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恋する足音  作者: 深瀬静流
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第七話

 信孝は客間を江津にあてがうつもりのようだったが、パントリールームの隣り部屋が手ごろな広さだったので、江津はその部屋を使わせてもらうことにした。昔の言い方をするなら納戸部屋だ。しかし、この部屋には採光の良い窓もあったし、クローゼットと簡単なキッチン、さらにトイレも備わっていて、昔は住み込みのお手伝いさんが使っていたという。深幸の代になって住み込みは廃止して通いにしたようだ。深貴は遠慮しなくていいから客間を使えといってくれたが江津はこちらのほうが気が楽だった。

 わずかな身の回りの品を古志郎に車で運んでもらった。一人になる江美のことが心配だったが、ちょくちょく様子を見に行けばいい。もともと、こうなったのも江美が大学資金に目が眩んだからだ。江津は複雑だった。江美が願っていた大学進学の目途が立ったことはよかったが、そのために江美がいとも簡単にお腹の子供を差し出したことに傷心してもいた。

「なんだかなあ。江美もひどいよなあ。これからのことを考えると、どうしていいかわかんないよ。不安ばっかだし、だいいち、子供なんか産んだことないからおっかないよ。痛いんだろうなあ。深貴が代わってくれないかなあ」

 ぶつぶつ呟きながら玄関に向かう。勤め先を二日も休んでしまったので今日は行かなくてはならない。乳白色の大理石の玄関の隅に置いてあるスニーカーに足を入れようとしたとき、後ろから声をかけられた。

「どこへ行くつもり」

 深幸だった。朝の八時だというのに、もう化粧をして春らしいプレタポルテのスーツに着替え、ケリーのバッグを持っている。

「あ、どうも。これから仕事なんで」

「それなら『辞めます』と電話しておいたわ」

「マジかよ、ふざけるなよ。やっとありつけた職場だったのに」

「なんですか、その汚い言葉は」

「言葉なんかどうでもいいんだよ。なんで勝手なことをするんだよ。どう責任取ってくれるんだよ。そんな権利、あんたにあるのかよ」

 やっと見つけた仕事だった。頑張って働いていた。いい職場だったので、カッと頭に血が上った。

「権利うんぬんというなら、権利はあります。出産するまでの準備金をお宅の銀行口座に振り込んでありますから、もう、あなたはわたしの管理下にあるんですよ」

「えッ」

 そうなのか? そういうことになるのか? 理論武装などできない江津は気勢をそがれて口ごもった。

「ですから、あなたは家でのんびり過ごせばいいんです。友人とお茶をしたり、習い事もいいでしょう。すべてわたしが費用をもちます。胎教は何よりだいじですからね」

 付き合ってる友達いないし、習い事なんか興味ないし、暇しているより働いているほうがいいんだけどな、と江津は反抗的に深幸を睨み付ける。

「もうすぐ深貴が起きてくるから、朝食の世話でもしていなさい。わたしはでかけてきますから」

 オバサンは姑かよ、とおもった。江津が靴を脱いで上がると深幸がハイヒールを履いて玄関を出て行く。車寄せに古志郎が車を回していったん降り、後部にまわってドアを開けると深幸が乗り込んで屋敷を出て行った。

 ダイニングルームには深貴のための朝食が用意してあった。家政婦さんは十一時から二十時までの勤務なので、まだこの時間はいない。用意したのは深幸なのだろう。ヨーグルトにバナナやリンゴ、レーズンにナッツなどを入れたものとトーストに目玉焼きとカリカリベーコンだ。簡単なメニューだがおいしそうだ。シンクに汚れた食器や調理器具が置きっぱなしになっているので洗いはじめた。

