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恋する足音  作者: 深瀬静流
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最終話

 懐中電灯の光りが汚いゴム長靴をかすめた。つま先が破れて泥にまみれた長靴だ。いったんは通り過ぎたものの気になって戻ってみた。江津は光をその長靴に戻した。長靴は谷側のほうの道のきわに、枝に引っかかるようにして落ちていた。

 宿舎になっている農家の土間にあったおおぜいの靴の中に、泥で汚れた仕立てのいい革靴があったのを覚えていた。その革靴と、深貴のコートや時計を奪った男と、そこに落ちているゴム長靴が瞬時に一つにつながった。

 モナームが尻尾を振りながら盛んにゴム長靴の臭いを嗅いで落ち着かなくなる。ゴム長靴の周囲を嗅ぎまわり、藪と木が茂る真っ暗な谷に降りて行こうとする。江津はモナームを抱き上げて道に戻すと、こちらに向かってバックで運転してくる古志郎に懐中電灯で合図した。古志郎が車を止めて降りてくる。

「なにかあったか」

 そういいながらこちらに走ってくるので、「わからないけど」と言いおいて、モナームのリードを木に括り付け、江津は思い切りよく急斜面に降りて行った。

「やめろ! 危険だ。暗すぎる。消防団が来るのを待とう」

 古志郎が叫ぶ。江津のスニーカーがぬかるんだ土の上をずるっと滑った。茨が頬を切って痛みが走る。とっさに手を振り回して伸びている枝を掴み、転げそうになった体を立て直した。手にした懐中電灯の光をあたりに向けて深貴の名を呼んだ。枝を掴んだ手のひらの皮がむけて血が滲む。髪に絡まる藪に手こずりながら辺りの下草や細い木を観察した。もし深貴がこの辺りにいるのなら、必ず痕跡があるとおもった。

 暗闇の中でえぐれた土に足を取られて一メートルほど滑り落ちた。危うく懐中電灯を落としそうになり冷や汗が出る。気がつくと林道からだいぶ下に来ていた。

「無茶をするな。おまえまで遭難するぞ」

 上のほうで古志郎が怒鳴る。

「深貴を見つけるまで帰らない。見つけるまで探し続ける」

 そう怒鳴り返して、また辺りに目をやる。川の音がすぐ近くに聞こえた。真っ暗だったのに、川があるせいで上空の枝に隙間ができて物の影が見えるようになった。そして少し離れた藪の辺りが斜めに下に向かってなぎ倒されている跡を発見した。

 林道のほうを見上げると古志郎のスマートフォンのライトがちらちら見える。古志郎も江津のあとを追って来ていた。

「気をつけろよ。木が無くなったら崖だからな。下は急流だ」

「わかってる。モナはどうした」

「車の中に置いてきた」

「よかった」

 そう呟いて、江津は足の先で地面を探りながら藪が潰れているほうに降りて行った。

「古志郎さん、深貴が!」

「いたのか」

「いた。早く来て」

 藪の窪みの中に深貴が仰向けで倒れていた。

「深貴!」

 夢中で抱き起こして顔に頬を押し付ける。あまりの冷たさにぎょっとした。

「深貴。しっかりして」

 しゃがんだ自分の膝の上に深貴の体を引っ張り上げた。そして深貴の体を抱きしめた。

「深貴! 死んじゃ嫌だ。息をして。目を開けて。江津が迎えに来たんだからさあ!」

 深貴を抱きしめて泣き喚いている江津のところに降りてきた古志郎は、江津を乱暴に押しのけて深貴の頸動脈に指を当てた。

「脈は細いが生きている。急ごう」

 古志郎は深貴をぐらりと背中に乗せて斜面を四つん這いで登り始めた。江津は急いで自分が着ているダウンジャケットを脱いで深貴の体を覆う。そして古志郎の先を懐中電灯で照らす。間に合う。きっとだいじょうぶだ。深貴は死なない。そう江津は心の中で叫んでいた。



