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恋する足音  作者: 深瀬静流
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第三話

 朝、ラブホテルで目を覚ました江津は、自分の隣で顔を寄せて眠っている深貴に驚いて跳ね起きた。ああ、そうか、と思い出す。ゆうべ、わたしは、このひとと……。

「やっちゃったんだぁ。初めてだったのに複雑だなあ。でも、このひとも初めてだったし、ま、いいか」

 くよくよ考えるのはやめようとおもった。考えたって始まらない。それに、たいしたことじゃないし、と自分をなだめた。だが、それはやせ我慢であって、江津だって大切な初めては愛する人と結ばれたいと娘らしい夢を描いていたのだ。

 江津は改めて、眠っている深貴を観察した。

「うん。やっぱりきれいな顔をしている。それに品もあるし、だいいちやさしかったし」

 夕べの深貴とのことを思い出して江津はほんのり頬を染めた。痩せ過ぎで骨も細く、強く抱きしめると折れてしまいそうな体だったけど、そのぶん、何かあったらこっちが体力で捩じ伏せられるからわたしの勝だ。

 なにが勝ちなのかはわからないところだが、そうしているうちに深貴の瞼が開いた。濡れているような艶のある瞳がまっすぐ江津を見つめてくる。江津の心臓がトクンと音をたてた。

「おはよう。江津」

 甘い深貴の声にますます胸が高鳴る。深貴が細い腕を伸ばして江津を抱き寄せようとした。その腕を反射的に押し返していた。

「わたしたち、べつにそういうんじゃないし。ゆうべ初めて会ったばかりだし」

「どうしてそんなことをいうの。ゆうべ江津は、ぼくにとって世界でたったひとりの特別なひとになったんだよ。江津だってそうでしょ」

「な、なにいってるのよ。特別なんて気安く言わないでよ。あんた、特別の意味、わかってるの」

「もちろんわかってるよ」

 身を起こして江津の髪を撫でようとする。だが、やはり江津はその手を跳ねのけた。

「やめなよ。もう朝だからさ。朝になって目が覚めたら、夢が終わって現実が始まるんだからさ」

 そう言い捨てて素早く服を身に着けていく。一枚服を着ていくごとに薄い鎧が江津の心を覆っていった。最後に高校の制服に腕を通すとき、なぜだかひどく惨めで悲しい気持ちになっていた。

「あんたも早く服を着なよ。一緒に出ないとだめだから」

 急かされて深貴も慌てて服を着た。江津は制服のジャケットから財布を出した。

「くそッ。そういえば、こいつ、カラッケツだったんだ。頭にくる」

 わたしがお金を払わなければならないのかと怒りがぶり返してくる。だが、その怒りも、背中を向けて服を着ている深貴のようすに静まってくる。このひとは別の惑星のひとだから。ふと、そんなことが頭に浮かんだ。わたしとは、たぶん住む世界が違うひとだ。

 とはいっても、福沢諭吉様が二枚、ドアのところにある自動精算機にジャーと吸い込まれていくのを見るのは辛かった。財布の中には小銭しか残っておらず涙がにじんでくる。洗面所にあるアメニティーを制服のポケットに詰めてから深貴を振り返った。

「帰るよ。ホテルを出たらバイバイだからね」

 一緒にドアを出る。廊下の分厚い絨毯が足音を消した。無人のフロントの前を急ぎ足で通り過ぎて自動ドアを抜け早朝の歩道に立つと、江津は真顔で深貴の目を覗き込んだ。

「ねえ。ところであんた、年いくつ」

「ぼくは二十歳だよ。江津は?」

「よかった。未成年じゃなくて」

 江津はほっとして深貴の肩をポンと叩いた。

「じゃあね。青年」

「待って。江津はおとなだよね」

 江津が着ている高校の制服に深貴の視線が向いている。

「心配いらないよ。わたしは一年前に成人式をすませているからさ」

 軽く笑って江津は歩き出した。街はまだ目覚めきっておらず、始発のバスが少ない乗客を乗せて走って行く。風は弱いがまだまだ冷たい。この時間なら江美はまだ寝ているだろう。早く帰って朝ご飯のしたくをしなければ。

