第四話
白を基調とした深貴の部屋には、壁掛けタイプのテレビやピアノ、それに業務用のカラオケ機材などが置かれていて、それらがなかったら病室のようだったかもしれない。大きなベッドとサイドテーブルには加湿器。それに壁一面を占領している本棚に両袖机。衣類や小物はウォークインクローゼットの中に収納されているから部屋がすっきりと広く見える。
張り出し窓の向こうには明るい庭が広がっているのに窓辺を飾る鉢植えもなく、窓を隠すようにカーテンが引かれていた。
深貴はベッドで眠っていた。白衣を着た老医師が脈をとりおえて腕を布団の中に戻して振り返る。ソファーに座って様子を見ていた深幸が立ち上がった。
「どうですか。先生」
ベッドに歩いて行って深貴の寝顔を覗きこむ。
「いつもの発作ですが落ち着いています。だが、今回は疲労が激しいですな。肘を擦りむいているし背中の肩甲骨あたりに打撲の跡がありますが、なにかあったのですか」
「いえ」
深幸はうるさそうに片手を振った。年下のものが年長者に対してとるには不遜なしぐさだった。医師は黙り、軽く会釈してドアに歩き出した。そのあとを医療鞄を持った看護師が続く。
「お忙しいところ、急にお呼びだてして申し訳ありませんでした」
深幸は大学病院の内科医長に頭を下げた。深貴が今日までなんとか健康を維持してこれたのは、この老医師のおかげだった。
「先生。お茶を用意しておりますので、一休みなさっていってください」
だが、深幸の申し出をやんわり断って医師は帰って行った。玄関の車寄せで車を見送ったあと、深幸はリビングルームに向かった。いつの間にか深幸のあとを古志郎が影のように従っていた。
「詳しく報告しなさい」
リビングルームに入ってすぐ、深幸は叱責に近い口調でいった。古志郎はわざとゆっくりドアを閉めてから、深幸から五メートルの距離をとって立ち止まった。こういう時、深幸に近寄りたくないのは古志郎も同じだった。
「深貴くんは、昨夜、女性とラブホテルにお泊りになりました」
「ふざけないで!」
深幸の滑らかな額に癇性な筋が浮かんだ。イライラとショートカットの髪をかき上げる。そのうちサイドボードから酒瓶を取るだろう、と古志郎は深幸の顔色をさりげなく窺った。おれの話を聞いたら飲まずにはいられなくなるさ。古志郎は表情を消した顔の下で笑った。
「ふざけてはおりません。本当のことです。相手の女性は、たまたま道でぶつかっただけの行きずりです」
「なんですって。ぶつかった? それで転んで打撲したの」
「そうです」
「どうしてそんなことになったの」
「さあ。とにかく、女が勢いよく走ってきて、深貴くんにぶつかったのがきっかけで、お二人はラブホテルに入られました」
「どうして、そういうことになるの。たかがぶつかったぐらいで」
「女のほうが深貴くんを気に入ったみたいです」
このあたりはとぼけておいた。深貴が女に担がれてラブホテルに連れ込まれたなどと正直にいうわけにはいかない。そんなことをいったら過保護の深幸は深貴の全身を消毒しかねないからだ。
「それで深貴はラブホテルに一泊したというの? それをあなたは確認したの?」
「はい。入って行くところと、早朝、ホテルから出てくるところを確認しました」
「光瀬古志郎! なぜ、黙ってみていたの」
「二時間休憩で出てくると思ったんです。途中で部屋に踏み込むなんて、いくら私でもできませんよ」
深幸はふらふらとサイドボードに歩いて行った。
「氷と水をお持ちしましょうか」
ボウモアのボトルをサイドボードから取り出すのを見て古志郎は控えめに声をかけた。深幸が頷く。リビングルームと続きになっているダイニングキッチンに行って氷と水とグラスをトレーに乗せて戻ってきた。古志郎は慣れた手つきで水割りをつくり、ソファーに浅くかけている深幸の前に置いた。
「チョコレートでもお持ちしますか」
「いらないわ」
水割りを口にはこびながら、深幸は考え込むように組んだ膝を指で叩いた。
「相手の女は?」
「直江江津。二十一歳。来月高校三年になる妹とアパートで暮らしています。母親は五年前に心不全で急死。父親は三年前に借金を苦にして自殺しています」
「自殺ですって?」
目を見張り、深幸はつかのま考え込んだがすぐに頭を振った。
「自殺をするような親の娘なんて、ろくなもんじゃないわね」
「はい。カスです」
「カス! そんな娘と深貴は一夜を共にしたというの」