 ああ、土の臭いがしない――。

 体も乾いている。それに温かい。気持ちいいなあ――。

 よく眠ったあとの心地よさに深貴はベッドの中で伸びをした。とたんに体中に痛みが走る。顔をしかめて目をあけると、ベッドのそばで椅子に座った江津が、目に涙をいっぱいためて見つめていた。

「江津。久しぶりな気がする」

 柔らかく微笑む深貴に江津が身を投げるように覆いかぶさってきた。

「泣いてるの?」

 毛布ごと深貴を抱きしめる江津の背中が震えていた。深貴は病室の中を見回した。江津の後ろに深幸が吾子也を抱いて立っていた。その隣りには信孝もいる。少し離れたところには古志郎もいた。

「みんな、いるんだ」

 安心したように深貴が微笑む。深幸がよろけるようにベッドのそばに来た。

「心配したのよ」

「うん。わかってる。おねま」

「どうしてこんなことになったの」

「江津を迎えに行く途中、バイクと接触して転んだんだ。頭を打って、記憶が飛んじゃったみたい」

「記憶が! それで帰ってこれなかったのね。そのあと、どうしたの」

「ホームレスの松っぁんに拾われたの」

 それから、と先を急かす深幸に信孝が声をかけた。

「話は深貴の回復を待って、ゆっくり聞こう。目を覚ましたばかりだ。江津さんと二人にしてあげよう」

「そうね。そうよね」

 涙ぐみながら吾子也を抱いたまま行こうとする。江津は吾子也に手を伸ばした。

「お姉さん。吾子也をこちらに」

 江津が吾子也を抱きとると深幸は静かに頷いた。

「ええ。深貴をお願いね。五階のラウンジにいますからね」

「はい」

 深幸と信孝のあとに続いて病室を出て行こうとした古志郎がドアのところで振りかえった。

「おまえが助かったのは江津の執念のおかげだぞ。あと少し発見が遅れたら凍死していたとさ」

「なんで古志郎さんが江津のことを呼び捨てにするのさ。さんをつけてよ」

 むっとしたように深貴が口を尖らす。

「おまえが弟のようなものなら、こいつは妹のようなものだからさ」

「なんで、こいつなんだよ。江津さんて言いなよ」

 また深貴が口を尖らす。江津は何も言わない。笑いながら古志郎は江津に視線を送った。江津もその視線を受け止めて微笑み返す。二人にしかわからない友情が生まれていた。

 古志郎が出て行った病室に静寂がおとずれた。江津がベッドに吾子也を寝かせて自分もベッドに乗ってくる。吾子也を中に挟んで江津と深貴は見つめ合った。

「生きててよかった」

 深貴がしみじみといった。

 「うん。生きててくれてよかった」

 江津も涙声でいった。吾子也が潰れないように二人は抱き合い、静かに涙を流した。

「松っぁんはどうした?」

「あのままだよ」

 深貴は頷き、質問を続ける。

「一緒に逃げた人がいたんだけど」

「帰りたいっていうから村役場の人に頼んできた。今頃は家に帰っていると思うよ」

「そう。よかった。で、ここはどこなの」

「群馬と栃木の県境の町の病院だよ。深貴の容態が安定したら東京に帰ろう」

「うん。帰ろう」

「大変な冒険だったね」

「怖かったよ」

「うん。わたしも深貴が行方不明だってきいて怖くて震えた」

「おねまとは仲直りしたの」

「わかんないけど、受け入れてくれたみたいよ」

「よかったぁー」

 心からの安堵の息を吐いて深貴は目を閉じた。

「眠って深貴。もう怖いことはないから。わたしがそばにいるからね」

