはあうよねえ。マリネもおいしいし。いいなあ、お姉ちゃんは。いつもこんなのを食べられて」
手作りのサンドイッチやサラダ、大葉と海苔のチーズ巻きなどをぱくつく江美に麦茶を出してやりながら、江津は込み上げてくる涙を隠した。悲しかった。姉妹なのだから、少しは姉の体を心配してくれてもいいのにとおもうと、一度こらえた涙がまたにじんでくる。
「帰らなきゃ。用事を忘れていたよ」
わざと明るい声で空になった保冷袋を取る。
「うん。じゃあね」
玄関で靴を履いている江津に江美は振り向きもしない。
「ちゃんと勉強するんだよ。来年は受験なんだから。また来るからね。なにかあったら電話してね」
日傘を取ってそう声をかけた。
「わかってるよ。うるさいなあ。早く帰れば。あの大きなお屋敷の豪華な部屋に帰ればいいよ。おいしいものをいっぱい食べて、大事にされてさ。だけどね、贅沢に慣れるとあとが大変だからね。子供が生まれたら、お姉ちゃんはお屋敷を追い出されてここに帰ってこなきゃならないんだからさ」
江津は唇を噛んで部屋を出た。熱風のような空気だった。苦しいとおもった。あまりに空気が熱くて塊になっている。息を吸っても肺に入ってこない。苦しい。
江津は大きく喘いで自分の胸を叩いた。込み上げてくる涙を叩き潰す勢いで胸を叩いた。するとお腹の中で子供が動いた。はっとして叩く手を止めた。アパートの外階段の手すりに掴まりながらおりた。やっとのおもいで日傘をさす。ごめんね、赤ちゃん、と心の中で詫びた。自分を叩いたりしたから、お腹の子供が驚いたのだとおもった。もしかしたら驚いて、お腹の中で泣いたかもしれない。悪い母親だとおもった。もう自分一人の体ではないのに、その体を粗末にすることは子供を苦しめることになるのだとおもった。深貴に会いたかった。深貴でなければ、この胸の苦しさは消せないとおもった。
江津はポケットから携帯電話を出して深貴へ電話した。なかなかでなかったがやがて深貴の静かでやさしい声が耳に届いた。
「ぼくだよ」
「うん。いま、だいじょうぶ?」
「ちょっとならね。もうすぐ講義がはじまるんだ」
「そうか。じゃあ、切るね。たいしたことじゃないから」
「どうしたの。元気がないけど」
「何でもない。お昼、食べたの?」
「うん。学食で食べた」
「一人で食べたの?」
「うん。大学休みがちだから親しい友達がいないんだよ。クラブやサークルにも入っていないからね」
「そうなんだ。じゃあ、勉強、頑張ってね」
「うん」
切れた電話に未練が残った。もっと話していたかった。できればここに駆けつけてほしかった。でも、深貴には深貴の生活があって、あらためて彼は二十歳の学生なのだとおもいなおした。生活力のない学生に子供ができたなんて、本来なら親が大騒ぎするのだろうに、深貴は深幸に向かって、亡くなった両親がぼくに残してくれた遺産があると開きなおってみせたのだ。あのおとなしい深貴ともおもえない態度に驚いたが、盾になってくれる深貴にどんなに江津が勇気づけられたか深貴は知らない。
深幸の態度が冷たいのは当然だ。自分が深幸の立場だったらあんな寛大な態度はとれないだろう。妊娠した自分は邪魔な存在でしかない。深貴の将来を考えるのなら慰謝料を渡してきれいさっぱり処理したはずだ。そうしなかったのは深貴のほうにも事情があったからなのだろうが、もしも、江津の両親が生きていたら、どうしていただろう。やはり娘を叱っていただろうか。
そう考えて江津はおもわず道端にしゃがみこんでいた。
お母さん。会いたいよ。助けて。お母さん。江津は怖いよ。
涙がこぼれた。妊娠出産という未知の体験は不安との戦いだった。結婚して、妊娠して、周りのみんなから祝福されての出産なら勇気も出るだろう。父に見守られ、母に支えられ、夫の愛に包まれてその日を迎えることができれば未知の出産も乗り越えられるのだろう。でも、江津には深貴しかいなかった。あの頼りない深貴が、今では江津の心の拠り所だった。
屋敷に帰ってみると、リビングルームで深幸と信孝の声がしていた。剣呑な会話の調子が伝わってくる。江津はそっとリビングルームのドアを開けて中を覗いた。
「ごまかさなくてもいいのよ。わかっているんだから。『クラブ・順子』のママでしょ。あなたが大学のとき、一緒のゼミを取っていた順子さん」
深幸の押さえた嫉妬が声の調子に現れる。信孝はうんざりしていた。
「またか。いいかげんにしろよ」