「おはよう江津。そんなことしなくていいよ。十一時になったら加藤さんが来るから」

 パジャマ姿の深貴がだるそうに足を引きずりながら現れた。

「お姉さん、どこに行ったの」

 水道を止めて手を拭きながらきいてみる。

「おねまは忙しいんだ。是枝ホールディングスの代表は信孝さんなんだけど、おねまは大株主だから、そっちのほうの関係でいろいろやっているんだよ」

「ふう~ん」

 どうせ聞いてもわからないことなので江津の返事はいいかげんだ。深貴はテーブルにつくと水差しの水をグラスについで半分ほど飲んだ。

「ねえ江津。おねまと古志郎さんがいないうちに二人で役所に行こう」

「何しに」

「何しにじゃないよ」

 憤慨したようにグラスを置く。

「吾子也が生まれる前に結婚届を出さなくちゃ」

「吾子也?」

「そう。男の子なら吾子也あこや。女の子なら吾子あこ

「ふうん? 名前、か」

「そう。ぼくと江津の大切な我が子だから」

「なるほどね。吾子也と吾子。いいね」

「役所って、九時頃には開いているんでしょ」

「わかんない。開いているんじゃないのかな」

「じゃあ、ご飯を食べたら着替えてくるから待ってて」

「古志郎さんが帰ってくるかも」

「だいじょうぶ。今日はさいたま文化センターまで行ったから午前中は帰ってこれないよ」

「ふうん」

 気乗りしない江津のようすに深貴がトーストに伸ばした手を止めた。

「どうしたの江津。いやなの?」

「ああ、まあ、ね。お姉さんの旦那さんが言ってたじゃない。結婚は許さないって」

「ぼくたちは成人だから、結婚は本人同士の意志でできるんだよ。ぼくたちは結婚しなきゃ。吾子也には両親が必要だよ」

「まあね。そうなんだけどさ。結婚ってさ、軽いノリでできるもんじゃないよね。愛が無きゃ」

「愛ならあるよ。ぼくたちは愛し合ってるじゃない」

「そうかなあ」

「情けないことを言わないでよ。しっかりしてよ江津。ぼくたちはお父さんとお母さんになるんだよ」

「あのさあ。今の話なんだけど、深貴はお姉さんに直接言えるの。お姉さんを説得できるの」

「それは……」

「自信ないんでしょ。だから、お姉さんがいないときに役所に行こうなんて言うんでしょ」

「そ、そうじゃないよ。おねまは強敵だから、さきに既成事実を作ってしまったほうがいいと思って」

「焦らなくていいよ。怒っているわけじゃないし、深貴の頼りなさを責めているわけでもないんだから」

 江津は深貴の隣に座ってグラスを取り、水を注いで喉を湿らせた。

「わたしはね、お腹の赤ちゃんを産めることになっただけでほっとしてるんだ。いまはそこまでしか考えられないんだよ。その先のことは、考えたくないっていうのが本音かな。だってさ、この子は、この家に引き取られて、わたしは元の暮らしに戻っていくんだよ。それだけで、精神的な負担や不安や罪悪感なんかが、胸の中で渦巻いているんだよね。先のことを考えるのが怖いんだ。結婚なんて、わたしの場合は無理なような気がする」

「そんな弱気じゃだめだ。生まれてくる子供のことを第一に考えなきゃ」

「考えることは深貴に任せるよ。頑張ってね」

「え。そんな」

 江津は食器を洗う作業に戻った。深貴の気持ちはよくわかるしありがたかった。だが、どう考えても自分が是枝家の嫁にふさわしいとはおもえなかった。と、いうことは、お腹の子供を是枝家にわたすということだ。はたしてそんなことができるだろうか。できたとしても、自分は一生苦しむだろうとおもった。子供を捨てた母親は一生幸せになってはいけないともおもった。

 是枝家で暮らすようになって一週間もすると、この家の人々の様子がわかってきた。信孝は会社が契約している送迎専用のハイヤーで出勤し、休みの日は付き合いやゴルフで家にいることはなかった。わざとそうスケジュールを組んでいるように江津にはみえた。朝食は夫婦だけですませてそれぞれの予定に沿って出かけて行く。

