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恋する足音  作者: 深瀬静流
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第五話

 車の後部座席で江津は黙りこんでいた。隣りには深貴がいる。深貴の膝にはモナームがいて、深貴はモナームに江津との出会いを熱心に話していた。

 犬に馴れ初めを話したってわかるわけないのにとおもうのだが、モナームは深貴の目を見つめて聞き入っている。親しい友人のいない深貴の、何でも話せる相手がモナームであることを知らないので江津にはその姿が奇異に映った。

 車は吉祥寺通りを南に下って御殿山のほうに入っていく。そのまま井之頭公園を突っ切って下連雀の住宅地に入っていった。古志郎の滑らかな運転は乗っていて安心できた。犬にも車にも優しいのに、どうしてこの人は深貴に対しては横柄で、わたしに対しては尊大なのだろうと江津には不思議だった。

 江津のアパートから車で十五分ほどのところに深貴の家はあった。元は旧華族の屋敷跡でもあったのか、大正の頃の洋館を彷彿とさせる屋敷に入っていく。正面玄関の屋根付きの車寄せに車を止めて古志郎が降り、後部ドアにまわってドアを開けた。モナームを抱いた深貴が奉仕されることに慣れたようすで車を降りる。

 江津は自分でドアを開けて降りていいものか迷った。古志郎がドアを開けてくれるなら、勝手にドアを開けて降りるのははしたないとおもったからだ。だが、古志郎と深貴はそのまま玄関に行こうとする。自分でドアを開けて車から降りたが、なんだかみじめになってこのまま帰ろうかとおもったとき、深貴が振り向いた。

「どうしたの江津」

 差し出してくる深貴の手に誘われるように江津の足は動いていた。深貴のテリトリーに入ってしまったことを後悔したが、深貴が江津を気遣ってくれるのなら、黙って深貴に従うことにした。深貴だけは江津を傷つけないと信じたからだ。

 乳白色の大理石を敷き詰めた広々とした玄関の床で古志郎と深貴の革靴が小気味よくキュッと鳴る。江津の合皮のローファーは音をたてなかった。靴を脱いでホールを見回す。小さなミュージアムに迷い込んだような錯覚を覚えた。家具調度品に加え、江津でも知っている高名な画家の油絵が壁に飾ってある。きょろきょろするのはみっともないとわかっていても、江津の目は天井のシャンデリアや窓のステンドグラスに向いてしまう。

「おねま。江津を連れてきたよ」

 深貴の声で我に返った。江津が通されたのは客間だった。どこかの国の貴賓室と間違えそうな重厚な室内に身が縮む。深貴が“おねま”と呼んだ女性は、江津と目を合わせてから、布張りのマホガニーのソファーからゆっくりと立ち上がった。唇に薄く笑みを浮かべているが瞳は冷ややかだった。苦手なタイプだった。偉そうで平然と人を見下すタイプだ。

「深貴の姉の音北深幸です。おかけになって」

 アルトの声でソファーをすすめる。声だけは耳に心地よかった。古志郎は立ったままだったが深貴は腰をおろし、隣りに江津をいざなったので、江津も行儀に気をつけてソファーにかけた。

 いつもだらしなく膝を開いて座っているので、つい膝が離れそうになる。それを両手で挟むようにしてぎこちなく頭を下げた。

「直江江津です」

 よろしくお願いしますという言葉は出てこなかった。仲良くしたい相手ではかったからだ。ここに来てしまったことを後悔しているくらいだ。

「お茶をお願いできるかしら」

 深幸が古志郎に声をかけた。

「はい。紅茶でよろしいでしょうか」

 古志郎は深幸にきいたのだが深貴が江津に、「紅茶でいい? それとも、ビールにする?」と訊くので、江津はおもわず深貴の脇腹を指で突いていた。

「ビールなんか飲むわけないでしょ」

 小声で囁く。

「だって、江津はビールが好きだから」

「しッ!」

「紅茶をお持ちしましょう」

 古志郎はそういって応接室を出て行った。深幸は内心驚いていた。あの深貴が、この薄汚い女に気を配るばかりでなく、実に生き生きして幸せそうだ。女を見つめる目つきのやさしさといい、女にたしなめられた時のうれしそうな表情といい、深幸は意外過ぎて戸惑いを禁じえなかった。まだまだ飛べない雛鳥だとおもって油断していたら、いきなり空に羽ばたかれた気分だった。深幸の心にじわじわと嫉妬が生まれた。