「あなたこそ。順子さんとは長い付き合いよね。順子さんの娘さん、あなたの子じゃないの?」
「いい加減にしろ」
音をたてて椅子から立ち上がった信孝が大きな声をだした。
「ぼくはきみを裏切ったことはない。一度としてない。いまも、こうして諍いをしていても、きみへの愛情は変わらない。それなのに、いつもぼくを疑う。なぜだ」
「さあ、なぜかしら。もしかしたら、昔の記憶がそうさせるのかも」
「結婚するとき、ぼくが是枝の籍に入ると言った、あのことか」
「そうよ。虚弱だった深貴に、もしものことがあったら財産は全部わたしのものになる。そして、わたしに何かあれば、最後はすべて信孝さんのものになるんですもの」
「きみは病気だ。結婚する相手の愛情まで疑いながら挙式して、疑い続けて今日に至るなんて、まともじゃない。きみはぼくに嫉妬する権利すらないよ。いっそ、離婚するか。そうすれば気が済むのか」
「離婚して自分だけ幸せになるつもりなの」
「追い詰めてくるのは君のほうじゃないか」
「なにもかも信じられない。あなたも、江津という女のことも、子供のことも」
「薬はちゃんと飲んでいるのか」
「飲んでいるわよ」
「心療内科には通ってる?」
「ええ」
「酒は控えろ。今度の休みは二人で御殿場の別荘に行こう。きみには休息が必要だ」
信孝が席を立ってこちらに歩いてくる。江津は廊下の壁に背中をくっつけて、リビングルームから出てきた信孝を通した。
「深幸には酒を飲まさないように」
一言いって信孝は仕事に戻っていった。深幸は洋酒の瓶を出していた。江津は冷蔵庫から牛乳パックを取ってコップにつぎ、アガベシロップをたっぷり注いでからバニラエッセンスを数滴たらした。マドラーで攪拌してアガベシロップをよく溶かす。
テーブルでブランデーを飲んでいる深幸のところに行って、手からグラスを取り上げた。代わりに甘い匂いのミルクを持たせる。
「神経が高ぶったときはお酒よりこっちのほうがいいです」
じろりと深幸が睨み付けてきた。
「聞いていたんでしょ」
「少しだけ、聞こえました」
「あなたが働いていたキャバクラにも、信孝みたいな人がいっぱい来るんでしょ」
「いろいろな人が来ます」
「あなたも男を手玉に取っていたの」
「わたしは頭も悪いし気も利かないので、そういうことはできません」
「たしかに売れっ子っていう感じじゃないわね」
江津は肩をすくめてブランデーをシンクに捨てた。そして、背中を向けたまま深幸にいった。
「旦那さんの愛情を試すようなことはやめたほうがいいです。愛情にも限界がありますから」
テーブルにコップが倒れる耳障りな音がした。振り返ると、江津が作った白い液体がテーブル一面に広がっていた。そばにあったタオルを取って急いで拭きはじめる。深幸は放心したようにテーブルを見つめていた。
「生意気だわ。あなたに夫婦のなにがわかるの」
「はい」
深幸がいきなり江津の襟元を掴んで首を絞めつけてきた。
「妊娠していなかったら、叩きだしてやるのに。その子供が深貴の子でなかったら、許さないから」
「出生前親子DNA鑑定ができるそうなので、深貴に話してみます」
掴んでいた襟元を離す深幸の瞳は憎しみで光っていた。しかし江津はひるまなかった。親子鑑定などしなくても深貴の子だとわかっていたから不安はなかった。深貴さえ江津の味方なら深幸など怖くない。たとえ世界中の人々が自分を罵ったとしても、深貴が江津の手を握っていてくれるなら、どこまでも戦えるとおもった。江津は深貴を信じていた。
後日、江津と深貴は、深幸と信孝をともなって検体採血のできる病院へ行き、江津の採血をしてもらった。家に帰ってから深貴の口腔内の細胞を綿棒でとってキットに収め、夫婦の見ている前で江津の血液と深貴の細胞をボックスに入れて封印する。そのボックスはその日のうちに深幸が資格認定のある研究所に郵送した。
二週間後に結果が郵送されてきた。開封して書面を読んだ深幸はしばらく無言だったが、やがて長い息を吐いた。
「深貴の子なのね」
書面を見つめる目に涙が盛り上がった。それを見て、この人は、わたしのことは嫌い続けるだろう。だが、生まれた子供は受け入れてくれるだろう、と江津はおもった。それだけでいい。生まれてくる子供を大切にしてくれるなら、わたしは深幸を嫌うのはやめようとおもった。
夜、食事が終わったあと、深貴が江津の部屋にやってきた。深貴は封筒から薄い用紙を出して江津にさしだした。