深幸はかたまりを飲み込むようにグラスの酒を飲みくだした。
「気にいらないわ。大切な弟がそんなカスと泊ったなんて」
「なんなら、女を消しましょうか」
深幸がじろっと古志郎を睨んだ。
「極道みたいな冗談はやめなさい。あなたが言うと恐ろしいのよ」
肩をすくめる古志郎に深幸は身を乗り出して声を潜めた。
「光瀬くん。まさか、その。そんなこと。あるわけないわよね」
「何のことでしょうか」
「とぼけないで。深貴と女のことよ」
「さあ。どうでしょう。深貴くんも若い男性ですから」
「でも深貴みたいに副腎が弱くて虚弱で神経過敏で、過換気症の発作を起こすようなストレスに弱い子に、できるのかしら。女の子と、その……あれが」
「深貴くんにお尋ねになってはいかがですか」
深幸は答を探そうとするように古志郎の目を見つめた。だが、古志郎はどこまでも無表情だった。
深幸は強く頭を振って、思い浮かんだ不快な想像を振り払った。
深貴が自分のベッドで目を覚ましたのは日が暮れるころだった。枕もとの電子時計を見て日付が変わっていないことを確認して安心した。そしてめまぐるしく考えた。どうやって屋敷を抜け出そう。今度はお金を持っていかなければ。そうでないと江津は喜ばない。
なぜ江津が金銭に執着するのかは知らないが、とても困っているように見えた。深貴には小遣いというものがなかった。求めるより先に与えられてしまう環境のせいで欲しいものはなく、小遣いをもらっても病弱で外出もままならず、友人といえる友人もなく、鳥かごで飼われる鳥のように過ごしてきたのだが、江津と出会って世界が一変したように感じた。
丈夫な体と両親以外、深貴はほとんどすべてを与えられてきたといっても過言ではない。だが、江津は金に困っていて、住んでいたアパートを見てもけして豊かとはいえなかった。江津もまた深貴と同じように両親がいなかったが、深貴には深幸がいた。でも、江津には金切声を上げる妹しかいないのだ。
深貴は江津の力になりたいとおもった。江津が困っているのなら助けたいとおもった。
「行かなくちゃ。江津のところに、お金を持って」
だが、現金というものを持っていなかったので深幸に深貴の通帳を出してもらわなければならない。深幸は何に使うのかと訊くだろう。何かを買うからと嘘をついたら、現金ではなく品物が送られてくる。深幸ならそうする。友達と遊びに行くといったとしても、一緒に出かける友人がいないことも知っている。
ベッドに横たわったまま、自分という人間はほとほと情けないやつだとおもった。なにもかも深幸に依存して生きている自分という人間は、いざ、こうしたいとおもっても、一人では何もできないのだ。
深貴は今ほど自分を含めて自分を取り巻く環境に失望したことはなった。
「ぼくは、だめな人間だ」
深貴の目じりに涙がにじんだ。
「こんなにだめな人間はいない。生きている価値などない。おねまが必死にぼくを育ててくれたから生き延びたけど、もっと早く死んでいたほうが良かったのかもしれない」
病気になって床に臥すたびに考えたことをまた考えた。しかし、普段なら悲観的になって泣いたまま疲れて眠ってしまうのだが、今回は逆に頭が冴えていった。
「江津に会いたい。あの、強い眼差しに見つめられたい。そして、思い切り、ぎゅっ、とされたい」
江津に会いに行こう。お金を持って。
深貴は夕飯は自分の部屋でとった。広い屋敷なので自分の部屋にいると静かで人の気配は感じない。姉夫婦の居室は二階にあり、一階には深貴の部屋のほかに応接室とリビングとキッチン。それに、使われていない納戸部屋。そして光瀬古志郎の仕事部屋と個室があった。食事を終えてしまえば姉夫婦は二階に行ってしまうので、この時間は台所の後片付けをしている家政婦さんがいるだけで、その家政婦さんも二十時には古志郎に挨拶して帰って行く。
深貴は家政婦さんが帰って行くまで待ってから古志郎の部屋を訪れた。古志郎の部屋は居間と寝室の二間で、ブラウンを基調にした落ち着いた部屋だった。古志郎は大学生のころからこの屋敷に下宿していて深貴の家庭教師をしていたのだが、そのまま深幸に雇用された。深幸の前では深貴くんと呼んでいるが、もともと家庭教師の先生だったのだから二人だけのときは力関係では古志郎のほうが上だ。深貴に対して尊大な態度を取るのも仕方がなかった。
