第十話
「江津さんのところに深貴が行っていないですって?」
深幸は携帯電話を耳に押し当てて大きな声をだした。カーテンをめくってみると庭は真っ暗で防犯用のガーデンライトがやけに明るい。
「確かなんでしょうね、光瀬くん」
古志郎は江津のアパートから少し離れたところに佇んでアパートを見上げていた。腕にはモナームを抱いている。
「江美さんに電話して確認しました」
「じゃあ、深貴はどこにいるの」
「屋敷からアパートまでの道のりを探しながら歩いて来たんですが、モナームが交差点の信号の側道に落ちていたスマホと屋敷の鍵がついたキーホルダーを見つけました」
「なんですって。スマホとキーホルダーが?」
「キーホルダーは破損していました。それでGPSが使えなかったんです」
「なにかあったんだわ」
「バイクの接触事故があったようです。でも、軽い接触だったようで、歩いてどこかへ行ってしまったそうです」
「深貴が事故に」
「深貴くんとは限りませんが、可能性は高いかもしれません」
そばにいた信孝が深幸の手から携帯電話をとって耳に当てた。
「モナームと一緒にもうすこし範囲を広げて探してみてくれ。ぼくは警察に行ってくる」
「わかりました」
通話を終えたスマートフォンを深幸に返した。深幸は返された電話機をまじまじと見つめた。
「深貴が事故にあって行方不明……」
呆然とする深幸の肩を信孝は抱き寄せた。
「だいじょうぶだ。じきに見つかるさ」
警察に行方不明者届を出してくるといって信孝は部屋を出て行った。不安は信孝も同じだった。じきに見つかってくれればいいという願望がいわせた言葉だったが、言った本人も深幸も暗雲しか見えていなかった。
深貴は暗い公園のベンチに腰かけていた。ベンチの横には街路灯があるので少しは明るかったが、光が届かないところは闇だった。風が吹くたびに落葉した欅の枝がうごめいて、地面に落ちた影を不気味に動かす。夜の公園がぶっそうなのは知っていたが、途方に暮れてベンチにうずくまっていた。すると、無人だった公園にどこからともなく人が湧くように集まってきた。
彼らは段ボールの束を持っていて、風当たりが弱そうな樹木の中に入っていき、ナイロン紐と重しになる石を使って段ボールを組み立て、瞬く間に簡易な寝床をつくって収まった。
背中を丸めて動かないでいる深貴のところに初老の男がやってきて隣に座った。男の髪は油じみて固まり、肌も膠を塗ったように黒く光っている。着ているものは捨てられたものを拾ってきたかのように汚れていて、やはり段ボールの束を大事そうに抱えていた。
その男がにいっと笑って深貴にすり寄ってきた。深貴は男の歯がほとんど無いのを見てぞっとした。
「兄さん、いいものを着ているねえ」
男が深貴のカシミヤのコートを撫でた。
「いい肌触りだ。温かそうだねえ」
男は自分の小汚いコートを脱いで深貴に押し付けるとカシミヤのコートを剥ぎ始めた。コートを奪われることよりも汚い手が自分の体をさわることに本能的な嫌悪をおぼえた。逆らったつもりはなかったが、身を背けたことが男を怒らせたらしい。急に男は乱暴になった。深貴の頭を小突いて何度か腹を殴ってきた。腹筋などない深貴はあまりの痛さに呻いてぐったりした。
「だらしがねえなあ、兄さん。そんなんじゃあ、ここいらで生きていけねえぜ」
ふふっと笑って深貴の腕から時計を奪いカシミヤのコートを着てから、代わりに自分の汚れたコートを深貴に着せかけた。男のコートは脂じみた獣の臭いがした。
「俺ぁ、このあたりじゃ、ホトケの松っぁんと呼ばれているんだ」