 深貴は頷いて眠ってしまった。吾子也が目を覚まし、ぐずぐずと鼻を鳴らして深貴の唇をつねったりしている。

「吾子也。お父さんを寝かせてあげよう。大変だったんだからね」

 江津がやさしく囁くと、吾子也は江津のほうに顔を向けて「うぶ」といった。



 それから十九年の歳月が流れた。小さかった吾子也は江津と深貴の愛情はもちろんのこと、深幸と信孝の愛情も一身に受けてすくすくと成長した。

 身長は189センチ。体重は75キロ。顔は深貴に似て愛らしく、性格は江津に似て過激に育った。古志郎の遠慮のない教育のせいで成績は優秀、スポーツもよくできた。

 是枝家の自慢の吾子也は、よく食べ、よく笑い、元気いっぱいで家の中を明るくした。

「江美ちゃん。今日のフライト、シンガポールだろ。成田まで車で送ってやるよ」

 昼食をおえた吾子也が皿を食洗器に持っていきながら、リビングに入って来た江美に声をかけた。

「いい。あんたの運転怖すぎるから。駅の中央口から出ている成田行きのリムジンバスに乗る」

 大学を卒業し、日本の航空会社に就職した江美は、今ではベテランのアテンダントになっていた。吾子也が生まれて間もなく、江美は是枝の屋敷に引き取られた。だから吾子也にとっては叔母というより年の離れた姉のようなものだ。

「オレの運転が嫌なら彼氏に送ってもらえばいいよ」

「いないのを知っていての嫌味かよ」

 ふん、と鼻を鳴らしてキャリーケースを引きながら玄関に向かう。深幸と信孝が、せっせと見合いの話を持ってくるのだが見向きもしない。苦しい環境のなかで育ったせいか男性よりも貯金通帳の金額の多さに安心するようだ。

 もう一人、結婚に見向きもしない男がいる。古志郎だ。古志郎のほうは吾子也の養育に情熱を燃やしてしまったために婚期を逃したとうそぶいているが、本当のところはわからない。その古志郎がリビングにやってきた。

 廊下ですれ違いざま、「江美、これから仕事か?」と声をかける。

「うん。行ってきます」

「つけまつげが片方ずれているぞ」

「キャッ」

 キャリーケースをそのままにして洗面所に走っていく。

「からかうなよ。江美ちゃんが本気で怒ると江津より怖いぞ」

 と、吾子也が笑う。

「そのスリルがたまらん」

「相変わらず性格悪いよな」

「なんとでも言え」

 古志郎はトーストを用意しはじめた。黙っていれば男の目から見ても渋くていい男だ。付き合っている人はいないようだが、これほどの男がどうしてと吾子也は不思議におもう。だが、吾子也の好奇心はすぐにほかに移ってしまう。

 江美がリビングに戻ってきて古志郎に喰ってかかった。

「からかったわね。お土産買ってきてあげないからね」

「もう行けよ。遅れるぞ」

「もう!」

 ぷりぷりしながら江美が出て行く。トーストにパストラミビーフとレタスをのせてマヨネーズをかけている古志郎を置いて、吾子也は江美を送りに玄関に向かった。

 外は眩しい陽射しが照りつけていた。空気がカラカラに乾いていて真っ青な空には入道雲が勢いよく湧き上がっている。青と白の眩しいコントラストは見飽きない美しさだ。

「行ってらっしゃい」と手を振る吾子也に手を振り返して江美は屋敷の門を出て行った。屋根のある車寄せを出て車庫に行き、深幸の車を玄関前に持ってくる。そのまま庭に歩いて行くと深幸が大きな帽子をかぶって芝生に水を撒いていた。ホースの先に取り付けた蓮口から水圧の高いシャワーが気持ちよく噴出している。吾子也は日差しの中の深幸に声をかけた。

