第六話
学校から帰って来た江美は、ダイニングテーブルで求人雑誌を広げ、せっせと履歴書を書いている姉に驚いた。
「なにしてるの。お姉ちゃん」
後ろから覗き込むと背中で隠してくる。江美は根元が黒くなっている黄色の髪を掴んで引っ張った。
「やめてよ。痛いじゃない」
「お姉ちゃんさ。いくら丁寧な字で履歴書を書いても、この頭じゃ面接で落ちるよ」
「へいきへいき。美貌で受かるから」
「どこで働くつもりか知らないけど、まともなところは根元が黒い金髪ヤンキーなんか雇ってくれないよ。今時、工事現場の仕事だって見た目がうるさいんだからね」
履歴書から顔を上げて江津は髪をかき回した。
「やっぱ、染めなきゃだめかな」
「黒に戻しなよ。そうすれば毎月髪を染める費用が浮くし」
「それもそうだね。じゃあ、ちょっとドラッグストアに行ってヘアカラーを買ってくるよ」
江津は身軽にサンダルをはいて外に出た。町には緑が萌えだし、住宅の庭に咲く赤い薔薇が美しい。ハナミズキが終わりに近づきサツキの花が満開だ。日差しは夏のように眩しく、水色に澄んだ空から吹いてくる五月の風は爽やかで心地よかった。
江津は髪に風を入れるように指でほぐしながら駅前に向かった。江美の機嫌がいいので江津は気分が良かった。江津が昼間の仕事に就けば、江美の機嫌はもっと良くなるだろう。一緒に夕飯を食べてテレビを見て、寝るまでの時間を二人でだらだら過ごす時間は江津にはぜいたくなものにおもえた。
ドラッグストアに入って一番安いヘアカラーを選んでカゴに入れる。そして、ぶらぶらと店内を見て回った。江津の足が止まり、棚の中ほどにある妊娠検査薬に手が伸びる。ためらいがちにその商品もカゴに入れてレジに並んだ。
アパートに帰って江美に手伝ってもらって髪を染めなおした。妊娠検査薬は江美がいないときに使用するつもりだった。不安が胸に広がる。妊娠していたらどうしよう。江津はなかなか妊娠検査薬を使用する勇気が出なかった。
髪を黒く染めなおしたのが良かったのか、レストランのホールスタッフに雇ってもらえた。給料もよかったが、交通費が全額支給であることと社会保険が完備していてボーナスも出るし食事の補助もあるのでうれしかった。
髪が黒くなっただけで印象が変わり、江津は真面目で接客態度も良好なホールスタッフとして働き始めた。初めての給料がもらえるまでは苦しいが、なんとか一ヶ月乗り切れば給料がもらえて翌月に繋げることができる。その待望の初給料をもらって、江美とささやかな就職祝いをケンタッキーの宅配でお祝いしてコーラで乾杯した。
江美が寝たあと、いよいよ江津は妊娠検査薬を試してみた。お願いです神様。あれが遅れているだけでありますように。妊娠していませんように、と強く願った。妊娠など、とんでもないことだたった。だが結果は陽性だった。
「深貴の赤ちゃんが、わたしのお腹にいる……」
一瞬、膝が崩れそうになったが踏みとどまった。どうしよう。それしか頭に浮かんでこない。どうしよう。どうしたらいいんだろう。産めるわけない。だったら早くしなきゃ。産めないなら早く病院に行かないと。
江津は頭を抱えた。眠れないまま、翌日はいつものように仕事に出かけていった。忙しく働いていると、その時だけは忘れられた。だが、帰途に就く照明の点った電車の中で、つり革につかまって揺れながら、早く病院に行って始末しなければと思いつめた。
決心がつかないまま日にちが過ぎていった。お腹のふくらみは目立たなかったが、自分の体の中で小さな命が息づいていることを認めないわけには行かなかった。
体調の変化も現れだした。臭いに敏感で食物の嗜好も変化しだした。このままお腹が大きくなっていくことへの恐怖と、この命を始末してしまっていいのかという恐怖がじわじわ江津をナーバスにしていった。