そういいながら、深貴の皮靴を脱がして自分の靴と取り替える。底がすり減ってつま先が裂けているゴム長靴だった。足を入れると生温かくて湿った感触が気持ち悪い。不快のあまりえずいてしまった。すると、また殴られた。松っぁんは語調を和らげていった。
「行く当てがないんなら俺が面倒みてやるよ。ついて来な」
松っぁんはポンと深貴の肩を叩いて先導するように歩き出した。
深貴はごくりと唾を飲んだ。今までどこをどう歩いてきたのかもわからず、どこへ行こうとしていたのかもわからない。自分の名前も思い出せないし、どこに住んでいたのか、友人や家族も、なにも思い出せない。心にあるのは、誰かのところに行かなくてはならないという切迫感だけだった。さまよい歩き、疲れて公園のベンチに座り途方に暮れていた。だから深貴は、いわれるままに松っぁんのあとについて行った。
松っぁんは公園の公衆トイレの陰に段ボールで寝床をつくった。
「この時期は、ここが一番風当たりが弱いんだ。この穴場は俺のものだから、ほかのやつらは手を出さねえ」
松っぁんはそんなことをいった。人ひとりが横になれるくらいの狭さだったが、深貴の腕を引っ張って中に寝そべらせると、松っぁんは背中から抱きついてきた。密着した体温が気持ち悪くて深貴はもぞもぞした。すると頭をげんこつで殴られた。傷のところではなかったので助かった。深貴が怖くなって動きを止めると松っぁんは長い溜息をついてから眠ってしまった。
湯たんぽ替わりか、と深貴は緊張を解いて体から力を抜いた。なかなか寝付けなかったが、容赦なく入ってくる風の寒さや冷えるつま先に閉口しながらも、密着したところから広がってくる温もりに、いつの間にか眠っていた。
「いつまで寝てやがる」
腰を蹴られて目が覚めた。すでに日は高く、水色の空が梢の向こうに広がっていた。何時頃だろうとおもって腕時計を見たが、松っぁんに取られたことを思い出した。財布もコートのポケットの中だ。自分の身元がわかるものが入っているかもしれないのでトイレに向かう松っぁんに声をかけた。
「おじさん。ぼくのお財布を返してくれない?」
「そんなものねえ」
「そんなはずないよ」
「うるせえ。また殴られてえか」
後退って深貴は首を横に振った。松っぁんのあとに続いてトイレに入る。用を足して手と顔を洗い終わった松っぁんが、汚れたタオルで顔を拭きながらいった。
「これから教会に行くぞ」
「教会に? おじさんはクリスチャンなの」
深貴も顔を洗って、水の冷たさにふるえあがりながら、急いでセーターの下に着ていたシャツの裾で顔を拭いた。とてもではないが、松っぁんの汚いタオルを借りる気にはなれなかった。
「ばかいえ。今日は教会で炊き出しがあるんだよ。早く行かねえと無くなっちまう」
「炊きだし」
思わず腹をさすった。炊き出しと聞いたとたん、腹が鳴った。空腹の感覚に驚いた。いままで自分は、お腹を空かせたことがなかったような気がしたからだ。着ているものも、身に着けていたものも高級品だ。生活に不自由しているわけではなさそうだった。
段ボールをたたんでトイレの裏の目立たないところに立てかけて松っぁんは歩き出した。教会は住宅地にあって規模は小さかったが敷地には小さな庭があり、十人ほどのホームレスがすでに炊き出しを待っていた。
彼らは深貴を見て、こそこそ松っぁんに話しかけてきた。松っぁんが着ているカシミヤのロングコートや美しい腕時計も見逃さない。にやにや笑っているいくつもの目が深貴と松っぁんを行き来した。
「頭をやられているみてえだ。殴れば何でもいいなりだ」
松っぁんはそういって笑った。やがて炊き出しがはじまり、握り飯と温かい豚汁が配られた。
深貴は握り飯をほおばり豚汁をすすった。うまかった。空腹に熱い汁物がしみわたり、握り飯は腹にたまって力がわいてくる。深貴は気力を取り戻した。