 江津の心はすでに妹の江美に向かっていて深貴のことは頭から消え去っていた。


 深貴は江津のあとを追いかけていた。江津の脚は力強くアスファルトを蹴り、ぐんぐん歩いて行く。バス通りに沿った歩道を直進し、コンビニエンスストアのところを左に曲がった。

 深貴は必死だった。ここで江津を見失ってしまったら、一生会えない気がした。運動などしたことがなく、大学に通うのにも車で送り迎えをしてもらっている。その大学も休んでばかりで、深幸は何年かかってもかまわないから無理をせず卒業してくれればいいといっていた。

 江津が角を曲がって見えなくなったとき、深貴は焦って走り出した。これまで走ったことなどなかったので足がもつれそうになった。再び江津を視界に捉えたときには、深貴の肺は危険なほどになっていた。心臓は破れそうだし足もふらふらする。だが、今頑張らなければ一生後悔するだろうとおもった。

 この辺りまでくると商業ビルが消えてマンションや低層ビルが増え、もう少し行くとアパートや住宅がひしめく下町になる。深貴は痛む胸を察すりながら江津を追った。


「江美。起きな。学校に遅れるよ」

 きのうからバルコニーに干しっぱなしになっている洗濯物を取り込みながら、すぐ横の江美の部屋の窓ガラスに向かって怒鳴った。

「なんで洗濯物を取り込んでおかないの。不用心でしょ。若い女の二人暮らしなんだから。それに流しは汚れたお皿の山だし。リビングは散らかしっぱなしだし、すこしは手伝いなよ」

 八畳の台所と六畳二間のアパートの二階なので、台所のところにあるバルコニーで大きな声を出したりしたら、よその世帯に丸聞こえだ。窓が開いていれば江美の部屋がバルコニーから覗けるのだが、窓はぴたりと閉じている。

 台所がこれだけ散らかり放題なのだから江美の部屋も同じようなものだ。洗濯物を取り込んで、いったんダイニングテーブルの椅子の上に置き、江津は仏壇の水を取り替えた。

「おじいちゃん、おばあちゃん、おはよう。お母さんもおはよう。江津はきょうも元気だから安心してね。ついでに、勝手に自分で死んじゃったお父さんにもおはようだよ」

 チーン、と鐘を鳴らして手を合わせた。洗濯物の片づけは後回しにして江美の朝食の支度にとりかかった。冷蔵庫から卵とベーコン、それから食パンとトマトを出す。次に食器棚からインスタントのスープを取る。流しの中の汚れた食器の山からフライパンを探して洗い、ガステーブルに置いた。

「江美ぃー。起きなさいよー。学校に遅れるよ」

 熱くなったフライパンに油をひいて卵を落とすとジュッと気持ちよい音がした。火を弱め蓋をしてからトマトをスライスする。電気ポットのお湯が足りなくなっていたので江美のスープの分だけ水をたした。取り込んだ洗濯物の中からスクールソックスを抜き取って点検した。踵がすり減っていた。江津は顔をしかめた。こんな靴下を妹に履かせたくはなかった。

「新しい靴下を買わなくちゃ。それと、年度初めの学費だよ」

 自分の着るものなどかまいはしない。汚れていたって古くたってかまわない。わたしを笑うやつがいたら殴ってやる。でも、と江津は項垂れた。

 江美が友達からからかわれたりバカにされたりするのは嫌だった。惨めな思いは自分だけでたくさんだ。江美には辛いおもいをさせたくない。江美に泣かれるのがほんとうに嫌だった。