「おねま。車、借りるよ」

 振り向いて深幸は眉をひそめた。

「あなたに車を貸すと江津さんに叱られるのよ」

「黙ってればいいよ。信孝さんは?」

「もうすぐ来るでしょ」

「きょうは会社じゃなくて台場のビックサイトだったよね」

「ええ。深貴も一緒にね」

「オレ、車で送って行くよ」

「だめ。吾子也の運転は危ない」

「へいきだって。あ、深貴だ」

 深貴が信孝と話しながら玄関に現れた。

「深貴!」

 吾子也が大きな声で深貴を呼ぶ。振り向いた深貴の髪が風に乱れた。

「ああ。深貴はほんとにかわいいなあ」

 と、吾子也。

「呆れる。自分の父親をつかまえて」

 ぼそりと深幸が呟く。聞こえていたが、そんなことは気にしない。なぜなら深貴は昔と変わらず清らかで美しかったからだ。

 深貴に走り寄って車のドアを開けながら「台場まで送ってやるよ」といったら、信孝がそのドアをバタンと閉めた。

「だめだ。危ない。ぼくの車で行く」

「へいきだって。オレ、運転できるから」

「深貴を殺すきか」

 きつく信孝が睨んでくる。吾子也は深貴を両腕で抱きしめてやさしく体を揺らした。そして甘えた声をだした。

「深貴は怖くないよねえ。オレが深貴を乗せていくからさ、一緒に行こう、ね」

「あ、の、それは。あ、の……。江津うー」

 深貴が江津の名を呼ぶと玄関に江津が走り出てきた。

「どうした深貴!」

「あ、江津。あのね。吾子也がね、車で送ってくれるっていうんだけど」

「なに!」

 つかつかと車に歩み寄ってドアを開け、車のキーを抜く。

「深貴を死なすわけにはいかないよ。深貴は信孝さんに乗せていってもらう」

「なんでだよ。なんでそこまで言うんだよ。江津はオレの母親だろ。母親なら少しはオレを庇えよ。オレは深貴を乗せて楽しくドライブしたいだけなのに」

 江津は息子を見上げて口をへの字にした。吾子也は深貴が好きすぎて、深貴が家にいるときは片時も離れようとしない。今日は東京ビックサイトの国際会議場でビジネス・セミナーがあるのだ。深貴は今では代表取締役社長の信孝の下で専務取締役として働いていた。

「だったら、深貴の代わりにわたしが乗ってやるよ。それなら文句ないだろ。わたしだって吾子也の親なんだから」

「いや、いい。江津はだめだ。スピードに異常に執着する江津は怖い」

「それはおまえだろうが」

 吾子也は江津から車のキーを取り上げると素早く車に乗り込んだ。

「あ、こいつ!」

 江津が車庫に走っていって愛車のナナハンを出してきた。吾子也は急いでエンジンをかけて屋敷を出て行く。

「待てえ。吾子也。赤信号で捕まえてやるからな」

 ヘルメットをかぶった江津が爆音を響かせて吾子也のあとを追った。ヘルメットからはみ出しているロングの金髪が風に流れる。それを見て深貴が微笑む。

「天使の髪だ」

「父子揃ってバカみたい」

 庭に水をやっている深幸が呟いた。そして、深貴がはっとして古志郎を呼んだ。

「古志郎さん。江津と吾子也を追いかけて。あの二人のカーチェイスを止めなくちゃ」

「任せろ深貴」

 手回しよく古志郎が車を深貴の前に止める。深貴が車に乗り込むと古志郎がにんまりと笑った。

「どこへ行こうとお見通しだぞ吾子也。おまえが腰にぶら下げている特製のキーホルダーは伊達じゃないんだぞ。お姉ちゃま特製の高性能のGPSだ」

 信孝が深貴の窓をノックした。

「セミナーはどうするんだ」

「ごめんなさい信孝さん。江津が心配で」

「わかったよ。行ってこい」

 古志郎がぐんっとアクセルを踏んだ。吾子也や江津に負けず劣らずの古志郎の運転に、信孝はため息をつきつき深幸のところに行った。

「どうしていつもこうなるんだろうな」

「ほうっておきなさい。似たり寄ったりの人たちの集まりだもの。うるさいったらないわ」

「セミナーに行くのが馬鹿らしくなってきたよ。どうだろう。ぼくたちも遊びに行かないか」

 深幸はホースの水を止めた。

「そうね。涼しいところがいいわね」

「涼しいところね。どこがいいかな」

「どこでもいいわ。あなたと一緒なら」

 そういって深幸は信孝の腕に自分の腕を絡めて幸せそうに眼を細めた。



―― 終わり ――

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[一言] 良かったです、、、! ハッピーエンドになってくれて本当に良かったです!!!
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