第十一話
吾子也が泣きやまなかった。おむつは汚れていないし、ミルクを飲ませようとしても飲もうとしないし、深幸は吾子也をあやしながら途方に暮れていた。
深貴が行方不明になってから今日で三日目になっていた。警察からは何の連絡もない。それだけでも頭がおかしくなりそうなのに、泣き止まない吾子也のせいで発狂寸前だった。
「どうして泣き止まないの吾子也。お願いだから、泣き止んで」
涙声で吾子也を抱いて寝室を歩き回る。泣き続ける吾子也の小さな体は火がついたように熱い。汗もかいているし、熱でもあるのかとおもって体温を測ってみるが平熱の範囲内だ。
「深貴はこんなに泣かなかった。わたしがやさしく抱いてあやすとすぐに眠ってくれた。でも、この子は泣き止んでくれない。わたしではだめなのかしら」
深幸はぽろぽろ涙をこぼした。やっぱり母親でなければだめなのだろうか。深貴は行方不明だし、どうしよう。お願い吾子也、泣かないで。深貴はどうしているのだろう。なにか恐ろしい事件にでも巻き込まれているのではないか。命の危険にさらされているのではないか。
心配はきりがなく、次から次に悪い想像が浮かんでくる。耐えきれなくなって深幸は吾子也を抱いて階下に降りていった。
「光瀬くん」
大きな声で古志郎を呼びながら廊下を進み、客間の並びにある事務室をノックする。この部屋は古志郎が深幸のスケジュール管理や是枝家の庶務と財務管理を任されている仕事部屋だった。
古志郎は電話中だった。古志郎の眉間は深貴が行方不明になってからずっと険しいままだ。ちらりと深幸を振り向いたが、そのまま電話を続ける。
「では、人数を増やしてください。ええ。それで結構。全力を尽くしてください。彼は病弱ですので発作を起こしたら命にかかわるんです。では、お願いします」
電話を切って深幸に向き合う。
「警察は深貴くんが特異家出人に相当しないと判断して積極的に探してはくれません。ですから人探し専門の探偵社に依頼したんですが、埒が明かないので人員を増やしてもらいました。マイクロバスに乗ったところまでの足取りはつかめたんですが、どちらの方面に向ったか洗い出すのに手間がかかっています」
「ええ。ええ」
深幸はすがるような声をだした。
「ねえ古志郎くん。江津さんを呼んでくれないかしら。吾子也が泣き止まないのよ」
深幸は古志郎が深貴の家庭教師だったころの呼び方でよんだ。それほど精神的に参っているということだった。古志郎もこの家で暮らして九年になる。この屋敷に下宿して深貴の家庭教師のアルバイトをしながら大学に通った。卒業してそのまま深幸の秘書兼是枝家の庶務管理を任され、深貴の世話もしてきた。深幸が頼るのはもちろん夫の信孝だが、いつも身近にいる古志郎は、もしかして信孝よりも安心して物を頼める存在なのかもしれなかった。
古志郎は頷いた。吾子也の泣き声は階下にまで聞こえていた。頑固な泣き方で、生まれて間もないくせに親以外の者では妥協しないとでもいうような意志的な泣き声だった。
古志郎は車で江津を迎えに行った。江津がアパートにいるのなら三十分ぐらいで戻って来れるだろう。深幸はじりじりしながら江津を待った。吾子也は泣き疲れて深幸の腕の中で弱々しくむずかっている。自分の指を口にもっていって吸おうとするので、こんなに小さい頃から指しゃぶりをするのかとおもった。
やがて外に車の音がして、玄関に足音がしたとおもったら江津がリビングに飛び込んできた。深幸は江津を見て息を飲んだ。わずかな間に江津は痩せてやつれていた。若いのに、十歳も年を取ったようだ。くぼんだ目で江津は深幸に抱かれている吾子也を食い入るように見つめた。
「吾子也! お母さんだよ」
喉が破れるような声で江津は吾子也に呼びかけた。とたんに吾子也が火がついたように泣き出す。すると江津の乳房がみるみる張ってきて母乳が下着を濡らした。
深幸から吾子也を奪うように抱きとって、古志郎に背をむけて胸元を広げ、吾子也を乳房に近づける。吾子也が鼻を鳴らして乳房に吸い付いてきた。
深幸は腰が抜けたようにソファーに崩れた。やっぱり母親でなければだめなのだ。吾子也は親を求めて泣いていたのだ。わたしではだめだったのだ。