「喰い終わったら行くぞ」
「え?」
松っぁんはついて来いというように歩き出した。
「ぼくはここで失礼します。いろいろありがとうございました」
「どこへ行くつもりだ」
「それは……」
「行く当てなんかあるのかよ」
「でも、行かなきゃ」
「だからどこへ」
「わからない……」
「だったらついて来い」
「――――」
「来いったら来い」
つかつかと歩み寄って松っぁんが拳骨で顔を殴った。深貴は地面に倒れた。唇が切れて口の中に血の味がした。深貴は恐ろしさに震えた。きのうも殴られたが、その時は頭がぼんやりしていて、あまり痛みや恐怖を感じなかった。しかし、今は暴力が怖かった。操られるように立ち上がり、松っぁんのあとにふらふらつい行った。
「早く歩け。仕事にあぶれるぞ」
深貴は歩くのが遅かった。急がなければとおもうのだが呼吸が異常に早くなりだし胸が苦しくなってきた。息をしているのに空気が肺に入ってこない。深貴は焦って夢中で呼吸した。そのうち手が痙攣しはじめた。足も震えて膝から力が抜けていく。寒さが一番厳しい季節だというのに緊張と恐怖のあまり発汗した。ついに深貴は地面に崩れた。口を大きく開けて目を剥いて手足を痙攣させ、せわしなく呼吸した。深貴の異変に気づいた松っぁんが戻ってきた。
「なんだ。病気持ちかよ。俺ぁ行くぜ。死ぬんなら一人で死にな」
そう言い捨てて松っぁんは歩きだした。落ち着け、と誰かの声が頭の中でした。若い男性の声だった。懐かしい声だと感じた。その声が、「落ち着け。ゆっくり呼吸しろ。一度息を止めて、そう、ゆっくり吐いて、その調子だ」と、頭の中で声が導く。目を閉じて気持ちを落ち着けて何度か繰り返したら落ち着いてきた。深貴は胸をさすりながら起き上がった。手足の震えは収まっていた。そして遠ざかっていく松っぁんをよろけながら追った。
松っぁんの目的地は駅裏の駐車場だった。そこにはマイクロバスが止まっていて、数人の男たちが、ネクタイにジャンパー姿のサラリーマンふうの男の前に並んでいた。ネクタイを締めた男はまだ二十代の後半という年齢で、バインダーに挟んだ用紙に男たちの氏名と年齢を順番に書き込んでいた。登録を終えた男たちがマイクロバスに乗り込んでいく。松っぁんが近づくと若い男は松っぁんの後ろからついてくる深貴に目を移して、「早くしてくださあーい。締め切りますよー」と、間延びしたしゃべり方でいった。
「お名前をお願いしまーす」
「クボタ」
と、松っぁんがいった。
「クボタさんね。年齢は?」
「五十二」
「五十二歳ね。はい、次のかたー」
深貴が答えられないでいると、若い男と松っぁんが、どうしたというように見てくる。松っぁんが舌打ちした。
「名前なんか、何でもいいんだよ」
そのとき、頭の中で若い女性が“みき”と呼びかけてきた。
「みき、です」
深貴は急いでいった。頭の中で呼びかけられた時、深貴はぞくっと身震いした。この声こそ、ぼくが会いに行こうとしていた人だと直感した。
「ミキさんね。年齢をお願いしますぅ」
答えられないでいると松っぁんが代わりに答えた。
「こいつは、子供っぽく見えるけど、二十二だ」
未成年ではいけない仕事なのかもしれなかった。
「では、乗ってくださぁーい」
深貴と松っぁんが乗り込むと、若い男はバインダーを運転手にわたして自分は乗らず、ドアをバタンと閉めてしまった。若い男も一緒に行くものとおもっていた深貴は、怪訝な面持ちで松っぁんを見た。松っぁんは空いている席に座ると腕を組んで目を閉じてしまった。ホームレスや、どんな仕事をしているのかわからないような男たちで満杯のマイクロバスは、街の中を群馬方面に向かって走りだした。
