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恋する足音  作者: 深瀬静流
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第二話

 深貴はベッドに腰を下ろしてぐったりしていた。自分が繁華街の真ん中で女性に担がれてラブホテルに連れ込まれるとは、驚きをとおりこしてほとんど理解できていなかった。それでも乱れた髪のまま室内を見回してみる。

 自分が腰かけているベッドは大型で糊の利いた清潔なシーツに包まれ、壁も照明もセンスが良くて感じはいい。冷蔵庫はあるしビデオはあるしテレビもあるしカラオケまである。姉の深幸はカラオケルームは換気が悪いといって行かせてくれなかった。その代り深貴の部屋にカラオケの機材を置いてくれたが、一人で歌っても楽しくなかった。そんなことをぼんやり思い出していたら、自分を担いで連れ込んだ女がぴったり身を寄せて深貴の服をまさぐりだした。

「な、なに」

 驚いて手を払いのけようとしたが思いのほか力が強く跳ね返される。

「や、やめて?」

「お財布、出しなよ。お金がいるんだ」

 江津の手がジャケットの中にもぐりこんでシャツの胸ポケットの中に入ってくる。

「くすぐったいよ。やめて?」

 キャハハと身をくねらせてベッドに倒れ込むが女の手は胸から腹、さらに腰のあたりまで這いまわる。くすぐったいといって笑い転げる深貴に反して江津の表情はだんだん険しくなっていった。

「ちょっと、あんた。お財布もカードもないって、どういうことよ」

 こんなにいい身なりをしているのに、どうして財布がないのだ。ジャケットとシャツははイッセー・ ミアケ。スラックスはラフ・シモンズだ。ふざけたことに下着のボクサーパンツはポール・スミスときている。ブランドがバラバラなのに組み合わせのセンスがいいからとてもおしゃれだ。暮らしは裕福そうなのに財布がないとはふざけた話だ。

「だって、急いで家を抜け出してきたから」

「家を抜け出すときは、ふつう、現金を持って出てくるだろうが」

「だって、古志郎とモナに見つからないうちにとおもって、ほんとうに急いでいたんだ。それに、すぐ帰るつもりだったし」

「どうすんだよ。お金がないなんて! なんてついていないんだ。よりにもよってカラッケツを担いできちゃったなんてさ」

 江津は深貴が金を持っていないと知って怒り心頭に発した。冷蔵庫に行って扉を開け、引っ張ると出てくるようになっている缶ビールを抜いて飲み始める。腰に手を当て喉をのけぞらして飲んでいる江津に深貴がうらやましそうに声をかけた。

「ぼくも喉が渇いた」

 江津はたちまち一本飲み干して二本目を引っ張り出した。

「ぼくにもちょうだい。喉がカラカラなんだ」

 江津がちらりと深貴を見た。

「水でも飲みな」

「水、取って」

「洗面所へ行って水道の水を飲みな」

「ミネラルウォーターでないと飲めない」

「ぜいたく言わない。お金がない人は水道の水を飲めばいいの。ここなら水道代を払わなくていいから、いくら飲んでもタダだからさ」

 深貴は乱れた服のまま気弱に首を横に振った。

「喉が渇いた。ねえ、氷を入れたペリエをちょうだい」

「そんなもの、ない!」

 江津は高校のジャケットを脱ぎだした。

「腹が立ってしょうがない。汗かいたし、せっかくラブホに来たんだからシャワーぐらい浴びて帰ろう。お風呂代うくし。ついでにアメニティーグッズももらっていこう」

 江津はバスルームのシャワーを出しに行った。こうしておけば浴室のガラスが湯気で煙って曇りガラスになる。こういう豆知識はキャバクラで働いていたときに収集しておいた。

 くれぐれも風呂場を見るなと言い置いてシャワーを浴びた。烏の行水そのままの早さで出てバスローブをまとう。空調が心地よい。ベッドに座ってぐったりしている深貴を、物でも動かすみたいに足でどかしてごろりと横になった。