「なに、これ」
江津が腰かけているベッドに深貴も腰をおろす。深貴は用紙に指を置いていった。
「婚姻届けだよ。ぼくのほうは署名してある。これには証人が二人いるんだ。二十歳以上なら誰でもいいんだって」
「でも、結婚は許さないって」
「うん。言ってたよね。江津はおねまを説得できるのかときいたけど、結論を言うと、説得の必要はないよ」
「内緒でだすっていうこと」
「うん。それでいいんだ。だってね、おねまはぜったいに許さないから。そしてね、勝手に婚姻届けをだしても、おねまはぼくを切り捨てられないから」
「気まずくなるよ。わたしは出て行く人間だからかまわないけど、深貴は困るでしょ」
「江津が出て行くときは、赤ちゃんと一緒にぼくも出て行く」
江津は力なく笑った。
「深貴の思うようにはいかないよ。だいいち、深貴には生活力がないじゃない。わたしは江美を一人前にするので精いっぱいだし、子供がうまれたら、なおお金がかかるし」
「お金ならあるんだ」
「おねまが持ってるんでしょ」
「ぼくが生まれて間もなく、両親が飛行機事故で亡くなった話をしたでしょ。そのときね、おねまは信孝さんの勧めで相続税対策として、ぼくに年間110万円の贈与をはじめたんだよ。110万までなら非課税なんだ。それが今では2200万になってるんだ。それくらいあったらなんとかなるでしょ」
「うわぁ。深貴は金持だなあ」
「ね。どうにもならなくなったら、おねまに通帳と印鑑をわたしてもらって、一緒にこの家を出よう」
「深貴……」
江津はなんといっていいのかわからなかった。ただ、深貴の真剣さは伝わってくる。江津にしたって、子供には両親がそろっていたほうがいいとおもっている。父親が深貴で母親は江津と記載された戸籍謄本を生まれた子供に残してやりたい気持ちは強い。しかし、出産準備金をもらったとき、信孝から結婚は許さないと念を押されているのだ。お金を返そうか、と江津はおもった。そうすれば深貴のいうように、この屋敷を出て、もう少し広い部屋を借りて、江美と赤ちゃんと自分たち四人で暮らせるのではないか。
江津は夢でも見るような表情をした。深貴が江津の膨らんだお腹に手を当てているのにも気づかず、自分と深貴と子供と江美の四人が、賑やかにテーブルを囲んでいる夢を見た。
江美は大学生になっており、健康になった深貴が大学を卒業するべくキャンパスに通い、江津はかわいい赤ちゃんを育てながら家族のために家事に励んでいる。そんな映像が頭の中に浮かんでいた。なんて平和で、幸せな日常だろう。欲しくてたまらなかった生活を深貴ならかなえてくれるような気がした。
「吾子也。お父さんだよ。聞こえる? お父さんの声を覚えてね」
深貴がお腹に口をつけて呼びかけていた。その髪を、江津はやさしく指で梳いた。細くて柔らかい、美しい髪だった。深貴はなにもかも清らかだ、と江津はおもった。お腹の内側にくすぐられる感覚がおこった。
「あ。江津。赤ちゃんが動いたよ。ぼくの声が聞えたんだよ」
目を輝かせて深貴が笑った。江津も微笑み返す。
「そうだね。きっと深貴の声が聞こえたんだよ」
深貴はまたお腹に口を付けた。
「吾子也。お父さんだよ。お父さんはきみのことが大好きだよ。聞こえたら合図して」
すると、またお腹の中が動いた。
「すごいや! 吾子也は賢くて元気だねえ」
「どうして吾子也なの。女の子かもしれないじゃない」
「江津の子なら男の子に決まっているよ」
「どうして」
「ぼくを担いで走れるほど力が強い江津だからさ。健康で、気が強くて、誰にも負けない江津が好きだ」
身を起こして深貴は真っ直ぐ見つめてきた。この人を、わたしは幸せにできるだろうか、と江津はおもった。わたしでいいのだろうか。清らかな深貴がこれから歩んでいく道は、もしかしたら茨の道になるのではないだろうか。そんな不安が胸をよぎった。しかし、江津は静かな笑みを浮かべて深貴を見つめるのだった。
深幸に内緒で婚姻届けを出したのは一週間後のことだった。二名の保証人には是枝とは関係を持っていない人物が好ましいということで、深貴の大学のゼミの講師に依頼した。二人で役所へ行って戸籍謄本を二枚とり、それぞれが一枚ずつ持ち、独立した戸籍を得たことを確認して喜び合った。このときの二人は幸せだった。さまざまな障害がこの先二人を待っているかもしれないが、負けない勇気が二人の瞳に宿っていた。