深貴はどうしているのだろう。なぜ会いに来ないのだろう。江津が妊娠したと知ったら深貴はどんな反応を見せるだろうか。まだ二十歳だもの。半分子供みたいなものだもの、きっと怒りだすのではないだろうか。でも、この子が深貴の子供であることを疑うようなことだけはしてほしくなかった。江津にとって初めての男性が是枝深貴だったのだから、それだけは信じてほしかった。無性に深貴に会いたかった。頼りない人だけど、頼るなら深貴しかいないとおもった。そして深貴に頼りたいとおもっている自分に驚いてもいた。
「なにを弱気なことを」
小さく呟いて電車を降り、その夜も車の交通量の多い道をとぼとぼと歩いた。白い外壁とグリーンの屋根のアパートが街灯の向こうに見えてきた。もしかしたら、深貴が来ているかもしれないと期待した。だが、そんな期待はするだけ無駄だった。玄関を開けた靴脱ぎには江美と自分の履物しかなかった。
江津のようすがおかしいことに江美が気づいたのは、アジサイが蕾を付けるころだった。梅雨にはもう少し間がある季節で、洗濯物の角ハンガーがテラスの物干し竿で揺れていた。
「お姉ちゃん、太った?」
日曜日なので十時頃まで寝ていた江美が、朝食兼昼食を食べ終えて、冷蔵庫からプリンをだしながら江津に声をかけてきた。江津の場合、日曜日は店の書き入れ時で休みにくいのだが、どうにも体がだるくて休暇をとってしまった。江津は蒸しプリンのむっとする卵臭さが不快でテーブルから椅子を離して身を反らせた。
「太ったかな。体重は変わんないけど」
逆に体重は減っていた。無意識に腹部をさする。江美が江津の腹部を指差した。
「お腹のあたりにしまりがなくなった。そのくせ顔が細くなって痩せた。どこか具合が悪いの?」
「――べつに。ただ、胃が不調かな」
「胃が重かったりむかむかしたりするんじゃないの。あと、すごく眠いとか」
「う~ん。そんな感じかな」
プリンを食べている江美の手が止まった。
「何ヶ月なの」
「えっ」
「クラスの子が妊娠しちゃってさ。女子のみんなでカンパして中絶したんだよ」
「江美……。いつ気がついたの」
「一週間前ごろだよ。お姉ちゃんがキャバ嬢やってたときから、いつかこんなことになるんじゃないかと思って、ずっと心配してたんだ。だから観察してた」
「そうかぁ」
「で、何ヶ月」
「三ヶ月……」
「病院、ついて行ってやるよ」
「うん……」
「お金なら、クラスのみんなにカンパしてもらうから、だいじょうぶだよ」
「それは、ちょっと、嫌だな」
「そんなぜいたく言えるの」
「そうだけど、あと二か月たてばボーナスもらえるし」
「二か月たったらお腹の赤ちゃんは何ヶ月になるのよ。お姉ちゃん。バカなの」
ついに江美は怒り出した。もどかしそうに自分の拳で腿を叩いて続ける。
「誰の子供かなんて聞かないよ。お姉ちゃんだってわからないんでしょ。もう、最低。やっぱりお姉ちゃんはクズだ」
「そこまで言うことないだろ。誰の子かはわかっているし」
「じゃあ、その人に手術費をもらいなさいよ。どうせ家庭を持っているおじさんなんでしょ」
「おじさんじゃないし」
「じゃあ、誰なの!」
江美が大きな声を出したときだった。玄関の向こうで犬が吠えた。
「犬だ」
江美が呟いた。犬が吠えると古志郎が頭に浮かぶ。江津と江美は身構えた。二人とも古志郎は苦手だった。ドアが開いて姿を現したのは、モナームを抱いた深貴だった。
「深貴」
「江津! 会いたかったよ」
モナームが深貴の腕の中から飛び出して床に立ち、ぶるっと体を揺する。それから興味津々で部屋の中の臭いを嗅ぎまわり始めた。
椅子に掛けている江津の前に両膝をついて、深貴は江津の両手を取った。
「なかなか来れなくてごめんね。おねまが外に出してくれなかったんだ。古志郎さんが見張ってて、あの人隙がないし、やっと目を盗んで抜け出してきたんだ。会いたかったよ。元気だった?」