 昼食は深貴は古志郎と二人でとっていたらしい。そこに江津が加わったので深貴は喜んだが、古志郎と一緒の昼食は江津には気づまりだった。夜は信孝の帰りが遅く、古志郎は自室でとるので、深幸と深貴と江津の三人でとることになる。やはり気づまりな夕食だった。

 たまに深幸と信孝がそろって夕食に着くことがあった。家族そろっての団欒なのだから賑やかなのだろうなと想像したが、饒舌なのは信孝だけで、深幸と深貴は黙々と食事をしていた。

 信孝が二人に話しかけてもろくに返事をしないので江津に話を振ってくる。江津は言葉少なに返事を返すのだが、たいして面白くもない話題なのに信孝は上機嫌でよく笑った。

「若い女性が食卓に加わっただけで華やいでいいねえ。で、体の調子はどうなの。つわりとか、どうなの」

 などと気さくにきいてくる。

「はあ、まだ大丈夫、かな、とか」

 しゃべりたくないから江津の返事も適当だ。信孝はワイングラスを傾けてさらに話しかけてきた。

「うちの深幸は、ほら、子供を産んでいないからさ、つわりのときなんか、どうしたらいいのか戸惑うとおもうんだよね。だから、遠慮なくいってね」

「はあ」

 今の信孝の発言で食卓の空気が急激に冷え込んだのを江津は感じた。正面の深幸と江津の隣りに座っている深貴を盗み見ると二人の表情が硬くなっている。もしかすると夫婦に子供がいないことの話題は禁忌なのかもしれなかった。だが、ワインのせいか信孝の舌は止まらなかった。

「元気な赤ちゃんを産んでくれよ。跡継ぎが生まれたら、深幸もやっと深貴から解放されるだろうからね」

「……はあ」

「深幸が深貴を育て始めたのは、深幸が大学二年のときだったよ。そのとき深貴は一歳だった。両親は中東の国王に招待されて遊びに行ってたんだよ。自家用飛行機で楽しんでいたときにエンジン故障でね、たいへんだったよ」

「信孝さん。そんな話はやめましょう」

 ナイフとフォークを置いて深幸がいった。

「そうだな。ぼくが言いたかったのは、大学二年生だった女の子が、一歳の弟を育てるのは並大抵ではなったということさ」

 あくまでも信孝は陽気だった。だが深貴はそうではなかった。

「だから、おねまにも信孝さんにも感謝しているよ。いつもいつも感謝しているよ。ぼくが生きてこれたのは、おねまと信孝さんのおかげだって」

 言い終わらないうちにヒュッと深貴の喉が鳴った。笛を吹くような呼吸の音だ。みるみる顔が青ざめていく。江津は驚いて深貴の肩を抱いた。

「どうしたの深貴。苦しいの」

「どきなさい!」

 江津を突き飛ばす勢いで押しのけ、深幸が深貴を立ち上がらせた。そのまま深貴の部屋に連れて行く。

「いつもこれだ」

 陽気だった信孝が吐き捨てるようにいった。

「え?」

「副腎疲労って知っているかね」

「いいえ」

「深貴は副腎が悪かったんだ。異常に疲れて動けなくなるんだよ。だが、それは治療でだいぶ改善されたんだ。それなのに、深幸は不安のあまり深貴を過保護にしてしまった。深貴のほうも深幸に依存しているから深幸でなければ精神が安定しないんだ。ぼくは子供が欲しかった。だから妻と不妊治療を受けていたんだが、先に努力を放棄したのは深幸だった。深幸にとって深貴は弟ではなく、もはや自分の息子になっていたんだよ。あの二人は異常だ。このぼくでさえ入っていけない」