 江津は白い靴下を握りしめて唇をかんだ。財布の中の小銭が頭に浮かぶ。靴下を買おう。

「ごめんね、江美。みじめな思いをさせて」

 湿った声で呟いたとき、後ろで玄関ドアが音をたてて開いた。

「江津。ぼくだよ」

 振り向くと、真っ青な顔をした深貴が、今にも倒れそうにドアに縋りついていた。

「なんであんたがここにいるのよ」

「追いかけてきた」

「なんで」

「なんでだって?」

 深貴は心外だといわんばかりに眉を上げて靴のまま部屋にあがってきた。

「靴。靴!」

 江津が指さして怒鳴る。深貴は流しの汚れた食器の山に眼を止めて口を覆った。

「うっ。き、汚い」

 黴菌が気管に入るとでもいうようにきつく手で鼻と口を押える。そして、恐る恐る部屋の中を見回した。

「冷蔵庫が手垢でベタベタじゃないか。床のカーペットはシミだらけだ。カーテンの裾は汚れて真っ黒だし、うう、テーブルの上のコーヒーカップの内側は焦げ茶色だ。あれでコーヒーを飲んだりするのか。あの汚い冷蔵庫を素手でさわるのか。このカーペットは、きっとダニだらけだ。汚い。死ぬ」

 深貴はテーブルの上のコーヒーカップや皿を、汚いものでもつまむようにして手当たりしだいにバルコニーに投げはじめた。陶器が割れる派手な音がする。椅子の上のクッションも、取り込んだばかりの洗濯物もバルコニーに投げた。棚に飾った小物や飾り物もどんどん捨てていく。江美が部屋から飛び出してきた。

「なに! 何の騒ぎなの。お姉ちゃん、このひと、なに。なんで勝手にうちらのものを捨ててるの」

 パジャマ姿の江美は江津に向かって、「お姉ちゃん。この人を追い出して」と、叫んだ。驚いて固まっていた江津が、江美に大きな声を出されてはっとした。

「やめて。深貴」

 あわてて深貴に飛びついて行く。深貴が掴んでいるミッキーマウスの縫いぐるみを取り上げて深貴を両腕で締め付けた。深貴の体が熱かった。呼吸もせわしなく、体が小刻みに震えている。そのうち手足が痙攣しはじめた。

「お姉ちゃん。このひと、病気なの? ようすがおかしいよ」

 江美が深貴から後退った。

「いいから、江美は着替えてパンでも食べて学校に行きな」

 江津の腕の中でますます深貴のようすがおかしくなっていく。力なく深貴が床に崩れるので江津も抱きとめたまま床に座った。顔色は青ざめ呼吸はせわしなく脈拍が異様に早い。どうしよう。家族に連絡しようか。でも、このひとのことは何も知らないし。このひとにもしものことがあったらどうしよう。体が弱いみたいだし、重い病気を持っていて死んじゃったらどうしよう。

 江津は震えだした。深貴が死ぬかもしれないとおもったとき、思わぬ感情に射抜かれた。嫌だ。死なせない。お母さんも、お父さんも死んでしまった。このひとだけは、死んだら嫌だ。こんなに清らかな人。

 涙が頬をしたたり落ちていたが、江津はまったく気がつかなかった。それほど深貴のようすに動転していた。

「お姉ちゃん。救急車、呼びなよ」

 江美がテーブルの上の携帯電話に手を伸ばしたとき、ココア色の犬が部屋に飛び込んできた。犬はさかんに吠え、江津の腕に抱かれている深貴の胸に飛び乗ると、夢中で顔をなめ始めた。