運転手は角刈りの頭に濃い色のサングラスをして革のジャンパーを着ていた。顎のところに古い傷跡があり、それが耳の付け根まで伸びていた。どうやってできた傷なのだろうとおもった。つい恐ろしさ見たさに目がその傷に吸い寄せられる。だが本能的に見ないほうがいいとおもって目をそらせた。
車は信号につかまりながら長いこと街の中を走った。トイレ休憩は駐車場のある大型スーパーかホームセンターですませて走り続けた。
都会の街並みを過ぎると田園風景が広がるようになり山が近くに迫ってきた。その頃には日が西に傾き赤く染まりだした空に心細くなってくる。
マイクロバスに乗っている男たちはしゃべらなかった。この車はどこに向かっているのか知りたかったが、聞くのははばかられた。深貴は怯えていた。不安のあまり、また呼吸ができなくなるのではないかときつく胸元の服を掴んでいた。そして、自分はどこに連れて行かれるのだろう、これから、どうなるのだろう、発作が起きたときに聞こえた声の男性は誰なのだろう、ぼくに“みき”と呼びかける女性は誰なのだろうと、記憶を探った。 思い出せそうなのに記憶はするりと逃げていく。でも、自分が“みき”という名前であることはわかった。みきが三木なのか、三城なのかはわからないが、そういう名前であることが分かっただけでも落ち着けた。
マイクロバスは国道を外れて二車線の舗装道路に入り、広い川に架かる橋を渡り、両側に山が迫った谷あいの集落に入っていった。マイクロバスが集落のはずれにある農家の前に止まったのは十九時を回ったころだった。その農家は明かりは点っているにもかかわらず生活臭が感じられなかった。タイヤの溝が入り乱れている庭には小型の油圧ショベルカーを積んだトラックと黒のフォードアが一台とまっていた。
マイクロバスを降りて狭い座席で凝り固まった体を伸ばせば、山が迫る頭上に星々が驚くほどの多さで煌めいていた。都会とは違う空気の透明さと冷たさに肺がぎゅっと引き締まる。車から降りた男たちは明かりがついている農家にぞろぞろ入っていった。
入り口の敷居をまたいで黒光りする土間に足を踏み入れると、障子が開けてある部屋に、グレーの作業着の上下を着た目つきの悪い男たちが四人、薪をくべた囲炉裏を取り囲んでタバコを吹かしながら酒を飲んでいた。
マイクロバスを運転してきた男が靴を脱いで上がると「遅かったじゃねえか」と、上座に座った男が睨み付けてきた。
「すいません」
一言謝って、手に提げてきたコンビニの大袋を六つ置き、中から弁当を四個取って男たちに配って回る。残りの弁当は送り込まれた男たちの夕飯だった。
顎に傷のある男は下っ端のようだった。縁側をまわったところにある大広間に案内されて、その夜はそこに寝ることになった。
冷え切ったトリのから揚げ弁当に割り箸をつけながら、深貴は心細くて涙ぐんだ。松っぁんに殴られた肩や腹がずきずき痛む。そういう痛みよりも、自分はどこに住んでいて、どこに向おうとして事故にあったのか、家族はいるのか、いるのなら探してくれているのか、それが知りたかった。
誰か、助けて。
かたくて油臭いから揚げを噛みながら涙をこぼした。怖い。助けて。心の中で叫ぶ。いつのまにか箸が止まっていた。すると松っぁんが深貴の弁当のおかずを横取りした。白飯しか残っていない弁当を、深貴は泣きながら口にはこんだ。
朝になって、グレーの上下の作業着と軍手とゴム手袋と長靴が配られたのでそれに着替えた。だが、深貴は松っあんのゴム長靴を履いていたので深貴だけ長靴はもらえなかった。しかたがないのでつま先が破けている長靴を履いて外に出た。