「ああ、きもちいい。疲れたなあ。働いても働いても生活は楽にならないし」

 体中の関節がギシギシいっている。

「でも、頑張らないとね。江美に辛い思いはさせたくないからさぁ……」

 ふわぁ、とあくびがもれた。深夜までのキャバクラ勤めにくわえて日中はおじさんの話し相手のアルバイトだ。睡眠時間は四時間ぐらいか。肌が荒れるのも無理はない。

「江美の学費、なんとかしないとなぁ。叔父さんや叔母さんたちも、もうお金を貸してくれないし……」

 疲れたなあぁ……、と呟く声が睡魔に飲み込まれていった。

 深貴は恐る恐る冷蔵庫に近づいて行った。外見は普通の冷蔵庫だが中はかわっていた。江津のしたことを見ていたので引っ張れば出てくるのはわかる。深貴は屈みこんで飲み物を物色した。水のペットボトルがあったのでまずはそれで喉の渇きをいやした。人心地ついてから、次にためらいがちに缶ビールを抜いた。

「ぼくはきょう二十歳になったんだ。だから、お酒は飲んでいいんだよね」

 冷たい缶ビールを掴んでプルトップを見つめる。

「ぼくの爪、薄いからなあ。そうだ、このひとから爪だけ借りよう」

 ぐっすり眠っている江津の指をつまんでプルトップに引っ掛けた。そのまま強引に引き上げる。プシュッという音がして江津の爪先がぐにゃりと逆さになり、「ぐがっ」と叫んで跳ね起きた。とっさにしゃがんで江津の視界から身を隠す。江津はそのまま倒れていびきをかき始めた。

「このひと、ぼくの知らない人種だ。でも、力持ちでかっこいいな。健康そうで体力あるし、うらやましい。それに、かわいいし」

 ベッドに寝ている江津の足元に腰を下ろしてビールをなめてみる。冷たくて炭酸がきつくて、こおばしい麦の匂いがした。深貴は思い切って一口飲んでみた。チリチリしたほろ苦い泡が喉を滑り落ちていく。おいしいのかどうかよくわからなかったが、江津は喉を鳴らしてごくごく飲んでいたから、深貴は50㏄ほど頑張って飲んでみた。胃のあたりから温かいものが体中に広がっていった。けだるい開放感が全身をめぐりはじめ、それが深貴を大胆にした。彼はビールをテーブルに置くと風呂場に行って服を脱ぎ始めた。

 浴室の衛生状態が気になったが初めての酒の酔いで危機感がゆるくなっていた。シャワーを浴びおわって素肌にバスローブをまといベッドに行く。大きなベッドの真ん中で大の字になって爆睡している江津を横にずらし、自分も横になって上掛けを胸まで掛けた。

 疲れていた。こんなに歩いたことはなかったし、一人になったのも初めてだった。古志郎は今頃躍起になって自分を探し回っていることだろう。姉の吊り上がった恐ろしい顔が閉じた瞼の裏に浮かぶ。しかし深貴は幸せだった。大変な冒険をやり遂げたような満足感があった。そして隣で眠っている江津の力強い心臓と大きな肺から吐き出される呼吸に陶酔した。

 大丈夫。こんなに力にあふれている人と一緒なら怖いことは起こらない。

 幼い頃から添い寝されて寝た記憶のない深貴は、同じベッドで他人と一緒に眠ることの嫌悪よりも、大いなる安らぎを覚えたのだった。深貴はかつてないほど心地よい眠りに落ちていった。


 ふと目を覚まして江津はぎょっとした。

「なに、こいつ」

 あ、そうか。と、おもいだした。

「わたしが拉致したんだった。それにしても……」

 なんて行儀のいい寝姿だろう。体をまっすぐ伸ばしていて両手は脇に付けている。呼吸もかすかで身じろぎもしない。

「死体みたいだな」

 生きているかどうか、江津は鼻をつまんでみた。すると深貴の目が開いた。

「あ……」

 深貴と目が合って、思わず江津は声を漏らしていた。深く澄んだ目だった。その目が真っ直ぐ江津を見つめて微笑んだ。

「な、なんだよ……」

 なんで笑いかけてくるのだろう。急に江津は気恥ずかしさにおそわれた。身の置き所がないような恥ずかしさだった。自分という人間のみっともないところや、がさつで無教養で浅ましいところを見られたとおもった。そう感じさせる清らかな美しさが深貴にはあった。江津にとっては見たことのないタイプの男性だった。