「直江さんはおいくつなのかしら」

 古志郎から江津の略歴は聞いていたが、本人から語らせればおおよその教養や個性が推測できる。だが、江津がこたえようとする前に深貴が口を挟んだ。

「江津は二十一歳だよ。ぼくより一つ年上なんだ。ね、江津」

「う、うん」

 あなたに聞いているんじゃない、と深幸の目尻が吊り上がる。

「江津にはね、妹さんがいるんだ。ご両親は他界してて、そこもぼくと同じなんだよね。ね、江津」

「あ、うん」

「ぼくたちは出会うべくして出会ったんだ。江津はぼくの運命だ」

 そういって深貴は江津の手を強く握り締めた。その手を江津はほどこうとするが、そうするとますます強く握ってくる。深幸はまじまじと結ばれた二人の手を見つめた。ありえない。深貴がこんなに積極的で饒舌で男の子らしくて嬉しそうなんて。これではまるで健康な青年ではないか。深幸は喉元を手でさすりながら目を見開いて弟を見つめた。

 ドアが開く音がして信孝が颯爽と入ってきた。トレーを持ってついてくる古志郎に快活に声をかける。

「深貴の彼女だって? ああ、あのこね。やあ、いらっしゃい。ぼくは深幸の夫で深貴には義理の兄にあたるものだよ」

 江津は弾かれたように立ち上がった。

「は、はじめまして。直江江津です」

「座って座って。そんなに緊張しなくてもいいよ。それで?」

 深幸の隣に腰を下ろしながら気さくに江津に声をかける。

「それで、って……」

 何のことだろう。“それで?”って、どういう意味だろう。江津は混乱して言葉が出なかった。すると深貴が身を乗り出した。

「それでね。おねまが江津に会いたいっていうから江津を紹介して、ぼくたちが正式に交際することを報告しようとおもって」

「ちょっと待ってよ」

 江津は慌てた。すると信孝が愉快そうに笑った。

「そうかい。いいじゃないか。いきなり彼女を連れてくるなんて、ちょっと驚いたけど、いいよ、いい。深貴は家にこもりがちだったけど、これからは二人でどんどん遊びに行けばいいよ。そうしているうちに体力もついてくるだろうからね。よろしく頼むよ。江津さん」

 信孝が深貴に調子を合わせて笑う。江津だけでなく深幸の表情も硬くなった。

「信孝さん。いつわたしが二人の交際を認めたかしら。余計なことは言わないでちょうだい」

「そうです。わたしたち、そんなんじゃないですから」

 そういって江津と深幸はおもわず目を合わせていた。古志郎がそれぞれの前に紅茶とショートケーキの皿を置いて行く。

「あの、わたし、帰ります」

 置かれたテーブルのものには手を付けずに江津は立ち上がった。すかさず深貴が江津の腕を掴む。

「帰らないで。せっかく来たんだからぼくの部屋を見てよ。ゆっくりしていって」

「か、帰るよ」

 睨み付けてくる深幸の視線を避けながら深貴の手を振りほどこうとした。

「そうだよ。ゆっくりしていけばいいよ。深貴がひとを家に呼んだのは初めてなんだから歓迎するよ」

 信孝も引き止める。そして江津を見ながら続けた。

「ぼくはきみが、深貴の大切な人であることを受け入れてもいいよ」

 信孝が妙な言いかたをしてにっこりとほほ笑んだ。受け入れてもいい、とはどういうことだろう。不承知だが仕方がないという意味なのだろうか。目の中に透明な糸が入ったような不快な違和感を覚えた。