モナームは部屋の隅に置かれたケージの中で丸くなっていたが、深貴が顔をのぞかせるとゆるく尻尾を振ってそのまま眠ってしまった。古志郎はデスクでパソコンをいじっていたが、深貴がドアのところから離れないのを見て苦笑をもらした。
「おい。いつでも逃げ出せるようにそこにいるのか」
「そういうわけじゃないけど」
言いづらそうに口を尖らせる。古志郎は椅子に反り返って足を組んだ。
「なんだよ。話があってきたんだろ。言えよ」
「うん。あのね。おねまに内緒でお金を貸してほしいんだ。できればたくさん」
「なにに使うんだ」
「言えない。言えば貸してくれないと思うから」
「じゃあ貸さない」
「お金が欲しいんだ。お、か、ね」
古志郎は笑い出したいのをこらえた。男が金を欲しがるのはギャンブルか女かのどちらかだ。
「なあ深貴。なんで俺みたいないい男に彼女ができないか、知ってるか」
「え?」
「おまえのせいなんだぞ。おまえがしょっちゅう病気するから、お姉ちゃまが大騒ぎして俺は天手古舞さ。一日中おまえの子守で忙しい俺を差し置いて、まさか深貴、一丁前に女に金を貢ぐとか、じゃないよな」
深貴はぐうっと詰まった。じわじわと顔が赤くなる。古志郎が舌打ちした。
「あんな女に近づくな。あれは女のカスだ」
深貴の顔がさらに赤くなった。そして古志郎を睨み付ける。
「江津のことを悪く言うな。古志郎さんでも許さない」
「そうか。じゃあ、もう部屋へ戻れ」
用はないといわんばかりに深貴に背中を向けてキーボードをたたきはじめた。
深貴はドアを乱暴に閉めて足音荒くキッチンに向かった。家政婦さんに買い物を頼むときに使っている財布がどこかにしまってあるはずだった。深貴は次々に引き出しを開けていった。それを古志郎が廊下から見ていた。
「ムキになってるな。世間知らずのお坊ちゃんが、はじめて鳥籠から飛び出して世間の空に羽ばたいたんだ。糸だけつけて、少し空を飛ばしてやるか。これも社会勉強だ」
古志郎はトイレの前の床に自分のクレジットカードを置いた。トイレに来たとき、落ちているカードを見つけて深貴は疑いもせずに拾うだろう。
思惑通り、わざと置いたとも知らずにカードを見つけた深貴は、鬼の首でも取ったように喜んだ。
「あした、江津に会いに行こう。朝一番で会いに行こう。きっと江津は喜んでくれる」
深く考えもせず深貴は古志郎のクレジットカードを胸に抱きしめたのだった。
制服を着終わった江美がトースターから飛び出したパンにマーガリンをぬっていると玄関のチャイムが鳴った。
「自分で開けてよ。鍵、持ってるでしょ」
ハムをのせたトーストをほおばりながら玄関に怒鳴る。江津が仕事から帰って来たのだとおもっているからぞんざいだ。するとまたチャイムが鳴った。
「うるさいなあ。自分で開けてったら。めんどくさいなあ」
そういってテレビのボリュームを上げた。早朝のニュースは終わり話題は芸能・スポーツに代わっている。牛乳でトーストを流し込みながらチャンネルを変えた。するとまたチャイムが鳴った。
「しつこい。朝は忙しいのに、なによ」
舌打ちして玄関のドアを開けたら、頬を上気させた深貴が立っていた。
「あ。あのときの頭のおかしな病人」
「おはようございます。江津の妹さん」
「お姉ちゃんならいないよ」
掴んでいるドアノブを引いてドアを閉めようとする。そのドアを深貴が掴んだ。
「帰ってくるまで待たせて」
「だめに決まってるでしょ。知らない人を家に上げるわけにはいかないもの」
「ぼくは是枝深貴といいます。お姉さんの江津さんとは深い仲です。ぼくは江津さんと結婚するつもりです」
江美の顔がみるみる険しくなっていく。
「マジ? バカじゃないの、あんた。お姉ちゃんと結婚するって、本気で言ってるの」
「本気だよ。ぼくは真剣なんだ。だから、家に入れて。もう物を捨てないから」
そういって深貴はポケットからマスクを取り出して装着した。
「お茶もお水もいらないよ。きみのところのものは何も飲まないし食べないから」
「最初から出す気ないよ」
「では、お邪魔します」
マスクをしっかり押さえて靴を脱いで上がってくる。江美は呆気に取られて深貴の頭のてっぺんから足の先まで眺めた。育ちはいいようだ。品はいいし動作も美しい。着ているものもセンスは別にして上質なものを着ている。しかし、だ。江美は腰に手をあてて深貴に声をかけた。
「ちょっと、あんた。お姉ちゃんが帰ってくる前に帰ったほうがいいよ。あんたはお姉ちゃんがどういう人間か知らないみたいだから教えてやるけど、うちのお姉ちゃんはね、男を食い物にしてお金を毟り取る最低女なんだよ」