涙ぐまんばかりに必死な瞳で江津を見つめるようすに江美が逆切れして椅子から立ち上がった。
「なにが元気だったよ。お姉ちゃんはね、いま大変なのよ」
「江美。余計なことは言わないで」
「どうしたの。なにかあったの」
みるみる深貴の表情が曇る。
「お姉ちゃんはね、どこかの男の子供を妊娠しちゃったのよ」
「に、妊娠! 妊娠って、あの妊娠?」
「あんたもバカなの」
江美が呆れた。深貴は江津の両肩に手を置いて顔を覗き込んだ。
「ほんと?」
「ほんとだってば!」
江美が江津に代わって答える。深貴の表情が険しくなった。
「江美ちゃん。少し黙っていてくれる。ぼくと江津に話をさせて。とても大事なことだから」
思いもよらないきっぱりとした深貴の態度に江美は口をつぐんだ。
「江津。それで、体はどうなの。病院には行ったの。妊娠って、たいへんなんでしょ」
「深貴、落ち着いて。わたしはだいじょうぶだから」
「だいじょうぶじゃないよ。一人にはしておけないよ。きみはぼくたちの宝物を身ごもったんだよ。信じられない。これは奇跡だ」
「大げさだよ」
「大げさじゃない。ほんとうに奇跡なんだ。ぼくは長く生きられないと思っていた。だから、将来への希望は持てなかった。まさか、ぼくに子供ができたなんて!」
そういって深貴は江津を抱きしめて声を放って泣き出した。深貴が手放しで泣くとモナームも盛んに吠える。アパートだから犬の鳴き声はまずかった。
「江美。犬をおとなしくさせてよ」
「お姉ちゃんこそ、その男を泣きやませてよ」
「ああ、そうか。深貴、泣きやみな。アパートだから派手な音はまずいんだよ」
「だって、うれしくて、泣くのが止まらないよ」
「鼻、かんで。ほら、ティッシュ」
素直にティッシュで鼻をかんで一息つく。深貴は江津の手を掴んで立ち上がらせた。
「行こう。おねまに報告しなきゃ。きっと大喜びするよ」
「いやぁ、喜ばないと思うなあ。絶対キレるよ」
だが、深貴は断固と江津を引っ張った。それを見て江美が江津の背中を押した。
「お姉ちゃん。行ってきなよ。ほんとうにその人がお腹の子供の父親なら、手術費用を出させればいい。行っといで」
江美がそんなことをいうものだから深貴が憤然と江美を睨み付けた。
「江美ちゃん。お姉さんのことをおもうなら、そんなことを言ったらいけない。江津はお腹の子を邪魔になんかしていないよ。たった一人で苦しんでいただけだ。だって、江津を助けてくれる人は誰もいないんだから」
そして、次に江津に顔を向ける。
「ぼくがいるよ、江津。それを忘れちゃだめだ」
「深貴……」
「ぼくの愛情を信じて。江津」
信じたい。信じてみようか。江津は胸の奥が熱くなるのを感じた。疑うことなく、真っ先にぼくの子供だと喜んでくれた深貴に、それまでの苦しみや恐れが溶けていくようだった。
深貴と手をつないだ江津は深幸の前にいた。深幸の斜め後ろには古志郎もいる。相変わらず古志郎は無表情だったが深幸のほうは今にも眼から火を吹きそうだった。
「もう一度言ってごらんなさい。深貴」
これ以上低い声は出せないというくらい恐ろしい声で江津を睨む。リビングルームに入ってきた家政婦さんが、場の雰囲気に慌てて出て行った。
「だからね、おねま。ぼくたちに赤ちゃんができたんだよ。江津のお腹には、ぼくの子供がいるんだ」
嬉々として深貴が言いつのる。
「黙りなさい。コロっと女に騙されて。誰がそんな話、信じると思うの」
ほらね、と江津はおもった。深貴の手をほどいて帰ろうとする。しかし、深貴はその手を放さない。
「おねま。ぼくの子に間違いないんだ。神様がくれた赤ちゃんだよ」
「信じられない!」
深幸が大きな声を出した。そうだろうな、と江津もおもう。信じられなくて当然だ。ホールインワンなんだから。江津は笑いだしてしまった。
「何がおかしいの。あなたのことなのよ」