 眉をひそめる江津に古志郎がさりげなく耳元で、「うまくやったじゃないか」と、意地悪くささやいた。

 どういう意味なのか古志郎の表情を読み取ろうとしたが無表情だ。ますます江津はいたたまれなくなった。深貴を除いた全員が江津を試し、牽制しているようにおもえた。

「おじゃましました」

 立ち上がってぺこりと頭を下げる。だが、深貴が強い力で手を掴んだ。

「行かないで。江津!」

 見上げてくる目は必死だった。わずかに心を動かされたが、ここは江津がいる場所ではなかった。

「そうだよ。来たばかりなのに、すぐ帰るなんて深貴がかわいそうじゃないか。ねえ深幸」

 信孝もそんなことをいう。

「…………」

 深幸は返事をしない。これ以上不機嫌はないという表情を隠しもしない。自分はなにか失礼をしただろうか。失言があっただろうか。あんなに不愉快な顔をさせるようなことを言ったりしたりしただろうか。

 しだいに江津は腹が立ってきた。だから信孝が、「ゆっくりしていくといいよ。深貴も喜ぶし、なんなら泊っていけばいいよ」といったとき、ソファーに腰を戻していた。嫌がらせの一つもしてやろうとおもった。こんなお高くとまった夫婦、腹の中ではなにを考えているかわからない狸オヤジと狐ババアに負けてたまるかと開き直った。

 大胆に足を組んでカップを取り、紅茶をガブリと飲んだ。カップを置いてケーキが乗った皿を取り、フォークで刺して無作法にかぶりつく。深幸の目が大きくなった。深貴が江津のまねをしてケーキにかぶりつくものだから、なおさら目が見開かれる。深幸が、お行儀が悪いと注意しようとしたとき、深貴が生クリームのついた口元をほころばせて「おいしいね。江津」といった。

「クリーム、ついてる」

 江津は深貴の口元の生クリームを指で拭ってぺろりと舐めた。

「まあ」

 おもわず深幸が声をもらしていた。食べ物をおいしそうに食べたことのない深貴が江津のまねをしてケーキをぱくついている。うれしそうで、楽しそうで、こんな弟を見たのは初めてだった。この娘と一緒に夕食のテーブルにつかせたら、深貴は食欲を見せるだろうか。

 深幸は、深貴が健康な若者のようにもりもり食べる姿を一度でいいから見てみたかった。大きな声で話し、快活に笑う姿が見たかった。そのためなら、この娘を一晩泊めるくらい、我慢してもいいのではないか。この娘が深貴に与える影響が好ましいものなら、この娘を利用するという手もある。すべては深貴のため。深貴の幸せのためなら、使えるものはなんでも使ってやる。深幸は喉元をさすりながら江津に声をかけた。

「お夕飯をご一緒にいかが?」

「いえ。結構です」

「そうしようよ、江津。一緒にお夕飯を食べよう。そして、泊っていってよ。客間があるから遠慮しなくてもいいよ。なんなら妹さんも呼ぼうか」

「なに言ってるのよ。もう帰るよ」

「そんなこと言わないで。ぼくの部屋でカラオケしようよ。一人で歌っても楽しくないんだ」

「いいねえ、カラオケ」

 信孝が話しに加わってくる。

「深幸もどうだい。深貴の部屋でファミリーカラオケ大会でもしようか。夕飯のあとがいいな。酒でも飲みながらみんなで騒ごう。古志郎くん。きみも一緒に」

「わあ。うれしいなあ。江津はビールが好きだから、いっぱい飲むといいよ」

「深貴!」

 江津はきつい声を出したが、深貴はうれしそうに笑うばかりだった。

 信孝は仕事を抜けだしてきたのでいったん会社に戻るといって行ってしまった。江津は疲れたので席を外したいと小声で深貴に頼んだ。深貴は庭に案内した。まだ芝生は芽吹いていなかったが何もない広々とした空間は心地よかった。茶色の芝生に日差しが踊っている。江津は靴と靴下を脱いで素足で茶色の芝生に立った。