無心に乳を吸っている吾子也を見つめながら深幸は涙を流した。誰だって親がいいに決まっている。それをわたしは引き裂いた。ごめんね、吾子也。
ごめんね、と心の中で謝りながら深幸は後悔していた。ひどいことをした。江津ばかりでなく、吾子也にも、深貴にも……。罰が当たったのだ。深貴が行方不明になったのは、わたしがひどいことをしたから。
吾子也は満足したのか乳首を離して江津の腕の中で眠ってしまった。深幸は安堵していた。子供は親に返そうとおもった。
「こんなに泣かれるとは思わなかったわ」
疲れの滲んだ深幸の声に江津は顔を上げた。深幸は吾子也から視線をはなさなかった。
「深貴が行方不明なのよ。あなたがアパートに帰った日に、あなたを迎えに行って行方が分からなくなったの」
「ええッ!」
江津は驚いて目を見開いた。
「だって、三日も経っているじゃないですか。それまでなにをしていたんだよ。深貴は、深貴の消息は!」
「警察には届けたわ。探偵も雇って探してもらっているわ」
「ふざけんな。深貴は体が弱いんだぞ。世間の怖さも知らないお坊ちゃんだ。そういうふうにあんたが育てたんだ。深貴に何かあったらどうしてくれるんだ。みんな、あんたのせいだぞ」
激しい言葉で江津は深幸を責めた。深幸は言い返せなかった。じっと目を閉じて耐える。
「もう、あんたには任せられない。吾子也はわたしのものだ。深貴に何かあったら、絶対にあんたを許さない。それで、深貴の足取りはどこまで掴めているんだ」
聞かれた深幸に代わって古志郎が口を開いた。
「西荻窪の駅裏の駐車場でマイクロバスに乗った。その車がどこに向かったのか調べている最中だ」
「西荻窪のマイクロバスだって? くそ、深貴は日雇い狩りにあったんだ!」
「日雇い狩りって、なに」
深幸が動転した声をだした。
「キャバクラで働いていたときに客からきいたことがあるんだ。日雇いという名目でホームレスを雇って、逃げ出せないようなところに送り込んで過酷な労働をさせるんだよ」
「でも深貴はホームレスじゃないわ」
「そうだけど、西荻窪と新宿と新大久保からマイクロバスが出るんだって。一見まともなサラリーマン風の男が仕切って、車に乗せたあとは、やくざ関係の管轄になるんだって店に来た客が言ってた。その客も実はホームレスで、店に来る時だけきれいな服を着てくるんだ」
「そのお客に詳しいことを聞けないかしら」
江津は考え込んだ。眠ってしまった吾子也を深幸にあずけて携帯電話を出し、電話帳をスクロールする。
「営業用のリストなんだけど、どれだったかなあ」
「思い出して。お願い」
「うう~ん」
「思い出せ!」
古志郎が大きな声をだした。
「うるさい!」
間髪入れず怒鳴り返す。携帯の番号にはっとして画面にタッチした。深幸が食い入るように江津を見つめた。
「あ、わたし、ミルキーでぇ~す。モモイロパラダイスのミルキーでぇ~す」
江津は営業用の声を出したが目は真剣だった。
「違う違う。営業じゃなくてさ、聞きたいことがあるの。西荻窪から出るマイクロバスの管轄はどこの組か知ってる? いつかおじさん、話していたじゃない。わたしの友達が網にかかっちゃったのよ」
江津は熱心に耳を傾けた。
「ありがと、おじさん。わたし、店を辞めちゃったんだけどさ、落ち着いたらお礼に行くよ。中央公園だったよね。うまいウイスキーとつまみをどっさり差し入れするからね。じゃあね」
電話を切って江津は古志郎と深幸を見つめた。
「わかったよ。この人の仲間が仕事をもらおうとおもって行ったら、年なんで撥ねられたんだって。いつもの仲介業者だったていうから業者の名前を聞いておいた。電話番号まではわからないって」
古志郎は仕事部屋に走った。スリープ状態のパソコンを起動しキーボードに指を置く。
「業者はなんて言うんだ」
「オーソン株式会社」
「よし」
パソコン画面に出てきた情報の中の目当ての電話番号に電話をかけ始めた。
やがて電話を切って深幸にいう。
「まともな会社のようですが規模は小さく、短期契約の下請けに回しているそうです。ときどき外部からの問い合わせがあるので現場の場所だけは把握してるそうです」
「じゃあ、深貴の居場所が」
「行ってみなければなんとも言えませんが」
「行こう、古志郎さん」