「モ、ナ、ム」

 忙しない息の隙間で深貴が犬の名前を呼んだ。モナームは返事をするようにワン! と吠えた。光瀬古志郎が悠然と部屋に入ってきた。

「深貴。迎えに来てやったぞ」

 横柄な古志郎に視線を向けた深貴は、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。

「古志郎さん」

 古志郎は乱暴に江津を押しのけて場所をあけると深貴の襟元のボタンをはずしはじめた。

「深貴。落ち着け。ゆっくり息をして。息を止めて。そう、またゆっくり息をして」

 古志郎の指示にしたがって呼吸していくうちに深貴の顔に血の気が戻ってきた。強張っていた頬も和らぎ、痙攣していた手もおさまりつつある。

「このひとは、どこが悪いんですか。救急車を呼ばなくて大丈夫なんですか」

 江津が深貴の手を握ろうとしたら古志郎がその手を叩いた。パシッと乾いた音がした。江美が驚いて目を剥いた。

「なにするのよ。お姉ちゃんはこのひとの手を握ろうとしただけじゃない」

「汚い手で深貴にさわるな」

 細身の古志郎のどこにそんな力があるのか、古志郎は軽々と深貴を抱き上げて部屋を出ていってしまった。なんの挨拶もなかった。モナームもすぐ後を追う。江美は急いでバルコニーに出てみた。アパートの前の路上にフォードアが止まっていて助手席に深貴を乗せると、モナームがすぐさま深貴の膝に飛び乗った。古志郎が車の前をまわって運転席に乗り込む。一方通行の道を車は瞬く間に消えていった。

「お姉ちゃん。あのひとたち、なんなの」

 部屋に戻って江津に声をかけたが、江津は心ここにあらずというように座り込んでいた。

「深貴は帰りぎわ、わたしに一言も声をかけてくれなかった……」

「お姉ちゃん。あの病気の男の人とどういう関係。もしかして、またカモにしてお金を巻き上げたんじゃないでしょうね。お姉ちゃんのやってることは犯罪だからね。お姉ちゃんなんか大っ嫌い。お姉ちゃんが稼いでくる汚いお金で生きているのかとおもうと死にたくなる。お姉ちゃんの存在そのものが恥なのよ」

 江津は反論できなかった。うなだれて江美がいつも口にする罵りを黙って聞いていた。死にたいのはわたしだって同じだよ。こんな苦しい生活。だけど、わたしが死んだら、あんたはどうやって生きていくのよ。

 心の中で江美に言い返していた。江美は仏壇のところに行って憤りをぶつけるように鐘を強く叩いた。

「江美。お仏壇に八つ当たりはやめな」

「うるさい! わたしたちがこんな暮らしをしてるのも、みんなお父さんのせいよ。家の貯金を使い果たして借金して、あげくの果てに自殺なんかするから」

「やめな、江美」

「そのせいで家を売り払って借金に当て、わたしたちはここに引っ越してくるはめになっちゃってさ。だけど、頼りにするお姉ちゃんはキャバクラ勤めのかたわら、男をつかまえてお金をたかってばかり。そんな汚いお金でわたしは生きてるのかと思うと!」

「頼むから、もう言わないで」

「お母さんさえ生きていてくれたら」

 また江美は強く鐘を叩いた。何度も叩いた。姉の江津に埋めることのできない江美の悲しさや寂しさ無念がその鐘の音にこめられていた。叩かれているのは鐘ではなく、自分が叩かれているようだった。

 江津はのろのろと立ち上がって冷たくなってしまった目玉焼きとベーコンを皿に移し、カップスープを用意した。トーストも冷たくなっていたがトマトのスライスを添えてテーブルに並べた。

「江美。着替えて学校に行きなさい。ちゃんと朝食、食べてね」

 江美は自分の部屋に走って行き、高校の制服姿でスクールバッグを肩にかけて現れると、江津が用意した朝食には目もくれずアパートを飛び出していった。

 深い疲労で背中が丸くなってくる。お姉ちゃんなんか大っ嫌い。お姉ちゃんが稼いでくる汚いお金で生きているのかとおもうと死にたくなる。お姉ちゃんの存在そのものが恥だ。

 江美の言葉が頭の中でぐるぐる回る。江津はネジが外れたように床に崩れた。江美を責める気にはなれなかった。江津にしか向けることのできない怒りと悲しみが江津にはよくわかっていたからだ。

「なんでこう、うまくいかないかなあ」

 かぼそく震える声で呟き、江津は部屋の片づけに取り掛かった。

「深貴は帰るとき、わたしのこと、見てくれなかったなぁ」

 ポロリと涙が転がり落ちた。そのことが無性に悲しかった。

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