 ワインを飲みほして信孝は席を立った。テーブルには料理が残ったままだ。深幸の皿も深貴の皿にも高級なビーフがたっぷり残っている。もったいないなあ、と江津はおもった。

 椅子に座りなおして自分の皿のビーフをナイフで切り分ける。口の中でとろける肉のうまさに頬がゆるむ。

「江美にも食べさせてやりたいなあ」

 江津は黙々と食べ続けた。こんな高い肉や手の込んだ料理を残す人たちがいることを笑ってやりたかった。何様だよ。贅沢を当たり前だと思うなよ。そう腹の中で毒づいてきれいに全部平らげた。

 あの狸オヤジは、ああして事あるごとに深貴に心理的な圧力をかけているのだろうかとおもった。深貴を育てるのがどんなに大変だったか、自分たち夫婦が深貴のためにどれほどの犠牲を払ってきたか、なにかにつけて思い知らせて深貴に感謝の言葉を吐き出させているのだろうか。

 だとしたら、深貴がかわいそうだとおもった。委縮するのも無理はない。深貴では信孝に太刀打ちできないだろう。ましてや姉と信孝の夫婦関係が円滑ではないようなので、その原因が深貴にあるのだとしたらいたたまれないに違いない。

 江津は食器棚から蓋付き容器を探してきて、深貴が残した皿のものを容器に移した。テーブルの上を片付けていると深幸が戻ってきた。

「そんなこと、加藤さんがやってくれるからしなくていいわよ」

 そういいながらグラスに氷を入れてウイスキーを注いだ。

「主人はわたしの悪口をいっていたでしょ」

「え?」

 ブランデーを苦そうに舐めて続ける。

「あの人はわたしのすることが気に入らないのよ。しょせん他人だから深貴のことも本気で心配していないのよ」

 江津は黙っていた。返事はしないほうがいい。返事など相手は期待していないし、共感も同情も邪魔なのだ。深幸はシンクに寄り掛かって酒を舐めながら足元の宙を見つめていた。深い闇の中を見ているような目つきだった。江津は蓋付き容器を持って深貴の部屋に行こうとした。

「それをどうするの。あとで食べるの? 残り物なんか捨てて夜食が欲しいなら作り直しなさい。キッチンは自由に使っていいから」

「いえ、深貴がお腹すいていないかと思って」

「深貴の残したお肉?」

「はい」

「捨てなさい」

「もったいないし、食べられるから」

「深貴に残り物なんか食べさせないで」

 深幸が苛立たしそうに睨み付けてくる。

「深貴に聞いてみます。深貴がいらないといったら、わたしが食べます」

 負けずに睨み返して深貴の部屋に行った。

 照明の光度を中ぐらいにおとした室内で深貴はベッドで目を閉じていた。

「深貴……」

 小さな声で呼んでみる。深貴は薄く目を開けた。

「江津」

「だいじょうぶなの。気分はどう」

「うん。落ち着いた」

「いつもあんな感じなの」

「あんな感じって?」

「精神的にきつくなると発作が起きるんじゃないの」

「どうしてわかるの」

「わかるよ。それくらい」

「そうなんだ」

 深貴が身を起こして江津の手を握ってきた。

「わかってくれるんだ」

「あれはきついよなあ」

 見る見る深貴の目頭に涙が膨れ上がる。

「江津と出会ってよかった。ぼくは江津が大好きだ」

「泣くことないだろ。こんなことぐらいで」

「だって、嬉しくて。いままでぼくは一人ぼっちだったから」

「たいしたことじゃないよ。友達のいないやつなんていっぱいいるよ」

「そうじゃなくて、ぼくの人生に江津がいることがうれしいんだよ」

「大げさすぎて、めんどくさいなあ、そういうの」

 うふっと深貴が笑った。深貴の瞳には江津にたいする無条件の信頼と愛情が込められていた。

「ぼくを一人にしないでね。江津」

「それより、お腹すいてないか」

 江津が容器のふたを開けると、中を覗いて深貴が笑った。

「そういえば、夕飯、途中だったね」

「食べる?」

「うん」

 フォークを使って上品に口にもっていく深貴を見ながら、江津は心の中で、「あんたもたいへんだね」と、つぶやいていた。

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