江津が意気込んでいった。
「おまえは待ってろ」
「もう誰もわたしをとめられないよ。あんたの車にしがみついてでもくっついていく」
江津は強いまなざしで古志郎を見つめた。確かに誰も江津を止められないだろうとおもった。江津は深幸に振り向いた。
「吾子也を頼みます。必ず深貴を連れて戻ります」
「お、お願い。お願いよ、江津さん」
深幸は吾子也を抱きしめて懇願した。古志郎はモナームを抱いて戻ってきた。
「犬かよ」
呆れて呟く江津に、毛玉のようなトイプードルは、盛んに尻尾を振って小犬らしからぬ大きな声でワン! と吠えた。
夕暮れが近づいている林道を深貴は必死に走っていた。逃げようと誘った男は百メートル先を走っている。
荷台を空にしたトラックが戻ってくるまでの見張りがいない隙に走れるだけ走り、山の中に分け入って身を隠して日没になってから月明かりを頼りに逃走するという計画だった。
誤算は深貴の体力だった。それでなくてもまともな食事は口にしておらず、過酷な環境のせいで精神的にも不安定になっているため、いつ発作が起きても不思議ではなく、その不安がさらに深貴の体力を削った。
「江津……。吾子也」
深貴は泣きながら走り続けた。記憶はだいぶ戻りつつあった。
「おねま……」
深幸の記憶に胸がいっぱいになる。異常なくらい深貴のことを心配する姉は今頃、寝込でいるかもしれない。両親を生まれて間もなく亡くした深貴にとって、深幸は姉であるよりも母であった。姉のためにも帰らなければならない。深貴は懸命に足を動かした。しかし、先を走っている男との距離はどんどん開いて行く。
「待って……」
男に向かって手を伸ばすと、男がこちらを振り向いた。そして、さらにスピードを上げた。
「待ってよ」
息が上がってろくに声も出なかったが呼びかけた。すると、後方に車の音がした。トラックではなくフォードアだ。傷のある男が農家に戻って車で追いかけてきたのだ。深貴は左右を見回した。左側は杉が生い茂って雪が残る急斜面の山肌だ。右側の藪は谷になって川に落ち込んでいる。とてもではないが谷に足を踏み入れる勇気はなかった。深貴は夢中で下草が生い茂る山の中に分け入った。
木にすがって分け入るごとに暗くなって怖くなる。深貴は勇気を出して奥に進んだ。やがて力が尽きて湿った杉の根元に座り込んでしまった。
樹木の清冽な香気が満ちていた。湿った土もむせかえるようだ。息を喘がせながら頭上を見上げると、天蓋のような杉の枝葉の隙間に赤みがかった夕空が見えた。日没が迫っているのだ。あまりの寒さに自分の体を両腕で抱えて丸くなり目を閉じた。
林道を車がスピードを出して走り抜けて行く音がした。先を走っていた男はうまく逃げられただろうか。男の誘いに乗って逃げてきてしまったが一人になってしまい不安がつのる。暗くなっていくにつれてますます寒さが厳しくなってくる。体が軋む音が聞こえるようだ。
深貴は凍えた指先に息を吹きかけた。濡れた足先は感覚がなくなっている。松っぁんの汚れたコートは重いだけで防寒の役目をはたしていなかったが、それでもないよりはましなので緩んだ襟元をきつく合わせた。
下の林道に車が戻ってくる音がした。車は深貴が隠れている場所から十メートルほど離れたところに止まった。ドアが開き、顎に傷のある男が降りて、車の中へ怒鳴る声がした。はっきり聞こえたわけではないが、一緒に逃げた男はどうやら捕まってしまったようだった。
傷のある男が車から降りて大型の懐中電灯を持って山の中に入ってきた。深貴は焦った。まだ離れているとはいえ、懐中電灯で照らされて探されたら簡単に見つかってしまいそうだ。強力なライトが広い範囲の暗がりを切り裂いてこちらに近づいてきた。その光に追い立てられるように立ち上がっていた。
ライトが一瞬深貴の横顔をかすめた。慌てて腰を落とす。だが遅かった。再び戻ってきた光が的確に深貴の居場所を照らした。焦った深貴は林道に下りて行った。山の中をむやみに逃げるより、いっそのこと林道に止めてある車を奪って逃げたほうがいいとおもったからだ。深貴は運転できなかったが、一緒に逃げた男なら運転できるだろうと考えた。もしできなくても車のキーを奪ってしまえば傷のある男の足を止められる。