夜中に雨が降ったようで、いつ上がったのか地面はぬかるみ、日陰では霜柱が立っていた。山の中なので寒さが厳しく吐く息が白くなる。顎に傷のある男にマイクロバスに乗るように促され、全員が乗り終わると農家の前の道路を山のほうに向って走り出した。
道の窪みに雪が残っている道をいくらも行かないうちに舗装された道路は終わり、その先は凍った石混じりの林道になっていた。左側の山の斜面は杉が植林されていて、右側のほうは切れ込んだ急な谷になっている。車は山のきわに車を寄せるスペースがあるところで止まった。そこは何台もの車が強引に山のきわにバックして土がえぐれてできたようなユーターン場所だった。
降りるようにいわれて外に出ると寒さで息が止まりそうになった。冷たすぎる空気が肺に入って深貴はひどく咳き込んだ。藪に視界を遮られて谷底は見えなかったが、下のほうでせせらぎの音がした。川が流れているのだ。
顎に傷のある男がシャベルを配りだした。谷に捨てられているゴミを拾い集めて道路に積み上げておけと命令した。トラックを持ってくると言い置いてマイクロバスに乗り、来た道を戻って行った。
男たちに混じって深貴も谷を覗いてみた。業者がトラックで産廃を捨てに来るのか、ひどいありさまになっていた。こういう不法投棄は行政の管轄なのだが費用が掛かりすぎるため行政も手をこまねいているのが現状だった。
だが、これを放置しておくと谷を滑って川に落ちた産廃が、大雨や台風で水嵩が増した川の流れに押し流され、橋を破壊しダムをつくって川下の民家に被害を及ぼすので放置もできず、役場が業者に依頼したのかもしれなかった。下請けのそのまた孫請けの、果てはやくざがらみの業者にまで回ってきた仕事を、日雇いを雇って片付けるという構造なのかもしれない。
深貴は男たちのすることを真似して手袋を装着した。男たちはぶつぶついいながら急斜面に降りて行った。深貴のゴム長靴はつま先が破れているので斜面を降りると地面に染みた氷水が入ってきた。凍えるほどの冷たさが濡れたつま先から這い上って震えてくる。シャベルを杖代わりにして藪だらけの斜面に立ち、段ボールや合成ゴムのクズ、陶器、レンガ、マネキン、ショーケース、廃材などを見回す。溶けずに残っている汚れた雪がまぶされた手近なものをシャベルですくって道に放り上げた。
いくらも働かないうちに深貴の体が悲鳴を上げ始めた。自分の細い腕や足は労働に耐えられるようにできていないようにおもえた。では、自分はこれまでどのような生活をしていたのだろう。手袋をとって真っ白な手を見てみる。関節が細くて長い指だ。シャベルのように重いものを持つような手ではなかった。
「怠けてるんじゃねえ」
松っぁんが背中を殴りつけてきた。廃材の上に倒れこみ、木屑から飛び出ていた太い釘の先で額を切った。痛みが走り、みるみる血が出てきた。呻いてうずくまる。そのとき、頭の中でまた自分を呼ぶ声がした。あの女性の声だ。その声を聞いたとたん、スイッチが入ったように彼女の名前が浮かんだ。
「江津!」
声に出して呼びかけていた。江津の声だ! 江津がぼくを呼んでいる。一気に江津の記憶が溢れてくる。ほかのことはぼんやりしていたが、江津だけは鮮明だった。涙があふれてきた。自分は江津のところに行こうとしていたのだ。江津。ぼくの大切な江津。
「おい。逃げようなんて思うなよ。林道は隣の県に続いているが遠くて歩ききれるもんじゃねえ。谷に降りて川に沿って里にくだろうとしても崖ばかりだ。だからやつは見張りも置かずに車を取りに行ったんだ。よしんば駅にたどりつけても、見張りがいて連れ戻される。わかったか」