「気持ちいいなあ。あのバスケのゴールだけど、ボールはあるの?」

 庭の隅にあるゴールを指さす。

「あるよ。物置にあるから取ってくる。待ってて」

 深貴はボールを取りに走り出した。

 深貴が走っている。客間の窓から見ていた深幸が息を飲んだ。あのこが走るところを初めて見た。なんということだろう。見ていると、バスケットボールを持った深貴が戻ってきて江津に手渡した。

 江津は二三度ボールをついて感触を確かめたのち、ゴールめざしてドリブルで走り出した。数回フロントチェンジしてランニングシュートする。ボールがすとんとネットをくぐって落下した。

「すごいね、江津」

 江津は笑いながらドリブルで戻ってくると、「取ってごらん」と、深貴を誘った。深貴が靴と靴下を脱ぐ。

「芝生がチクチクする」

「くすぐったいでしょ」

「くすぐったい」

 笑いながら二人はボールで遊び始めた。

「見て。光瀬くん。深貴が笑っているわ。走るのは遅いけど、あのこ、走ってる」

 客間の窓から見ていた深幸の目もとに涙がにじんだ。古志郎は気づかないふりをして頷いた。深幸が並々ならぬ努力で深貴を育て上げたことを古志郎は知っていた。深貴の笑顔は深幸を幸せにするはずだった。しかし、深幸が口にした言葉は意外なものだった。

「光瀬くん。あの娘はお金に汚いって言っていたわね」

「はい。生活が苦しいようです」

「あした、あの娘が帰るころに、さりげなく現金を置いておきなさい」

「はい」

 古志郎は理由をきかなかった。聞く必要もなかった。言われたことをするだけだ。

「いくらぐらい撒いておけばいいかしらね」

 と、深幸。

「十万ぐらいでよろしいかと。あまり高額では、かえって手は付けないでしょう」

 深幸は軽く頷いた。話はそれで終わりだった。



 鳥が鳴いていた。都会の野鳥といえばスズメとカラス、あとはハトぐらいしか江津には思い浮かばない。だから聞きなれないツピーツピーツピーと甲高く鳴くシジュウカラの声で目が覚めた。一瞬、ここはどこだろうとおもった。そして、深貴の家に泊まったことを思い出した。

 緞帳のように重いカーテンをめくって外を覗くと、すっかり明るくなっていて、鳥の声の主は屋敷を取り囲んでいる庭木の中にいるらしく姿は見えなかった。

 ゆうべのカラオケのことを思い出すと頭痛がしそうだった。深貴と信孝は楽しそうだったが、深幸はにこりともしなかったし、古志郎に至っては歌っているときも無表情だった。嫌だったが仕方なく何曲か深貴とデュエットした。だが一人では絶対に歌わなかった。こんなに楽しかったのは生まれて初めてだよと深貴はいっていたが、きっとそうなのだろう。家政婦さんは帰っていた時間だったので後片付を手伝わなくてはとおもったが、どうにもその気になれずに古志郎に任せて客間に引き取った。すぐに深貴が冷えたビールとペリエを持って客間にやってきた。

 二人でベッドに腰を下ろして江津はビールを、深貴はペリエを飲んで少し話した。江津の手を取り、きょうはほんとうにありがとうとお礼をいわれたとき、なんだか深貴がかわいそうになったのは本心だ。普通の生活、普通の楽しみといったことが無かった深貴の寂しさが、その喜び方に現れていたからだ。ゆうべの深貴をおもいだすと江津はセンチメンタルになった。いつのまにか深貴の幸せを願うようになっていた。

 客間には洗面所とバス・トイレがセットになっていたので顔を洗いに洗面所へ行った。大理石で統一してあるホテルのような洗面所に用意されているアメニティセットで歯を磨き洗顔した。また髪の根元が伸びたなあ、とおもいながら金色の長い髪を梳かした。自分の姿を見て、これでは好感をもたれないのも無理はないとおもった。深貴はわたしのどこが気に入ったのだろう。こんなわたしのどこがよかったのだろう。謎だった。