山から転がり出て林道を車めざして走った。寒さで凍え、疲れきっている深貴には十メートルの距離が百メートルにもおもえた。やっとの思いでたどりつき、後部座席にいる男に声をかけながらドアを開けようとしたが開かない。
窓のガラス越しに男が何かいった。
「バカか、おまえは。鍵がかかっているにきまってるだろ」
と、聞こえた。深貴は青くなった。振り向くと、傷のある男が山から出てきてこちらに全力で走ってくる。深貴は焦って周囲を見回した。どこにも逃げ場はなかった。走ったって掴まるのは時間の問題だ。そうおもうと、もう破れかぶれだった。深貴は谷側の藪の中に飛び降りていた。
長靴が片方脱げて林道の端に取り残された。取りに行く余裕はないのでそのまま木に掴まりながら身を伏せて降りていく。枝や岩の角に傷つきながら夢中で降りて行くうちに、足が滑って藪をなぎ倒しながら数メートル落下した。
林道で男の足音が行き来した。ライトが深貴の姿を求めて矢のように走り抜ける。だが、その光も収まり、諦めたのか車の音がして農家のほうに戻っていく音がした。
深貴はうつぶせていた体をあおむかせた。体中が痛くて寒かった。日は落ちてしまって真っ暗で、見上げると星が濃い光を放ってたくさん瞬いていた。風が谷を強く吹き抜けていく。寒さが骨までしみる。深貴はぶるぶる震えていたが、やがて意識が遠のいていった。
村役場のロゴが入った軽自動車が、トラックとショベルカーが駐車してある農家の庭に入っていった。フォードアとマイクロバスも止まっている。農家には明かりがともっていた。
村役場の車のあとに続いて古志郎もハンドルを農家の庭に向けた。村役場の職員が車から降りて古志郎と江津を待った。
「ここが宿舎になっているんですよ。是枝深貴さんでしたよね。いるかなあ」
役場に勤め始めて間がないように見える若い職員は、しゃべりながら玄関に向かった。古志郎がコートも着ないで急ぎ足であとに続く。江津もモナームを抱いてあとを追った。
玄関に入ると広い土間になっていて、土間の向こうの囲炉裏のある部屋では男たちが五人、囲炉裏を囲んで酒を飲んでいた。その男たちの中から五十がらみの目の鋭い男が立ってきて頭を下げた。役場の青年も頭を下げて挨拶する。
「こんな時間にすみません。私、役場の者なんですけど、協道産業さんですよね」
「はい。そうですが」
「こちらに是枝深貴さんという方はいますかね」
応対に出た男が古志郎と江津をねめ回したあと、後ろに声をかけた。
「おい。是枝深貴さん、だとよ」
弾かれたように顎に傷のある男が立ち上がった。江津は緊張した。目つきでどういう筋の男かすぐにわかったからだ。さりげなくあたりを見回してみる。土間には二十数人の男物の靴が乱雑に並んでいて、その中に泥で汚れた上等な革靴が一足混じっているのに気がついた。廊下の向こうの奥の部屋はここからでは見えないが、おおぜいの人の気配がした。
江津は何気ないそぶりでモナームを廊下に下ろした。モナームが臭いを嗅いで回る。そして臭いを嗅ぎながら奥の部屋へ進んで行った。江津はモナームを追いかけるふりをしてついていった。
「おい! 勝手に上がられちゃ困るんだがな」
目つきの鋭い男が尖った声をだしたが江津は聞こえないふりをした。縁側をまわったところの部屋の襖を開けると、おおぜいの男たちがいて思い思いに弁当を食べていた。江津が入っていくといっせいに視線が集まる。普通なら気後れしそうだが江津はずかずか入っていった。
モナームが盛んに臭いを嗅いで回っているが、江津の目は素早く一人の男を選別していた。歩いて行って箸を使っている男の前にしゃがむ。その男には不釣り合いな上質なコートの襟を掴んで江津はぐいと引き寄せた。
「なにするんでえ」
「おじさん。いいコート着てるねえ。このコート、どうしたんだよ」
「な、なんでえ。手を放しやがれ」
弁当を横に置いて、松っぁんは怯んだような声を出した。それほど江津の顔は怖かった。江津は松っぁんが着ているコートの前を広げて内ポッケットのネームを確認した。
「このコートを着ていた若いのはどうした。どこに行った」
「し、知らねえよ」
「嘘をつくな!」
松っぁんの手を捩じって左腕の袖をめくる。
「コートだけじゃなく、腕時計も奪ったんだろ」