松っぁんがまた殴ろうとした。
「殴らないでください」
深貴はこぶしで涙を拭うと立ち上がった。松っぁんは反抗してきた深貴に虚を突かれたが、額から流れている血の多さに顔をしかめると、地面に唾を吐いて行ってしまった。
近くでそのやり取りを聞いていた男がさりげなく深貴に近づいてきた。三十をいくつか過ぎた男で、ホームレスというより引きこもりのような感じの男だった。男はそっぽを向いたまま小さな声で話しかけてきた。
「ヤバいぞ。日給だから車に乗っちゃたけど、食費とか宿代とかの名目でピンハネされて手元に残るのはいくらもないかもしれない。やってられねえ。一緒に逃げないか」
「スマホ持ってるなら、なんとかなるんじゃないの。タクシー呼ぶとか」
「電波が入らないんだよ」
長話は危険だとおもったのか、男は深貴から離れて石のように固まっている紙のブロックを拾い出した。深貴は男の誘いに乗ろうとおもった。屋敷から追い出された江津が心配だった。江津のもとに行かなくては。心は急いたが、慎重にならなければならないこともわかっていた。なんとしても江津のもとに戻る。そう心に誓ったとき、突然“吾子也”を思い出した。ぼくの子供。生まれたばかりの、ぼくの赤ちゃん。深貴はこらえきれなくなって泣き出した。
「江津! 吾子也!」
江津と吾子也への想いで胸がいっぱいになった。熱い涙がほとばしる。必ず帰る。江津と吾子也のもとに、ぼくは帰る。深貴は涙を拭って歯をくいしばり、土に埋もれた産廃を掘り起こしはじめた。
翌朝、重たい綿の布団を首まで引き上げて深貴は眉間にしわを寄せた。山の明け方の冷え込みは都会の比ではなく、布団にくるまっていても寒さで目が覚めた。まだ起きるには早いので、もう少し眠ろうとおもったが、どうにも寒くて眠れない。
きのうの労働で体中の筋肉が悲鳴を上げていた。身動きしただけで痛む。それに節々が痛くて体がだるかった。慣れないことをしたから疲れたのだろうとおもったが、顔を触ると熱かったので発熱しているのかもしれなかった。
やがて男たちが起きだして部屋の空気が動き出した。朝食は冷えたコンビニの握り飯とカップみそ汁だった。食事を終えて庭に止めてあるマイクロバスの前に集合した。顎に傷のある男が日当の袋を皆に配りだした。きのうの労働の賃金だった。松っぁんが寄ってきて、深貴の手から封筒を奪った。かってに袋を開けて深貴に千円札を一枚だけわたし、封筒ごと自分の上着のポケットに入れてしまった。深貴は手の中の千円札を見つめた。なぜだか涙が出た。どういう涙なのか自分でもわからなかった。
庭には空のトラックとショベルカーがあって、ショベルカーはトラックの荷台に乗せられていた。囲炉裏のある部屋にいた男が二人やってきてトラックに乗り込んだ。きのうと同じように男たちを乗せたマイクロバスが走り出すと、トラックはそのあとに続いた。
林道の作業現場には昨日集められた産廃がうずたかく積まれていた。それをショベルカーがトラックに移していく。谷は湿っていたがきのうより作業はやりやすかった。深貴はふらつく体でシャベルを地面に突き刺した。半ば埋もれている業務用レンジを掘り起こす。きのう、逃げようと誘ってきた男がまた声をかけてきた。
「おまえ、おやじに金を取られていただろ」
深貴は返事をしなかった。手足に力が入らないのでシャベルを持つ手に意識を集中する。男はまた話しかけてきた。
「トラックがいっぱいになって行ってしまうのを待ってから逃げるけど、おまえ、どうする」
深貴ははっとした。
「一緒に行く」
「掴まったら半殺しだぞ」
「い、いく。行かなきゃならないんだ」
「合図したら走れ。いいな」
深貴は大きく頷いた。