「いや、そうじゃなくてですね。なんか、おかしくて。だって、ホールインワンだから」
アハハと笑ってしまった。深貴まで一緒になって笑い出したのでますます深幸が怒りだした。
「笑い事ではありません。なにがホールインワンですか。ゴルフじゃないのよ」
二人を叱ってから深幸は携帯電話を手に取った。
「信孝さんを呼ぶから、あなたは家族代表として妹さんを呼びなさい。両家で話し合いましょう」
「妹は先月高三になったばかりですけど」
「呼びなさいといったら呼びなさい」
「は、い」
三十分後、例の豪華な客間に古志郎を含めた全員が顔を揃えた。江美はなぜ自分がここに呼ばれたか理解できていなかったが、深貴の家のけた違いの暮らぶりに生唾を飲んでいた。
「お姉ちゃん。すごい金持ちをひっかけたじゃない。金づるだよ」
隣に座ってこそこそ囁いてくる。
「やめな。聞こえるよ」
江津もこそこそ囁き返す。信孝が気難しく眉を寄せて咳ばらいをした。そういう顔をすると軽薄に見えてたおじさんが、どこかの偉い人のように見えてくるから不思議だ。
「つまり、深貴の子供を妊娠したから、責任をとってくれというわけだね」
信孝が侮蔑するような言い方をする。言い返そうとする江津の腕を抑えて江美が先に口を出した。
「そうです。結婚してくれるなら産みますけど、結婚してくれないなら産めません」
「江美ったら。結婚する気なんかないよ」
「しっ。お姉ちゃんは黙ってて」
「ぼくは結婚したいよ。結婚しようよ江津。赤ちゃんも生まれてくるし」
「深貴は黙ってなさい!」
こんどは深幸が怒鳴る。
「黙らないよ。だって、これはぼくと江津の問題なんだから」
深幸が憤然と深貴を睨み付けた。
「結婚がどういうものか分かってるの。仲良しごっこじゃないのよ。大学生で生活力のないあなたが、どうやって家庭を持てるの。子供を育てられるの」
「両親の遺産があるよ。おねまが言ってたじゃないか。おねまが預かっているから、大人になったら受け継ぎなさいって」
見る見る深幸の両肩に力が入る。それをなだめるように信孝が深幸の手を軽く叩いて江津に顔を向けた。
「では聞くが、子供は深貴の子供だって言いきれるのかね。江津さんはキャバクラで働いていたそうじゃないか。男性経験は多かったんじゃないのかな」
痛いところを突かれて江美が舌打ちした。だが江津はふてぶてしいほど平然としていた。
「キャバ嬢、やってましたけど、男性経験は深貴が初めてです。わたし、いたって純情で真面目でしたから」
自分で言って笑いそうになった。カツアゲし損ねて深貴とぶつかってラブホテルに連れ込んで妊娠しちゃったとは、さすがにいえない。
「そうかね。わかった。結婚は許さないが、きみが子供を産むまでの生活は保障しよう」
「信孝さん!」
「まあまあ深幸、落ち着いて。江津さんには出産までこの家で暮らしてもらおう。客間が空いているからそこで暮らせばいい。そして、生まれた子供が確かに深貴の子供だと証明されたら、深幸」
信孝が深幸の目を覗き込んだ。深幸の喉がごくりと動く。
「もしも、ほんとうに深貴の子供なら……」
呟いて深幸は震える手を喉元に当てた。
「わたしたちに家族ができる……」
「そうだよ。だが、DNA鑑定をして深貴の子供でなかったら、子供ごと彼女には出て行ってもらう」
江美が顔色を変えた。
「じゃあ、子供が深貴さんの子供だったら、お姉ちゃんはどうなるんですか」
「決まっているわ。深貴の子供だったら親権はこちらでとってわたしが育てるし、江津さんはこの家から出て行ってもらいます」
「一千万でどうだね」
信孝が江美にそういって続けた。
「深貴の子供だったら、出産後にさらに一千万円。それで手を打たないか」
「大学に行けるわ! それだけのお金があったら、わたし、大学にいけるよ!」
手を叩いて叫んだ江美に江津は呆然としていた。