「そんなこたあしねえよ。もらったんだよ」
「深貴はどこだ。どうして、ここにいない」
ものすごい形相で迫ってくる江津に松っぁんは後退りした。
「知らねえ。俺ぁ、知らねえ」
「逃げたんだよ」
部屋の隅にいた男がいった。顔に殴られた痕があった。
「どっちに逃げた?」
「林道の先、谷に飛び降りた」
「あんたはどうする」
「車を手配してくれ。俺は帰りたい」
「名前は」
「馬場健司」
「わかった」
江津が頷いたとき、顎に傷のある男が慌てて入ってきて部屋の中を見回した。
「おまえら、余計なことをしゃべるんじゃねえぞ」
凄む男に目もくれず、江津は松っぁんの顎に肘打ちを食らわせた。うっと呻いて松っぁんが口を手で押さえた。
「わたしの可愛い男が世話になったお礼だよ」
松っぁんの耳元で囁いて立ち上がる。部屋を出るとき松っぁんが、広げた手の平に歯を二本、血とともに吐き出すのが見えた。
追ってきたモナームを抱き上げて傷のある男の横を素通りし玄関に向かう。役場の職員と古志郎は外で待っていた。江津も急いで外に出た。ぐずぐずしているとろくなことはない。車のところに戻って江津は役場の職員にかいつまんで今の話をした。職員も労働環境に問題があるので改善するように通達することと、あした馬場という男に車を差し向けること、そして警察と消防団に連絡して深貴の捜索に向かわせることを約束してくれた。
「行こう。古志郎さん」
役場の職員が車で帰って行くのを見送ってから古志郎を促した。
「日が落ちてしまったぞ」
「いいから行こう。深貴はこの林道を行って谷に降りたらしい。逃げたんだって」
古志郎は空を見上げた。星が数を増していた。冴え冴えとした月に雲がかかると明るさが半減する。古志郎ははじめて不安そうな顔をした。
「見つかるだろうか」
ぶるっと身震いして古志郎が車に乗り込む。江津も助手席に収まりながら、この寒さに深貴は大丈夫だろうかと慄いた。
古志郎は車のスピードを抑えぎみに走らせた。ヘッドライトが照らし出す視界に目を凝らす。だが、江津が座っている助手席は山側で、谷側は運転席のほうにある。谷に降りたというから助手席ではなく運転席側のほうが見やすいのだが、車を止めて谷側のほうの後部座席に移動する時間も惜しかった。
江津は窓から身を乗り出して深貴の名を呼び続けた。江津の声は谷あいに良く響いた。しかし深貴の姿ばかりか、呼びかけに応える声はなく、一時間ほど車を走らせてから古志郎は車を止めてしまった。
「深貴の足ではこんなに遠くまで走れない」
「じゃあ、戻ろう。谷に降りたっていうから、今度は谷を探しながら走ろう」
「しかし、ここじゃあユーターンする場所がないぞ」
江津はコンソールボックスから懐中電灯を取ると返事もせずに外に出た。あまりの寒さに首が竦む。ダウンジャケットの襟までファスナーを引き上げる。幸い月は輝きを増し、足元に影ができるほど夜道は明るい。その明るさに勇気を得て谷の暗がりに懐中電灯を向けて走り出した。
林道を踏み外さないように注意しながら深貴の名を呼び続ける。古志郎はモナームを車からおろすとバックミラーを見ながらバックで江津のあとを追いはじめた。
モナームが江津を追い越し、軽快に走り出す。お願い、モナーム。深貴を見つけて。江津はすがるおもいでモナームとともに走った。走りながら声の限りに深貴を呼び続けた。
一瞬、意識が戻った。
「江津だ」
開けた目をすぐに閉じた。暗闇の中で深貴は耳を澄ませた。するとまた江津が自分を呼ぶ声が聞えた。幻聴だとおもった。幻聴でもうれしかった。低体温のために動くことができず感覚が薄れ声も出せなかった。呼吸も浅く、ともすると意識も混濁してくる。だから林道を走る力強い足音がひたひたと近づいてきても、それはやはり深貴自身がつくりだした幻聴だとおもった。脳裏には江津の姿も浮かんでいた。
月夜の道を江津が走っていた。ひたひたと、強い脚で地面を蹴って自分に向かって走ってくる。江津の髪は後ろになびき、強靭な肺は空気を吸って吐き出し、全身の筋肉をバネにして走ってくる。なんて美しいのだろう。強くてやさしい江津。ぼくの大好きな江津。死ぬ前に、もう一度江津に会いたかった。
それが深貴の最後の意識だった。