「ご、ごめん」

 江津は口ごもりながら謝った。そして、なぜ自分はこのひとに謝ったりしているのだろうとおもった。いや、謝る理由が自分にあるのだから、謝ってもいいのだとおもいなおして少し安心した。

 じっと自分を見つめてくる深貴の視線にどぎまぎして、江津はベッドから起き上がろうとした。その肩を深貴が抑えた。羽のように軽い力だったのに動けなくなり、体をベッドに戻していた。

「初めまして。ぼくは深貴。是枝深貴っていうんだ。“みき”は“深く貴い”と書くんだよ」

「――――」

 女みたいな名前だな、とおもった。

「このえだ、みき、くん。か」

「違うよ。これえだ、みき、だよ」

 と、深貴が笑った。きれいな歯だった。

「真珠みたいだ……」

 江津は見惚れた。深貴の吐く息も清浄で、無菌室で栽培されたユリの花のようなひとだとおもった。

「深貴ってよんでね。それで、ぼくはきみのことを何て呼べばいいの」

 きれいな息が江津の頬にかかった。江津は魅入られたように答えていた。

「わたしは江津」

「力強くていい名前だね。江津」

 やさしく名前を呼ばれて江津は小さく身を震わせた。気に入らない名前だった。妹の江美はふつうなのに、江津という名は明治・大正・昭和の初めの名前のように古臭く、どうしてこんな年寄りくさい名前にしてくれたのだと親を恨んだこともあった。でも、深貴からやさしく名前を呼ばれたとき、江津も悪くないとおもった。

 江津はうれしくなって微笑んだ。すると深貴も微笑み返してきた。それだけで江津の疲れ切った心に温かいものが広がっていった。深貴のほっそりした手が江津の黄色い髪に伸びた。

「あ、わたし、美容室に行く暇なくて、根元が伸びて汚いでしょ」

 美容室に行く暇がないのではなく費用がなかったのだが、深貴は気にするふうでもなく江津の額に乱れた髪をかき上げて微笑んだ。

「この髪、青空にぱっと広がってね、それはきれいだったよ。きらきら光って、天使か何かみたいだった」

 ぶつかって倒れたときのことをいっているのだとおもった。でも、天使だなんて、このひと、頭、変かも、と江津はおもったが、深貴の穏やかな表情を見ていると、変でもなんでもいいやと思い直した。

「江津。お願いがあるんだけど」

「なに」

「ぼくを抱きしめてくれないかな。お母さんが子供を抱きしめるみたいに、やさしく、ぎゅっと、抱きしめてほしんだ」

「な、なんでよ」

「誰からも、一度も、そんなふうにしてもらったことがないから。いつもぼくは壊れ物みたいに扱われていたから」

「ふう~ん。どうして」

「体が弱くて、二十歳まで生きられないってお医者さんから言われていてね。だから、いつも一人でベッドに寝かされていたんだ」

「それだって、お母さんは抱きしめてくれたでしょ」

「両親はぼくが一歳の時に飛行機事故で亡くなったんだ」

「あ、ごめん。悪いこと聞いちゃったね。わたしもね、じつは両親、いないんだ」

「じゃあ、寂しいのは一緒だね」

「一緒だね」

「じゃあ、ぼくのほうが江津をぎゅって抱きしめてあげるよ。ぼくは男だから、抱きしめるのはぼくのほうだよね」

 そういって深貴は江津に身を寄せてきた。ぎゅっと抱きしめられるとおもっていたのに深貴の力はひどく弱くて、江津は反対にぎゅっと深貴を抱きしめていた。

「ぎゅっ、ていうのはこうするんだよ」

 と、江津が笑うと深貴も笑った。二人は素肌にバスローブしか身に着けていないことを忘れていた。ぎゅっ、と抱きあった若い男女に化学変化がおきたとしても不思議ではなかった。



 古志郎はモナームと一緒に竜宮城ホテルの前にいた。時刻は午前二時。まわりは闇に包まれ、竜宮城だけがますます異次元のように輝きを増している。

 古志郎は怒りのあまり微動だにしなかった。

 まさか深貴。おまえは行きずりの女と一晩過ごすつもりか。しかし、それは許そう、おまえも男だ。だが、まさか、まさか、あんなカス女と、おまえは!

 震える拳が握っているリードの先では、モナームがお行儀よく座って竜宮城の極彩色の光をじっと見上げていた。

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