深貴が顔をしかめた。
「どうしてそんなことを言うの。姉妹なのに」
「姉妹だから言うのよ。あの女はね、男をだまして金を巻き上げるのは朝飯前、恐喝、ユスリ、カツアゲとなんでもこい。男が怒って怒鳴り込んできたことだってあるんだから。お金のことなら何でもやるダニみたいなやつなのよ」
「そんなひどいことを言って、心が痛まないの」
江美はびくっとした。
「なにがひどいの。本当のことを言っただけよ」
「きみの名前は」
「え? 名前? 関係ないでしょ」
「でも、名前を知らなきゃ、呼べないよ」
「いいから痛い目に合わないうちに帰って。ここには二度と来ないで。それが身のためよ」
断固とした口ぶりで江美はドアを指さした。そのドアが開いて、江津が帰って来た。
「江津!」
深貴が喜びの声を上げた。
「深貴、どうしたの。体のほうは大丈夫なの。あんた、どこが悪いの。心配したんだよ」
「江津」
深貴が江津のところに走り寄って抱きついた。
「ちょっと、やめなよ」
江美の目を気にして深貴を押しやる。江美は目をまん丸にしていた。
「お姉ちゃん。じょうずに手なずけたわね。このひと、頭がゆるそうだと思ってあんまりひどいことをすると、警察の少年課に通報するよ」
「ぼくは少年じゃなくて青年だよ」
気分を害したように口を尖らせてから、深貴はポケットから古志郎のクレジットカードを取り出した。
「現金はないけどカードを持ってきたよ。これなら銀行でお金を下ろせるんでしょ」
「どうしたの。これ」
カードを受け取りながら江津が訊ねる。
「ぼくはこういうの使ったことがないけど、これでお金を下ろせることぐらいは知ってるんだ」
「でも、これって、コシロウミツセって書いてあるよ」
「うん」
「うん、って……」
江津が喜んでくれるとおもって期待に瞳を輝かせている深貴に江津は言葉が出ない。
「あのさ、これ、ミツセさんから借りてきたの?」
「トイレの前で拾った」
「拾ったの?」
「うん」
「じゃあ、ミツセさんに返さなきゃ」
「うわぁ、お姉ちゃんがまともなことを言ってるよ。信じらんない」
江美が驚く。
「食べ終わったんなら学校に行きな。遅れるよ」
江津にいわれてスクールバッグを取ったものの気になって動けない。江津はカードを深貴に押し付けた。
「これは大切なものだから、早く本人に返してあげて。今ごろ焦ってるとおもうよ」
「いいんだよ。古志郎さんにはあとでぼくが謝っておくから」
「だめったら、だめ」
強い口調でいったものの、喉から手が出そうだった。ドアの向こうで犬の吠え声がした。犬? とおもって注意がドアに向かった。ドアが開いてモナームが入ってきた。その後ろには当然のように古志郎が続く。
「古志郎さん」
驚いている深貴に古志郎が薄く笑った。
「なあ深貴。カードで金を下ろすときには暗証番号というやつがいるんだぞ」
「そうなの。じゃあ、暗証番号をおしえて」
「そうはいくか」
古志郎はスクールバッグを持った江美に眼を止めた。
「学校に遅れるぞ。もう行きなさい」
江美はちらりと江津をみてから玄関で靴を履いた。部屋を出たが、そのままドアの横に身を隠して中の会話に耳をすます。
古志郎はモナームを抱き上げた。
「さて、直江江津くん。深貴の姉上がきみに会いたいとおっしゃっている」
「なんでわたしが深貴のお姉さんに会わなきゃいけないのよ」
「さあ。そういうことは本人に直接聞いてくれ。俺は迎えに来ただけだから」
「おねまが江津に会いたいって?」
「そうだ」
「そう。じゃあ、江津、行こうか」
「え? なんで」
「決まってるでしょ。おねまに江津を紹介するんだよ」
「わたし、紹介されたくないんだけど」
「いいから行こう。そして、ぼくたちのことを話そう」
「なにを話そうっていうのよ」
「ぼくたちは恋人どうしだって」
江津は頭を抱えた。どうしてそうなるのだ。ラブホテルでの一夜のことをいってるのだとしたらまったくの考え違いだ。そういう関係じゃないだろうと深貴を揺さぶりたくなる。だが深貴のほうは江津の手を握って玄関に引っ張っていった。江美はたまらず姉と深貴の前に飛び出していた。
「お姉ちゃんはほんとに悪い奴だ。どうやってこのひとをここまでたぶらかしたの」
「早く学校に行け!」
江津に怒鳴られて、今度こそ江美は外廊下を走って階段を駆け下りていった。