 首を振り振り洗面所を出て服を着替え、キッチンに行った。きちんと整理された広々としたキッチンにため息が漏れる。美しい眺めだった。こんなキッチンのある家で暮らすのなんて、夢のまた夢だ。

 かってに冷蔵庫を開けて中を覗いた。深貴が飲んでいるペリエがあったので、どんな味なのかとおもって飲んでみた。ただの炭酸水だった。肩をすくめて最後まで飲み終え、げっぷをしてから瓶を置いた。

 屋敷が静まり返っているので江津はしだいに大胆になっていった。ベルサイユ宮殿から盗んできたような豪華な食器棚を鑑賞する。中に収納されている食器も名の通った名品だ。そういえば、きのう出されたティーセットも棚にある。ということは、割らなくてよかったということだ。江津はしみじみ自分が庶民であることを実感した。

 これらの食器を普段使いに使っている人間と、これらの食器を洗う人間のどちら側かというなら、間違いなく自分は洗うほうの人間だった。

 ため息をつきつつキッチンを出ようとしたときだった。ロココ調のダイニングテーブルの上に置かれた雑誌の下に、福沢諭吉様の顔がのぞいていたのだ。まさかとおもって手にして数えると十万円あった。

「う、そ」

 とっさにリビングの中を見回していた。誰もいない。十万円あれば江美の初年度の学費が賄える。江津の手が震えだした。いけない。深貴の家で、こんなこと、いけない。ネコババしたら、深貴がなんといわれるか。だから、戻さなくては。

 しかし、江津の手は十万円を掴んだまま震え続けた。

 お母さん許して。江美を卒業させるためなら、江津は何だってするよ。

 心の中で亡き母に詫びて江津はきつく目を閉じた。そのときだった。

「喉から手が出るほど欲しい金だろ」

 振り向くと、ドアのところに古志郎がいた。古志郎は薄く笑っていた。江津は金をテーブルに戻そうとした。

「無理するなよ。金が要るんだろ。おまえは腹をすかせた薄汚いたネズミだ。餌を咥えてさっさと消えろ」

 侮辱されて目の前が真っ暗になった。金を握っている手が面白いほど震える。そのとおりだ。わたしは薄汚いネズミだ。だけど、薄汚くったって、生きている以上生きなきゃならない。わたしは父親のような無様な死にかたはしたくない。生きるためならなんだってしてやる。

 むくむくと江津の心に反抗心が膨らんでいった。江津は金をポケットにねじ込んで古志郎から逃げ出していた。

 薄汚れたネズミには薄汚いネズミの生き方があるんだ。そう虚勢を張って深貴の屋敷から逃げ出したのだった。

 駅前にある銀行のATMで江美の高校の振込先に入金して江津は胸をなでおろした。これで江美の学費から解放された。古志郎の侮辱や金を盗んできたことへの罪悪感は江津の心に傷となって残ったが江津は強引に無視した。いい子ぶっていたら生きていけない。それが江津の人生観だった。頭を悩ませていた学費から解放されて江津の足取りはいくぶん軽くなっていた。



 アパートに戻ると江美が普段着姿で椅子にだらしなく坐ってテレビを見ていた。

「どうしたの、学校は」

「休む」

 背中を向けたままこたえる。

「具合でも悪いの」

「行く気しない。お姉ちゃんを見ていると、真面目に高校生しているのがバカみたいに思えてきて、やる気なくした」

「どういうことよ」

「あのさ!」

 振り向いた江美の目が泣いたあとのように真っ赤だった。

「なにかあったの江美」

「別に何もないよ。いつものようにお姉ちゃんが外泊しただけ」

「あ、ごめん。連絡しないで。なんだかごたついててさ、しそびれちゃった。ゆうべはね、深貴の」

 話しの腰を折るように江美がテーブルを叩いた。

「お姉ちゃんが帰ってこない夜、わたしがどんな思いをしてるか、考えたことある?」

「なによ。いきなり」

「わたしはお姉ちゃんが大っ嫌い。キャバクラで働いているお姉ちゃんはわたしの恥よ。学校に知られたらどうするの。わたし、学校に行けなくなるんだよ。お姉ちゃんが帰ってくるまで、わたしがどんな思いでいるか知らないでしょ。わたしだって、もう子供じゃないよ。帰ってこないということがどういうことか、わたしにだってわかるよ。汚い。お姉ちゃんは汚いんだよ!」

 それで泣いていたのかとおもった。江津は返す言葉がなかった。だが、江美が考えているようなことは一度だってしたことがないとわかってほしかった。

「江美。お姉ちゃんはね、たしかにキャバクラで働いていたけど、江美が考えているようなことはしていないよ。それに、キャバクラ、クビになったし。ゆうべ帰ってこなかったのはね、ほら、江美も知ってるでしょ。あの、頭のおかしい」

「お姉ちゃんが帰ってこない夜は、江美は眠れないんだよ。いろんなことが頭に浮かんで、不安で、怖くて、明け方帰ってくると、ほっとして」

 背中に当てていたクッションを江津に向かって力いっぱい投げつけてきた。江美の震える口元に江津は胸を突かれた。

「心配してくれてたの」

「嫌で嫌でたまらない。お姉ちゃんがしていることは虫唾が走るほど嫌。でも、お姉ちゃんが働いてくれているおかげで江美が高校に行けてることも知ってる。苦労かけてることも分かってる。でも、こんな生活、もう、ほんとうに嫌なの。お姉ちゃん。お願いだから、昼間の仕事に替えてよ。そして、夜には帰ってきて。江美は寂しい」

 江津ははっとした。江美に駆け寄り、力いっぱい抱きしめていた。死んだ親から取り残された姉妹だった。母親が心筋梗塞で急死したのは江美が小学六年生のときだ。その時の悲しみが癒える間もない二年後に、父親が借金をこさえて自殺した。悪夢だった。小心でやさしいだけが取り柄だった父親は、妻を亡くした心の隙間を埋めるように、派遣会社から派遣されてきた事務のパートタイマーの主婦と交際するようになった。

 江美と江津がいるというのに、子供よりも交際相手が大切だったのか、夫からDVを受けて苦しんでいた彼女を助けるために家を抵当に入れて借金をしたあげく、彼女と心中してしまったのだ。彼女は奇跡的に助かったが父親はだめだった。残された借金を整理して家を手放し、アパートに移ってなんとか生活が立ちゆくまで伯父叔母は力を貸してくれたが、今ではお金を借りに行くと邪険にドアを閉めてしまう。

 頼るものもなく、江美に苦境を見せるのが嫌で頑張ってきたが、いつも口汚く罵ってばかりいる江美に寂しいと泣かれて、江津は胸がいっぱいになってしまった。

 かわいそうな江美。小さな江美。これからは、お姉ちゃんが江美のお母さんだよ。お父さんだよと、二人きりになってしまった通夜の席で、江津は江美を抱きしめて泣いたのだった。

 だが現実は厳しくて、高校を卒業してデパートの地下の名店街で働いていたが、その給料では生活を維持できなかった。夜の仕事に就くのは江津にとっても大変な勇気がいった。高い崖の上から海に飛び込むような決意で夜の世界にダイブしたとき、なんとしても生きてやる、なんとしても江美を一人前にするまでは頑張り続けると決心したのだった。

「お姉ちゃん。わたし、高校やめようか。二人で働けばやっていけるでしょ? お姉ちゃんがキャバ嬢やらなくたって、なんとかなるよね」

「高校やめることないよ。お姉ちゃんだって高校は卒業してるんだもん。江美も高校は出なきゃ。大学だって行かしてやるよ。江美は成績がいいんだから、大学、行かなきゃね」

 涙をこらえて江美の頭を撫でた。本来は素直な甘えっこだった。江津を心底嫌っているわけではなく、江津に苦労をかけているのに自分ではどうすることもできない苛立ちで心が暴れているだけだった。江美を抱いてやさしく揺すりながら、江美が落ち着くまで江津は髪を撫で続けた。


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